第40話 巡査

 草木をき分けて進むと、その建物は忽然こつぜんと姿を現した。

 まるで、時代から取り残されたような日本家屋が、森の中にひっそりと建っている。


「御免ください!」

 巡査じゅんさは、玄関のガラス戸を叩いた。


 警察学校を出たてで、近所の交番に赴任したばかりの巡査は、まだ、顔に少しの幼さを残している。高校時代野球部だった彼の顔は浅黒く、丸坊主にしていた髪もまだ伸びていない。

 しとしとと降り続ける梅雨つゆ時の雨で、真新しい巡査の制服は濡れていた。


「御免ください、誰か、おりますか!」

 巡査がもう一度問うても、中から返事はない。

 物音も、人がいる気配もなかった。


 巡査は、ガラス戸を揺すってみる。

 しかし、中から鍵が掛かっていて、戸は開かなかった。


 巡査はすぐに縁側えんがわに回る。

 縁側のガラス窓から、家の中を覗き込んだ。


 すると、縁側から奥、八畳程の広さの部屋に、少女が横たわっているのが見えた。


 畳の上に布団を敷いて、少女はその上に仰向けで横になっている。

 鮮やかなあおいワンピースを身につけた、十代前半の少女。

 寝乱れた少女の長い黒髪が、白いシーツの上に広がっていた。

 けれども、縁側のガラスが薄汚れているせいで、それ以上子細しさいに見ることは出来ない。


「もしもし、もしもし」

 巡査はガラス戸を叩いた。

 しかし、少女は起きない。

 巡査の呼びかけに対して、なんの反応も示さなかった。


 いや、それどころか、さっきから少女は一寸いっすんたりとも動いていない。

 巡査が最初に見た姿勢のまま、そのままで布団の上に横たわっている。


 少女の薄い胸が動いていないから、呼吸すらしていないのかもしれない。


 少し迷って、巡査は警棒を握った。

 黒々としたその先端をガラス戸に当てて、力を込める。


 みしりと鈍い音を立てて、ガラスが割れた。

 巡査は割れた隙間から手を突っ込んで、鍵を開ける。

 靴を履いたまま縁側に上がった。


「おい、君、大丈夫か!」

 巡査は少女の細い肩を抱く。


 少女の首がだらんと垂れて、巡査は「ひっ」っと、短い悲鳴を上げた。

 少女の体には力が入っておらず、首どころか、手足もだらんと垂れている。


 さもあらん。

 巡査が少女と思い込んで抱き上げたそれは、人形だった。

 透き通る程白い肌の、等身大の美しい人形だったのだ。


 なまめかしく、今にもしゃべり出しそうな雰囲気があるのだけれど、手足に球体の関節が入っているのが見えて、巡査はそれが人形だと確認した。


 幾ら呼んでも返事がなかったのは当たり前だ。



 ここに来る前、少女を監禁していますと言って、交番に出頭してきた男の顔が思い出された。

 作家をかたる白髪交じりの神経質そうな男。


 あの男に、まんまとかつがれたのだろうか。

 昨今の猟奇りょうき事件を模倣もほうした、趣味の悪い悪戯いたずらだろうか。


 巡査は、少女の人形を再び布団に寝かせて、一応、家を隅々まで調べた。

 各部屋を回って、押し入れや長持ながもちも開けてみる。

 まさかとは思うけれど、床下も覗いてみた。


 けれども、もちろん、男が監禁したという少女はいない。


 ただ、おかしなことに、押し入れや箪笥たんすに、少女が身に付けるような着物や服がたくさん詰まっていた。

 そして、茶碗や湯飲み、歯ブラシと、男が誰かと暮らしていた痕跡こんせきは、確かに残っている。


 まさか、この人形が、飯を食ったり、歯を磨いたりするわけではなかろうが。




「私は、彼女に命令されて、彼女を監禁していたのです」

 巡査が交番に戻ると、男は巡査長を相手に同じ主張を繰り返していた。


「彼女って、この彼女?」

 所轄署の署員が、面倒臭そうに訊く。

 巡査の応援に来た署員が、あの家で布団の上に寝ていた人形を、車で交番まで運んでいた。


「そうです。嗚呼ああ、恐ろしい。彼女を私に近づけないでください」

 男は人形から目を逸らして震えている。

 人形から少しでも離れたいのか、壁に体をぴったりとつけて、それ以上、なにも話さなくなった。


 この男、気が触れているのだろうか。


「やれやれだ」

 男の相手をしていた巡査長がこぼした。


「この人形、どうしますか?」

 巡査は訊いた。

「そうだな、こいつと一緒に、署に運ぶことになるだろう。それまで、休憩室のすみにでも座らせておいてくれ」

 上司に言われて、巡査は人形を休憩室まで運んだ。

 そこで、人形を壁に寄りかかるように座らせた。

 座らせるときワンピースの裾がまくれていたから、それを直す。

 その太股ふとももの生々しさに、巡査は思わず唾を飲み込んだ。



「ねえ、そこのあなた」

 巡査は、人形の口からそんな言葉が漏れたのを聞いた。

 巡査は辺りを見渡す。

 しかし、その部屋には巡査以外、誰もいない。


「そこのあなたよ。今度はあなたが、私を閉じ込めてくれるの?」

 人形が巡査に笑いかけた。


「まだ、続き読む?」

 僕が訊くと、千木良はぶんぶん首を振った。




 僕は、うらら子先生が図書室から借りてきた、柿崎かきざきしげるの「閉じ込められた姫君」を読んでいた。

 こうして読み聞かせてるあいだ、千木良はずっと僕の制服の裾を握ってたから、相当、怖かったのかもしれない。

 確かに、不思議な話だ。

 少し怖い話でもある。


「千木良ちゃん、今夜、夜中におトイレ行けなくなるんじゃない?」

 綾駒さんが訊いた。

「し、失礼ね! 全然行けるわよ! レディをバカにしないでちょうだい!」

 千木良が頬を膨らませる。

 そのわりにはレディ、僕の腕をぎゅっと掴んでるけど。



 僕達は、うらら子先生のランドクルーザーに乗っている。

 部室の屋根裏で見付けた人形の作者、「汐留しおどめふゆ」さんの娘に会うために、みんなで学校を出た。


 シートベルトを締める関係で、今日は定位置である僕の膝の上に座れない千木良は、隣に座っている。

 僕が千木良のために朗読するのを、他の女子達や、ハンドルを握るうらら子先生も聞いていた。


「やっぱり、この小説に出てくるのは、この人形だよね」

 朝比奈さんが言う。


 ランクルの後ろには、あの人形が積んであった。

 壊さないように、厳重に布で巻いて、布団の上に乗せてある。


「あれ? なんか後ろで動いてないか?」

 柏原さんが言うと、千木良がびくっとするのが、腕を通して伝わってきた。


「ああ、なんか勘違いだったみたいだ」

 柏原さんが千木良に笑いかける。


「もう、いい加減にしなさいよね!」

 涙目の千木良が文句を言った。



 先生が運転するランクルで、一時間ほど、郊外に向けて走る。

 道沿いに畑とか田んぼが多くなって、古くからの農家の大きな家が、ぽつんぽつんと建っている光景が見えた。


 やがて先生が、その中の一軒の前にランクルを停める。

 瓦屋根が載った立派な門屋かどやがある、大きな家だ。


 車の音で気付いたのか、玄関から女性が出てきた。


「いらっしゃい」

 その人は落ち着いていて、品がある女性だった。

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