第149話 スイートホーム

「遅くなりました!」

 約束の時間ギリギリで着くと、玄関のドアを開けて、その人が僕を迎え入れてくれた。

 二十前半の、僕よりもちょっと年上の男の人だ。


「いらっしゃい、霧島です。君が西脇君だね」

 その人が僕に微笑みかけた。

 ボタンダウンのシャツにチノパンの、スッキリとした服装のその人。


「はい、うらら子先生に紹介して頂いた、西脇馨です」

 僕は丁寧に頭を下げる。


「どうぞ入って」

 物腰が柔らかい、優しそうな人だった。


「はい、おじゃまします」

 僕は靴を脱いで家に上がる。


 外観からして、下見板張りの可愛らしい家だったけど、室内も所々に花が飾ってあったり、居心地が良さそうなところだった。

 家の中は、桃のような、花の香りのような、甘くてさわやかな香りがする。


 僕はそのままリビングに通された。


 そのリビングに、三歳くらいの女の子がいる。

 金色の綺麗な髪をした、愛らしい女の子だ。

 彼女はチェックのワンピースを着て、黒いレギンスを穿いている。


 その子は僕を見ると、恥ずかしがって霧島さんの後ろに隠れてしまった。



「フレドリカ、こんにちはしなさい。このお兄ちゃんが、フレドリカの面倒を見てくれるお兄ちゃんだよ」

 霧島さんが言う。


「こんにちは……」

 フレドリカと呼ばれたその子が、霧島さんの上着の裾をギュッと握ったまま、小さい声で言った。


 フレドリカって変わった名前だ。

 どういう字を書くんだろう?


「こんにちは、よろしくね」

 僕が微笑みかけると、フレドリカちゃんは恥ずかしそうに下を向いてしまう。


「荷物はそこに置いて」

 霧島さんに言われて、僕は学校帰りの鞄をソファーの脇に置いた。


 部員のみんなが今頃、どこかの店に入ってケーキでも食べながら僕の噂話でもしてるのかもしれない。急にくしゃみがしたくなる。




 僕は、この家にベビーシッターのアルバイトをしに来た。


 目前にせまったホワイトデーに向けて、お金が必要だったから、少しでも稼ごうって考えたのだ。


 今年は、部活のみんなや、いばら学院女子のみんなからもチョコレートをもらってしまって、手持ちのお小遣いだけではお返しのプレゼントを買うのに資金が心許こころもとなかった。


 うちの学校は基本的にアルバイトが禁止されていて、アルバイトをするには許可が必要だから、そのことをうらら子先生に相談したら、うらら子先生がこのベビーシッターのアルバイトを紹介してくれた。


 この霧島さんの奥さんが高校教師をしていて、うらら子先生の先輩に当たる人らしい。

 ちょうどベビーシッターを探しているのを聞いた先生が、それならばと僕を推薦してくれたのだ。


 僕の方も先生が紹介してくれたところならって、それに飛びついた(僕がアルバイトすることは、部員のみんなには内緒にしてくださいってお願いしてある)。



「僕はこれから妻の病院に行くから、そのあいだ、フレドリカのことをお願いできるかな?」

 霧島さんが言った。


「はい…………でもあの、奥さん、どこかお悪いんですか?」

 僕は、訊いてしまってから不躾ぶしつけだったかなって後悔する。


「ああいや、ほら、この子の妹か弟がもうすぐ生まれるから、それでね」

 霧島さんが言った。


「ああ、そうなんですね。おめでとうございます!」

 僕が言うと、霧島さんは「ありがとう」って少し照れながら言った。



「それで、西脇君はこういう小さい女の子の世話とかは大丈夫かな?」

 霧島さんが真剣な顔で訊く。


「はい、僕は毎日こういう小さい女の子を抱っこしてますし、その子にもなつかれてるので、大丈夫だと思います」

 その子とはもちろん、千木良のことだ。


「毎日小さい女の子を抱っこしてるって?」

 霧島さんが、いぶかしげに訊いた。


「ああいえ、その子は妹みたいなものなので……」

 同じ高校に通う飛び級した幼女で、世界的企業の令嬢っていう千木良のことを説明するのが大変そうだったから、僕はそう言っておいた。


 抱っこしてほっぺたすりすりするだけだし、妹っていうのは大体間違ってないと思う。


「ふうん。まあ、佐々先生の紹介だから、間違いはないと思うけど」

 霧島さんはそう言って納得してくれる。



 僕は、霧島さんからフレドリカちゃんのおやつがある場所とか、彼女の好きなもの、嫌いなもの、ぐずったときの対処方や、困ったときの連絡先なんかの説明を受けた。


 説明を聞きながら、フレドリカちゃんも段々慣れてきたのか、僕を突っついたり、ちょっかい出すようになってくる。


 これなら留守番のあいだ、二人でもなんとか仲良くやっていけそうだ。




「パパばいばい」

 フレドリカちゃんが手を振る。

「バイバイ、お兄ちゃんの言うことよく聞くんだよ」

 夕暮れの中、霧島さんが青いイタリア車でガレージを出て行った。



「それじゃあ、中に入ろうか」

 僕が言うと、

「うん」

 フレドリカちゃんが大きく頷く。

 彼女が手を伸ばして来たから、僕達は手を繋いで家の中に入った。



 慣れたといっても、まだまだフレドリカちゃんは僕に対して完全には警戒を解いてないみたいだ。


 彼女が居間のチェストの方を見てるからなにかと思ったら、すがるようにお父さんとお母さんが写った家族写真を見ていた(写真を見る限りフレドリカちゃんのお母さんは外国の人みたいで、彼女の金色の髪はお母さん譲りだった)。


 彼女なりに、お父さんとお母さんがいないことに耐えてるのが分かっていじらしい。



「フレドリカちゃん、なにして遊ぼうか?」

 僕は、彼女を安心させるように、しゃがんで視線を合わせて訊いた。


「ご本を読んでほしいの」

 彼女が恐る恐るって感じで言う。


「うん分かった」

 僕が頷くと、フレドリカちゃんは壁際の本棚から一冊の本を持ってきて、僕に渡した。


 僕はソファーに座って、彼女を抱っこしながら本を読んだ。

 読み聞かせっていうんだろうか。


 フレドリカちゃんは、食い入るように絵本を見ていた。

 僕なんかが下手に読むのを、楽しそうに訊いてくれる。

 昔、こんなふうにして野々に本を読んでやっていたのを思い出した。

 その頃は僕もまだ漢字とか読めなかったから、でたらめな読みだったけど。



 それにしてもあれ? 今日は千木良から解放されて、抱っこしなくていいはずなのに、結局僕は幼女を抱っこしている。

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