二 スウィート・ビターに祝福を②

 結婚の話を耳にしたのは、しばらく前。

 高校時代の旧友と居酒屋で偶然出くわしたときのことだ。

 俺は演劇サークルの飲み会幹事で、次の日は朝から集中講義が入っていたため、酒は控えめに飲み、それなりにほろ酔い気分で飲み会を楽しんでいた。こういう時間は存外に楽しい。へべれけの同級生をあしらったり、お酒が苦手な一年生に軽めのお酒を進めたりと、コミュニケーション能力が低くてもなんとか楽しめたりする。そんなとき、居酒屋の店員としてせわしなく働いている店員の中に、かつての同級生・瀬戸綾香の姿を見つけたのだった。

「お前、もしかして……高校のときの瀬戸か?」

「え、一体どちら様……ってまさか、小泉君? あのクラスで一番目立たない眼鏡系男子の小泉くん?」

 再会の第一声から、掘られたくない過去を掘り返されたけれども。

 瀬戸綾香と言えばクラスでもトップを争うおしゃべり好きで、天真爛漫で、太陽のごとき存在感を放つ女子生徒だ。初対面だろうが誰だろうが構わず馴れ馴れしく話しかけてくるので、最初の頃は少し鬱陶しく感じるが、徐々に彼女のペースに憑りつかれて行き、果てにはその饒舌っぷりに心地よささえ感じるという。

「いやー、それにしても小泉くんは随分とイメチェンしたね! ベリーグッド! あ、過去のキミを否定するわけじゃないからね? めんごめんご」

「あのなあ……」

 ちなみに俺は、そんな瀬戸に最後まで憑りつかれることがなかった生徒である。

 朱色のエプロンをつけた瀬戸は、店長らしき人物に向かって「少し時間くださーい!」と言ったかと思うと、返事も待たずに俺のそばに座り込んだ。

「まさか瀬戸が居酒屋で働いてるとはな。近くに住んでるのか?」

「金池町三角荘、二〇七号室でただいま猛勉強中でございます、小泉少佐」

「勉強? ってことは、どこかに就職するか、それとも資格でも取ろうってか」

「うんにゃ、ちょいと専門学校に入ろうと思っててね」

「へー……、まあ、頑張れよ」

「応援の言葉、しかと受け取りいたしました小泉大佐」

 数秒間で二階級特進した俺は、瀬戸の大げさなリアクションに首を傾げながら、軽めのチューハイを流し込む。


「あ、そうそう。小泉くんは加奈子が結婚するっていう話聞いてる?」


 瀬戸が思い出したように、問いかけたセリフ。彼女からすれば、単なる確認作業とかそういう類であって、俺の心中を見透かしての発言ではなかっただろう。だがその一言は、結果的に俺の中の何かを大きく揺さぶった。

 俺は前日、たまたま高校の時の卒業アルバムを開いて、懐かしい思い出に耽っていたのだ。たしか、飲み会でのネタ探しをしていたんだと思う。机上スタンドに照らされるのは、入学早々の教育合宿、体育大会、修学旅行、そしてクラスごとの生徒の写真。ページを吟味して開いていく内に、自分の中でくすぶっていたある想いが再びよみがえった。

 それは、文化祭のページを眺めているときのこと。

『ステージ発表、最優秀賞獲得! 三年二組』

 そんな縁取り文字が記された写真には、二人の役者が机に座って談話をしている場面が映し出されていた。

 俺たちがちょうど、三年前に演じた劇の一場面だ。

 当時の俺は演劇に興味を持ち始めたころで、文化祭でやりたいことの集計に軽い気持ちで演劇を入れたら、なんとそれが採用されてしまった。

 そのあと、演劇に興味のある人間と集計で演劇と書いた人間で集まり、劇の詳細を考えることになった。それで、どうしても人員が足りなくなり、結果脚本と役者を兼任することになった生徒が二人だけいた。

 成宮加奈子と話すようになったのは、それが初めてだった。

 高校三年生の秋にして、初である。

 俺たちはそれなりに成績が良かったため、三年生でありながら、放課後行われる補習を受ける代わりに劇の脚本を書いたり、演者がどのようにアクションするか試行錯誤する時間を許された。成宮は文芸部に所属していて、脚本にかけては他の追随を許さなかった。おそらくストーリーテリングの才覚があったんだろう。かくいう俺は帰宅部だったが、演劇についての知識なら他の追随を許さない……程ではなかったが、まあ、人に対して教えられる程度の造詣はあった。初めて演技をしてみせたときの成宮の驚いた顔は今でも覚えている。その後、すぐに笑顔になったから。

 その二人がタッグを組んだというだけあって、演劇の練習日程は合計で一週間しか確保できなかったにかかわらず、本番はミスゼロのパーフェクト、結果は最優秀賞と相成って大成功を収めた。写真の場面は俺と成宮がマーク・トウェインについて語っている場面だったと思う。そういう縁があって、俺と成宮は文化祭が終わってからも、定期的に話すようになった。授業の合間だったり、休み時間だったり、えてして話すことが多くなった。

 特にそれが顕著だったのは放課後。

 受験間近で、勉強のために図書館を利用するようになった頃だったと思う。人目につかない、要するに集中できる場所を探しているところ、俺は隅の方に座っている成宮を見つけた。彼女は分厚いハードカバーを手にページをめくりながら、愛おしそうに本を読み進めていたようだった。他の席があまり空いてないという理由をつけて、俺は彼女と対になるように座った。

 成宮はすぐに俺に気づいて、俺がテキストを開くと同時に話しかけてきた。

「あれ、小泉君じゃない。珍しいね、図書館に来るなんて」

「失礼だな。受験前だから、そんなもんだろう」

 このときはまだ自覚症状がなかった。ただ、肩身の狭い学校生活の中で、成宮と言う少しは気軽に話せる友人と、少しは静かな図書館。この相乗効果に期待して近くの席に座ったんだと思う。今考えれば、俺はこのときから成宮に、淡い恋心を抱いていたのだろう。当時の俺はまだ、自分の気持ちなど知ろうともしなかったが。

「そっかー、もうそんなシーズンだもんね。受験勉強お疲れ様です」

「どうもお世話様です。成宮は勉強しなくていいのか? 成績は良かろうと、勉強するふりはしていないと先生がうるさいだろ」

 成宮は首を横に振る。

「ううん、私実は大学には進学しないで、家業を継ごうと思ってるんだ」

「家業? 実家で何か、自営業でもしてるのか?」

「そそ。お父さんとお母さんが二人でカフェやってるの。最初はそこのウエイターやって、行く行くは店長をめざすんだー。昔からの憧れだったからね」

「へえ、なるほど……」

 机に肘をつき、嬉しそうに語る成宮。

 そんな成宮を見ているだけで、俺は口元が緩む気がした。

「でも、もし継げなかったらどうするんだ?」

「そこまではまだ決めてないかな。もし、なんて状況は考えてないし」

 俺は頷くことしかできなかった。

 夢は明確であった方がいいと思っていたので、残念ながら同意はできなかった。でも、成宮の笑顔を見ていると、どうでもよくなった。

 それほど、俺は成宮に心酔していた。

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