一 隣にいるということ①
「別に何も変わらなくていい」
携帯ゲームや登録サイトに縁のない俺に、なぜか迷惑メールがやって来た。
彼女――いや、元彼女以外からメールが来るなんて久しくなかったので、迷惑メールだとしても何となく嬉しかった。しかも何だ、その迷惑メール、一般的なものとは少し違った感じがして、どこか心理テストのようなものを含んでいる気がしたので、直感的に自分の考えを返信してみた。さて、数時間後にはどんな返事が送られてくるだろうか――と多少は楽しみにしていたが、さすがは迷惑メール、俺の律儀な返信も華麗にスルーしたのか、一日経ってもレスポンスはなかった。
まあ、正直メールの存在自体忘れてしまっていた。
そんな六月の昼下がり。
「マリオってさ、マリオだけどマリオじゃないよね」
カルボナーラを頬張りながら、そいつは真顔で言い放つ。
さてこいつは一体何を言っているんだろう。普段誰とも話さないせいで、ついに日本語能力が衰退してしまったのか。俺の金を浪費して、天井でプロペラが回っているイタ飯屋でカルボナーラを胃に収める暇があったら、日本語塾に通ったほうがいいんじゃないだろうか。俺は真摯に受け答える。
「駅前の日本語学校、評判いいらしいぞ」
「バカじゃないの?」
抑揚のない声で否定されると心が痛い。
「マリオってのは、いわゆるスーパースターの配管工じゃなくて、金池町に住んでる無精ひげで赤い帽子被ってていかにも配管工っぽい風貌してるけど実態は糞フリーターで糞パチンカスの糞男を指してるんだからね。勘違いしないで」
「俺の悪口ならネットに好きなだけ書いてくれ。今はそんな気分じゃない」
対面の幼なじみ――由紀の言葉を右から左へ受け流し、俺は深く溜め息を吐く。
「何? マリオとあろう者が悩みごとでも抱えてんの?」
「そうだよ、シロートは深入りするな」
「へえ。話変わるけど、アンタ久美ちゃんにパチンコバレて別れたんだって?」
話変わってねーよ。
「お前には関係ないだろ。足を突っ込むな」
「それを言うなら首を突っ込むでしょ。んくっ」
由紀はカルーアミルクを半分ほど嚥下して続ける。昼間だというのに。そもそもカルボナーラに合うのか? ってかこいつ仕事中じゃなかったか? あ、土曜日か。
「はあ、マリオってあだ名も皮肉なもんね。ゲームで活躍してるマリオは敵を倒して金を巻き上げつつ親玉を溶岩に突き落としてお姫様を助けちゃうんだから。ここにいるマリオとは大違い。あっちは英雄、こっちはてんでダメ人間。月とすっぽんとはこのことね、名前負けにも程度があるわ」
「言わせておけば。別に、俺は好んで呼ばれるようになったわけじゃない。周りが勝手にそう呼ぶようになっただけだ」
「そりゃ、四六時中そんな格好してるんだからそう呼ぶでしょうよ」
お説ごもっとも。
なるほど俺の格好はマリオだ。それは認める。赤いキャスケットに無精髭。私服OKの高校時代からこの格好を通してきてるから、たまたまこんな格好をしているだけとは言えない。一応反論してみよう。
「今日はたまたまこんな格好をしてるだけさ」
「いつもでしょ」
仮に言ったとしてもこうやってあしらわれる。事実だから認めるしかない。
俺は彼と比べられるのがコンプレックスだった。
彼、二次元世界のマリオは、そこまでイケメンではなくて、髭も生えているおじさんなのに、その類稀なる運動能力によって極悪な亀を倒し、姫を救い出して、やんごとなき身分を手に入れた。外見ではなく中身が功を奏した結果だ。それは彼に不断の努力の結果が実を結んだもの(なのかどうかは知らないが、だいたいそんな感じ)であり、ある意味では当然の結果とも言える。
さて俺。
同じマリオでもこちらはくそマリオ。
本名は上ノ原智志。
大学を中退した二五歳。渋い男という毒牙にひっかかり、見事にアラサーへの第一歩を踏み出してしまった愚かな人間の一個体だ。
自分で言うのもなんだが、顔は別に悪くはない。身長も一七八センチ、そこそこあるほうだ。自慢ではないがモデル事務所みたいなところからスカウトされかけたこともある。もっとも背後から声をかけられただけで、振り返った髭面を見て数メートル引いて行った。髭を剃っていたならなんとかなったかもしれないが、俺自身がモデルとかそういうものに興味がないので、結果は同じだったと思う。
まあ、なんだ。
説明も面倒なので結論づけると、彼と俺は真逆だってこと。
「ねえ、マリオ。……いや、智志」
「ん?」
本名を呼ばれ、由紀と目を合わせる。
「アンタはそれでいいの? いつも自分に勝る誰かと比べられて嫌にならないの? 私だったら、そんなの絶対に嫌。誰かと比較される人生なんて、絶対に、嫌」
マジ顔の由紀。もしくは、訝るような顔。由紀がこんな顔をしてる時はだいたい本気で俺の心配をしているときだが、俺は焦らない。
「んー、そうだなー」
プロペラのくるくる回っている天井を見上げながら呟く。
「どーでもいいかな」
「……今更後悔しても、間に合わないのよ?」
「だったら、最初から後悔しなければいい」
由紀は目を細めるが、俺は頬杖をついたまま続ける。
「明日に希望を持たなけりゃ、過去を省みることなんてしなけりゃ、絶望することも後悔することもない。今まで通り、黒猫みたいにひょうひょうと生きていくさ」
失敗しない、後悔しない、人生が良い。
どこかのバンドマンもそう歌っていた。
失敗したくなけりゃ、何もしなければいい。後悔したくなけりゃ、それも何もしなければいい。由紀は納得いかない、といった表情をしていたが、俺には関係ない。俺みたいな人間が気張って生きたところで、奇跡なんて起こりはしないのだ。
いつだってそうだ。
俺は選ばれない人間だった。
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