第198話 大根

「あれぇ、お塩がなかったぁ」

 部室の台所から、朝比奈さんのそんな声が聞こえた。

 やっぱり、いつ聞いても耳に心地いい、小鳥のさえずりのような声だ。


 そんな声がしてから少しして、台所からエプロン姿の朝比奈さんが顔を出した。

「ねえ、誰か、お塩を買いに行ってもらえないかな? 私、今煮物をしてるから、お鍋の前から離れならないの」

 朝比奈さんがすまなそうに言う。


「すまない。僕は今、先生のランクルから外したショックアブソーバーのオイル交換をしていて、手が離せないんだ」

 玄関の土間から顔を出した作業着の柏原さんが言った。


「ごめんね。私も、『ミナモトアイ』チャンネル登録者50万人記念フィギュア、クリアバージョン限定50個、税抜き価格6800円の箱詰め作業をしてるから、手が離せないよ。リスナーを待たせたら悪いからね」

 居間のちゃぶ台で作業をしていた綾駒さんが、かなり説明的なセリフを言う。


「わわわ、私も、香の次のアップデートで使うプログラムに欠陥が見つかったから、そのバグ取りで忙しいわ。ああ、忙しい」

 同じように居間でノートパソコンとにらめっこしていた千木良が、多少噛みながら言った。


「先輩、申し訳ありません。私はうっかり充電をおこたってしまったので、しばらく動けません。充電が終わるまで、二時間くらいかかってしまうのですが、その後でよろしければ……」

 居間の畳の上で寝っ転がっている滝頭さんが言う。


「西脇君は?」

 朝比奈さんが僕を見た。


「僕も、今こうして千木良を抱っこしてるし、『千木良の口にキャベツ太郎を放り込む仕事』で忙しいから、残念だけどおつかいにはいけないな」

 本当は今すぐにでも朝比奈さんのために駆け出したいところだけど、僕は泣いて馬謖ばしょくる思いで我慢する。


「私も、昨日呑み過ぎて二日酔いだから、おつかいどころじゃないわ。柏原さんに整備してもらってて、車も出せないしね」

 二日酔いで昼間の授業はどうしたんだって疑問は置いておいて、うらら子先生が言った。


「そっかー、みんな手が空いてないんだねー。どうしようかなぁ。困ったなぁ。ああ困ったなー。困ったなー」

 朝比奈さんが、棒読み加減で言う。

 天使のような性格の朝比奈さんは、人をだますことが苦手なのだ。

 演技に失敗する朝比奈さんは、それはそれでカワイイ。



 すると、そんな僕達のり取りを見ていた香が、

「それじゃあ、私が行こうか?」

 そう言った。


「ええっ! 行ってくれるの?」

 朝比奈さんが歓喜の声を出す。

「うん、いいよ。何を買ってくればいい?」

「えっとね。このメーカーのお塩買ってきてくれる?」

 朝比奈さんがその瓶を香に見せた。

「うん、分かった!」

 香はあっさりと頷く。


「ああ、それなら僕も、ショックアブソーバー用のオイルを買ってきて欲しいんだ」

 柏原さんが言った。香に、オイルのメーカーと商品名を見せる。


「あっ、それなら私も、丁度、ガイアノーツの塗料、ボ○ムズカラーのライトグリーンを切らしてたからそれを買ってきて。これがないと、ス○ープドックが塗れないの」

 綾駒さんが頼んだ。

 ス○ープドックを塗る女子高生は綾駒さん以外いないと思う。


「私も、ついでに、PCの水冷用のクーラントを買ってきて欲しいわ。チューブの中に気泡が入って、少し音がうるさいの」

 千木良が言った。

 PC水冷用のクーラントは、ついでに買ってくるものじゃないと思う。


「私は、今ちょっと小腹が空いたので、適当なお菓子を買ってきてください」

 滝頭さんが言った。

 おい、自分がアンドロイドだっていう設定、どこ行った。

 それに、「適当なお菓子」っていう、高度な注文の仕方……


「僕も、千木良がいつもキャベツ太郎ばっかりで飽きそうだから、『玉葱たまねぎさん太郎』を一袋買ってきてくれるかな?」

 ホントは千木良はキャベツ太郎一筋なんだけど、僕もなにか頼まないとって思ったから頼んだ。


「うん、分かった。行ってくる」

 香は笑顔で言った。もちろん香は僕達の要求を全て空で覚えていて、人間みたいにメモをとる必要はないんだろう。


 香が部屋着の白いワンピースのまま外に出て行こうとするから、帽子を被せた。

 朝比奈さんが顔にマスクもつけてあげる。

 顔が朝比奈さんと同じなだけに、それで周囲が混乱したら大変だ。


「ほら、お財布も持って。お金が入ってるからなくしたらだめだよ。おつりが出たら、それで好きなもの買っていいから」

 帽子とマスクで変装させた香に、先生が言い含める。

「はーい!」

 って、香が子供みたいな返事をした。


「一人で大丈夫?」

 僕が訊く。すると、抱っこしている千木良が僕の腹にひじを入れた。

 僕もマズいと思った。

 せっかくおつかいに行くって言っている香の決心が、ここで鈍ったら大変だ。

 しかし香は、

「大丈夫だよ。行ってくる」

 笑顔で言って、その決心は鈍らなかった。



 僕達は、香をおつかいに行かせようとしている。

 香をもっともっと人間らしくするために、「初めてのおつかい」に出して、世間を経験させようと考えたのだ。

 香はゴルフを覚えたり、車の運転が出来るようになったものの、まだ世間知らずだ。

 この前オリンピックの予選会に行ったりしたけど、香が部室の外の世界に触れる機会は少なかった。徐々にそれを増やしていきたい。

 オリンピックの歌やダンスの審査では、その魅力で人々をきつけることも大切だろう。世間を知っておくことが大切なのだ。


 そんなわけで、香がメンテナンスでシャットダウンしている間に、部のメンバーで話し合って、香がおつかいに行く自然な流れの打ち合わせをした。

 そう、自然な流れ。

 自然とは…………


 まあ、所々怪しいところはあったけど、香がおつかいに行くって言うんだし、どうにか成功した。


「じゃあ、行ってくるね」

 香はそう言って部室を出て行った。


「いってらっしゃい」

 僕達は玄関で香を見送る。

 なんだか、娘を送り出すような気分だった。

 外の世界に興味津々きょうみしんしんなんだけど、まだ外の世界が怖くて、その狭間はざまで戸惑っている娘を送り出す感じ。


 まあ、僕には娘どころか、まだ彼女もいないんだけど。


「さあ、追うわよ!」

 香が木々の中に消えて見えなくなったところで千木良が言った。


 僕達も急いで着替えて、香を追いかける。

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