第217話 胎児

 裸の香が、ピンク色の液体の中に沈んでいる。


 香は液体の中で眼をつぶって、胸の前で手をクロスさせていた。

 膝を畳んで、胎児みたいに液体の中をたゆたっている。

 その口元が少し微笑んでいるように見えるけど、なにか良い夢でも見てるんだろうか?


 部室のお風呂場になみなみと張ったジェルみたいに粘度のあるピンクの液体は、焼けた香の肌を元に戻す溶剤だってことだ。

 綾駒さんが調合して、僕たちはその中に傷ついた香を入れた。

 液体の中にポンプで空気を送っていて、それがコポコポと音立てている。

 風呂場のタイルの壁に、その一定間隔の音が反響していた。


「大丈夫、この中に48時間も漬けておけば、香ちゃんは元に戻るから。前よりもピチピチのお肌になって、オリンピック前のお化粧に丁度良かったかもね」

 綾駒さんが言った。


 深刻なダメージがなくて、一安心だ。



 昨晩、大雨の中に飛び出して行った香が雷に打たれたときは、どうなるかと思った。

 玄関の整備台に乗せた香が息を吹き返したときには、みんなで抱き合って喜んだ。

 千木良なんか人目もはばからずに泣いた。

 柏原さんの見立てによると、幸い、メカ部分には大きなダメージがなかったらしい。

 数本のアクチュエーターの交換で、修理は済んでしまった。

 それで今は、綾駒さんがこうして外装のケアをしている。



 朝になって、空は昨日の雨が嘘みたいに晴れていた。

 林の中では何事もなかったようにせみが大合唱をしている。

 濁流だくりゅうになっていた獣道は、水が引いて通れるようになった。

 停電も早朝のうちには直って、今は普通に電気が使える。


 ただ一つ、雷が落ちた林の大木が真ん中辺りで折れていて、昨晩の出来事が夢じゃないって教えてくれた。


「直撃じゃなかったのが良かったのかもね」

 烏丸さんが言う。

 烏丸さんは、パーカーを着て、居間の畳の上に寝っ転がっていた。

 僕達は、昨晩から徹夜していたこともあって居間でダラダラしている。


「うん、香もホントにびっくりしたよ」

 弐号機の口を使って香が言った。

 アクチュエーターとかむき出しの弐号機の機械の体が、香そっくりに肩を竦める。

 香に搭載されているAIのほうも無事だったから、香はこうして弐号機の体を動かすことが出来た。

 風呂場で浮かんでいる本体の香が、こうして弐号機をしゃべらせている。


「まさか、本当にフラグを回収するとはですね」

 滝頭さんが言って、みんなが笑った。


 こんなふうに笑って話せるのも、香が無事だったからだ。

 あとで振り返って、これも良い思い出になるんだろう。



 みんなで居間でダラダラしたり居眠りしたりしながら、僕は、ここに千木良がいないことに気付いた。

 いつも懐に抱っこしてる千木良がいないから、なんとなく手が寂しい。


 コンピュータールームのほうに気配がして、千木良はそっちにいるのかもしれない。

 僕は立ち上がって千木良の様子を覗きに行った。



「千木良、どうした?」

 千木良は椅子に座ってディスプレイとにらめっこしている。

 近くに雷が落ちた中でも千木良のワークステーションは無事で、普通に動いていた。

「ええ、ちょっとね」

 いつになく、不安げな顔をしている千木良。

 千木良の前の六面のディスプレイには、僕にはまるで意味が解らない数値が並んでいる。

「香のAIに異常がないか調べてたの」

 千木良がディスプレイを見たままで言った。


「なにか、マズいことでもあった?」

「いいえ、正常よ。正常すぎて怖いくらい。それどころか、今までよりも高速に学習を進めていて、びっくりしてるの。香のAIが急成長してる」


「それは、雷に打たれたことと関係があるの?」


「ええ、あるかもしれない。回路のどこかに異常な電流が流れたことで、作った私にも解らない、異変が起きたのかも…………それも、想像でしかないんだけど……」

 千木良が呆然とした顔をしてるから、僕はその口にキャベツ太郎を放り込んでおいた。

 千木良は、ディスプレイを見たままキャベツ太郎をカリカリ食べる。

 夢中になると我を忘れるのは、千木良も我が部の女子だって実感する。


「今のところ正常に動いてるから、大丈夫だとは思うんだけど」

 千木良がそこまで言って大あくびをした。

 千木良も昨日からほとんど寝ていないのだ。


「さあ、香のチェックは一旦止めて、昼寝でもしよう」

 僕が言うと、千木良は「そうね」って言いながら僕に手を差し出してきた。

 抱っこしろと言ってるんだろう。

 僕は、千木良を抱っこして居間に向かった。



 居間でみんなとまったり昼寝してたら、

「みんな、大丈夫!」

 急に玄関が騒がしくなった。

 獣道を抜けて誰かが部室にやって来る。


 玄関にいたのは、誰あろう、うらら子先生だ。


 僕達はすぐに起き上がる。

「先生! どうしたんですか?」

 朝比奈さんが訊いた。

 スーツ姿の先生は、玄関にスーツケースをほっぽり出して居間に上がる。

 先生のスーツにはたくさんのしわが寄っていて、くたびれて見えた。


「大雨のことを訊いて、研修を切り上げて飛んで帰ってきたの」

 先生が言う。

 先生、ここまで走って来たみたいで息が荒かった。


「僕達はみんな大丈夫です。先生のほうこそ、研修抜け出して大丈夫なんですか?」

 僕が訊く。


「うん、可愛い生徒達と研修だったら、可愛い生徒のほうが大事だよ」

 先生が言った。

 僕達みんなを見渡して、全員無事なことを確認すると、先生、力が抜けた見たいにスッと肩が下がる。

 朝比奈さんが台所から麦茶を持ってきて、先生はそれを一息で飲み干した。


「ゴメンね。大変なときに、近くにいてあげられなくて」

 先生が言って、僕達は全力で首を振る。


 電話かLINEで確認すれば済むことなのに、こうして帰って来てくれた先生。

 何があっても、まず僕達のことを考えてくれるのは、やっぱりうらら子先生だ。


「全力で走ってきて汗かいちゃった。ちょっとシャワー浴びてくるね」

 先生はそう言うと、風呂場の前にカーテンを引いて、服を脱ぎ散らかした。

 そのまま、僕達が止める前に、さっさ風呂場に入っていく。


「キャーーーーーーーーーーーーー!」


 すぐに悲鳴が聞こえて、先生が風呂場から飛び出してくる。

 水の中に胎児のように浮かんでいる香を見て、びっくりしたんだろう。


「香ちゃんが! 香ちゃんが!」

 先生が必死に訴えかけた。


「先生、その件については説明しますから、とりあえず前を隠してください」

 僕は、全裸の先生に向けてそう言った。


 やっぱり、うらら子先生だ。

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