第130話 寝正月

「香ちゃん、ちょっと、お醤油しょうゆ取ってくれる」

 うらら子先生が、香を呼んだ。

「はい、先生」

 エプロン姿の香が、先生の手の先、10㎝のところにあった醤油を取ってあげた。

 白いブラウスに紺のスカートで、ピンク色のエプロンの香。


「香ちゃん、この本、棚に片付けて来てくれる?」

 綾駒さんが、読み終わった薄い本を香に渡す。

「はい、唯ちゃん」

 香は、綾駒さんから預かった薄い本を、居間の隅にある綾駒さんの本棚に仕舞った。


「香、私の代わりにトイレ行ってきて」

 千木良が言う。


 千木良、それは無理だ。



 女子達は、コタツと一体化していて、そこから一歩も出ようとしなかった。


 年末から断続的に続いているうたげが、年を開けてもまだ続いていている。

 焼き肉パーティーとも、忘年会とも新年会とも言える集まりで、僕達は家に帰ったり帰らなかったりしながら、うらら子先生が常駐する部室に入りびたっている。


 うらら子先生と、朝比奈さんに綾駒さん。

 冬休みは両親と旅行とか言ってた千木良も、結局ここにいた。

 いつもセンチュリーで待機している運転手さんを早々に帰してしまったから、ずっとここにいるつもりなんだろう。


「ああ、香ちゃん、そこの『ご○うさ』本とって」

 綾駒さんが言った。

 綾駒さんは年末にコミケで抜けた以外、ずっとここにいる(コタツのなかでその戦利品をずっと読んでいる)。


「香ちゃん、ワサビ切れちゃった。冷蔵庫から新しいのお願い」

 さっきから焼酎のお湯割りにワサビを入れて飲んでいるうらら子先生が頼む。


「香、ちょっと手を拭いて」

 千木良が、キャベツ太郎の青のりで汚れた手を香の前に出した。



「もう、みんな、香をこき使わないでください!」

 僕が注意する。

 香は、僕達が精魂込めて作ったアンドロイドで、先端技術の結晶なのだ。

 そんな細々こまごました用事を言いつけるために作ったんじゃない。

 香が素直でどんな頼みも断らないからって、みんな図に乗りすぎている。



「なによ、西脇君だって、朝比奈さんに耳掃除してもらってるじゃない」

 先生が言った。


「いえ、これは……」

 僕は、朝比奈さんのももに頭を乗せて、耳掃除してもらっていた。

 その柔らかい太股に頭を預けて、こちょこちょしてもらっている。


「はーい、西脇君、今度は左耳ね」

 朝比奈さんが言うから、僕は寝返りを打って反対側の耳を朝比奈さんにさらした。

 寝返りを打ったから、僕の顔が朝比奈さんのお腹の方を向く。

 セーターとブラウスとスリップ、布三枚へだてた僕の目の前に朝比奈さんのおへそがあると思うと緊張する(僕はそれの透視をこころみてガン見する)。


「ほーら、西脇君。動くと、怪我しちゃうぞ」

 朝比奈さんがそう言って僕の頭を抑えた。

 こんな幸せな状態なら、怪我したっていいと思った。

 このまま、朝比奈さんに耳かきをぶっさされて、左耳から右耳まで頭の中を貫通してもいいくらいだ。


「ほら、動かないの」

「うん、でも、千木良が動くから」

 朝比奈さんに耳掃除をしてもらいながら千木良を抱っこしてるから、千木良が動くと僕も動いてしまう。


「こら、千木良、動くんじゃない」

 僕は注意した。

「なによ、あんたが横になってるから、食べにくいんじゃない」

 千木良は、終始、キャベツ太郎を食べている。



 僕達は、そんな、ごく普通のまったりとしたお正月を過ごしていた。



「それにしても、柏原さん、よく走るわね」

 テレビを見ながらうらら子先生が言った。


 居間のテレビでは、箱根駅伝の中継が流されている。


 テレビの中継車のカメラが沿道に向けられるたびに、選手の横を走る柏原さんが映り込んだ。


