第146話 酢飯の香
日曜日の朝、僕は早起きして家を出た。
いつもと違ってガラガラの電車に乗って、学校に向かう。
休みの日に学校に行くのに、僕はなんだかワクワクしていた。
電車の車窓から見える空は曇っていて、時々小雨が降るあいにくの天気だけど、それさえも
運動部が休日練習しているグラウンドを横目に、僕は、裏門から校舎裏の林を目指した。
林の
鍵は、金曜日のうちにうらら子先生から預かっていたものだ。
誰もいない部室は、しんとしていた。
電源を落としてある香が、
動かない香は、なんだか少し怖かった。
いつも僕達の周りを動き回っているときには、自然すぎて香がアンドロイドだってことを忘れるくらいなのに、こうして止まっていると、急に人形然としてくる。
これは、汐留み冬さんの球体関節人形と並んで座ってるからだろうか。
人形といえば、居間にはみんなで並べた七段飾りの雛人形も飾ってあった。
今日は、ある意味このお雛様が主役だ。
午後からここで、部員のみんなとうらら子先生で、ひな祭りパーティーが開かれることになっていた。
香の初節句でもあるし、みんなでお祝いしようって言ったら、休日にも関わらず、一人も欠けることなく来てくれることになった。
部員がこんなふうに熱心なのは、部長として本当に嬉しい。
みんなも準備を手伝うって言ってくれたけど、今日は女の子の節句なんだし、準備は全部僕がするって買って出た。
みんなは、午後から手ぶらで来てくださいって頼んである。
窓を開けて八畳間と居間を軽く掃除したら、僕は台所に入った。
台所で、まずは、米をといでご飯を炊く準備をする。
みんなに振る舞うちらし寿司用の、酢飯を作るためだ。
今日のメニューは、ちらし寿司とはまぐりのお吸い物に、デザートで、
作り方は母から習って、昨日の土曜日、野々や母に食べてもらったから、とんでもない失敗をしない限り、僕にも作れると思う。
ご飯が炊けるのを待つあいだ、具材の準備で、
玄関の引き戸が開く音だ。
誰だろう。
僕は、玄関を見に行く。
「柏原さん!」
玄関には、私服姿の柏原さんがいた。
カーキ色のミリタリーコートに、ジーンズとブーツの柏原さん。
いつもながらカッコイイ柏原さんが、玄関に立っている。
「どうしたの?」
時刻はまだ、八時を回ったばかりだ。
「ああ、西脇一人じゃ大変そうだから、僕も手伝おうと思ってさ」
柏原さんが、頭を掻きながら言った。
「そんな、今日は女の子の節句なんだから僕が全部やるよ」
今日は、僕がホストとして頑張るつもりだ。
「まあ、いいじゃないか。もう、来ちゃったし。それにほら、僕は、『女の子』ってがらじゃないしさ」
柏原さんが、照れながら言った。
「そんなことないよ。柏原さんは、カッコよくて可愛くて、素敵な女の子だよ」
僕が言ったら、柏原さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、「ありがとう」って言う。
「まったく、西脇には敵わないな」
そんなことも言った。
結局、二人並んで台所に立った。
僕が薄焼き卵を切るあいだに、柏原さんは酢飯に入れる
台所が狭くて、柏原さんと体がくっついて緊張した。
「どうした?」
柏原さんが訊く。
「うん、ちょっと、近いから……」
僕は正直に言ってしまった。
「西脇はいつも、千木良を抱っこしてるし、朝比奈や綾駒とくっついてるから、そんなの気にしないのかと思ってたぞ」
柏原さんが僕の顔を覗き込んで言う。
「いつも三人がくっついてるんだから、今日ぐらいは、僕がくっついてもいいよな」
柏原さんはそんなことを言いながらもっと距離を詰めてきた。
柏原さんのほうが背が高いから、僕は見下ろされる形になる。
僕の二の腕に、なにか柔らかいものが当たった。
柏原さんは分かってるはずなのに、そのままにする。
僕は、自分が顔を耳まで真っ赤にしてるのが分かった。
横目で柏原さんを見たら、柏原さんも耳まで真っ赤になっている。
二人とも顔を真っ赤にしながら包丁を動かした。
台所に、トントンと包丁の音だけが響く。
僕達二人とも、頭のてっぺんから湯気を噴き出しそうになったところで、炊飯器から、ピロピロピーって、音程が外れたメロディーが流れた。
ご飯が炊けたのだ。
「それじゃあ、ご飯が炊けたから、酢飯をうちわで
僕は、我に返って柏原さんに頼んだ。
「ああ、任せとけ」
柏原さんが真っ白な歯を見せる。
「それにしても、千木良の機嫌が直って良かったな」
寿司桶のご飯を扇ぎながら、柏原さんが言った。
野々が我が校に合格したことでナーバスになって、一時、コンピュータールームに籠もっていた千木良は、僕の説得で部屋から出て来て、雛人形を並べるのを一緒に手伝った。
あの後、僕に対して憎まれ口を叩いてたから、いつもの千木良に戻ったみたいだ。
しおらしい千木良もいいけど、やっぱり、千木良は生意気なほうがいい。
「でもな、西脇、野々ちゃんがこの学校に入って来るってことで
柏原さんが言う。
「えっ?」
「他にも、焦ってる奴がいるってことだ。それで、そわそわして、いてもたってもいられない奴とかさ」
柏原さんはそう言って、扇ぐスピードを速めた。
柏原さんが扇ぐたびに、ツンと、お酢の良い香りがする。
一体、誰がそんな心配してるんだろう?
柏原さん、誰のことを言ってるんだろう?
酢飯が出来たら、具材をその上に盛り付ける。
デザートの菱餅型レアチーズのほうは、プレーンのレアチーズケーキの他に、
母のレシピ通りに、我ながら良く出来たと思う。
出来上がったレアチーズケーキを冷蔵庫に入れてたら、また、玄関の引き戸が開く音がした。
「西脇君、来たよー!」
今度は声ですぐに分かる。
綾駒さんの声だ。
まだ、十一時前なのに、約束の時間より前に来たのは、これで二人目だ。
「ふう」
綾駒さんの声を聞いて、柏原さんが大きく息を吐いた。
「どうしたの?」
僕が訊く。
「いや、なんでもない」
柏原さんが慌てて首を振った。
やっぱり、今日の柏原さんは、ちょっと変だ。
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