 青いジャージ姿の柏原さんが、駅伝ランナーと共に併走へいそうしている。


「柏原さん、元旦にマラソン大会に出たっていうのに、よく、体力持つわね」

 先生が言うとおり、柏原さんは元旦に地元のマラソン大会に出て、成人女子の部ではもちろん、成人男子の部の優勝ランナーもぶっちぎって優勝してしまった。


「柏原さん、自分の走りがどれだけ通用するか試すとか言ってましたよ」

 綾駒さんが言う。


 柏原さん、大学の男子ランナー相手に、何を試そうというんだ……



「ねえ、みんなで、初詣はつもうでで行こうよ」

 僕の耳を掃除をしていた朝比奈さんが、みんなに呼びかけた。


「いやよ、寒いし」

 赤ら顔のうらら子先生が言う。


「そうだね。このコタツから、一歩たりとも出たくないな」

 綾駒さんが言った。


「問題外ね」

 千木良も言う(朝比奈さんに生意気な口をきくから脇腹をくすぐっておく)。


「僕も、あんまり行きたくないかな」

 僕は出来ることならこの先一生、この朝比奈さんの股の上で暮らしたいくらいだ。



「さーてと、おしっこおしっこ」

 先生がそう言って立ち上がろうとしたときだった。


 その時、プチンと何かが途切れた音がして、丸い金属片が宙を舞った。

 それがコタツの天板の上に落ちて、くるくると回転する。

 何かと思ったら、それはうらら子先生のパンツのボタンだ。

 ボタンは、コタツの天板の上で回って、うわんうわんと音を立てた。


「嘘……」

 先生が口走った。


 いや、年末から、あれだけ飲み食いしていればそうなるだろう。

 その上、お風呂とトイレ以外、ほとんどコタツから出ないんだから当たり前だ。

 先生のお腹、たぷんたぷんになってると思う。


「よし、みんな、なにダラダラしてるの! 運動がてら、初詣行くよ!」

 急に、先生が僕達を追い立てた。

 コタツの電源を切って、八畳間の襖を開けるうらら子先生。

 八畳間から入って来る冷気で、僕達は震えた。


 うらら子先生、分かりやすすぎる……


「ほら、ぐずぐずしない!」

 教師モードになったうらら子先生は、誰にも止められるわけがなく、僕達は急遽きゅきょ、近所の神社にお参りに行くことになった。


 仕方なく厚着をして、寒空の下に出る。 

 香に留守番を頼んだ。



 三箇日で、まだ動き出していない街は静かだった。

 天気がいい、のんびりとした街を歩いて神社まで向かう。


 普段静かな神社も、今日は晴れ着の人がいたり、破魔矢はまやを売る屋台が出ていたり、大勢の参拝客でにぎわっていた。

 町内会の人達が炊き出しをしていて、参拝する僕達に甘酒を振る舞ってくれる。


 僕達はお賽銭さいせんを投げて、みんなで手を合わせた。


「西脇君、どんなお願いしたの?」

 朝比奈さんが訊く。

「うん、香が、立派な『彼女』になりますようにって」

 僕は答えた。

「朝比奈さんは? どんなお願いしたの?」

 僕も朝比奈さんに訊いた。


「うん、私のお願いは秘密」

 朝比奈さんがそう言って僕にウインクする。

「なに? 教えてよ」

「だめ、秘密だもん」

「いいじゃん」

「だーめ」

 

 こんなやり取り、いつか彼女が出来たら、絶対にやってみたいって思う。


「ちょっと、なに鼻の下を伸ばしてるのよ」

 抱っこ紐で僕からぶら下がってる千木良が言った。

 僕と朝比奈さんの邪魔をしたから、とりあえず千木良の脇腹をくすぐっておく。



 僕達は、先生のダイエットも兼ねて町内を一回りしてから、部室に戻った。

 部室には駅伝から帰った柏原さんもいる。



 「さあ、飲み直しましょう」

 結局、先生の体重は、当分戻りそうになかった。

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