名前を呼ばれた気がした。

 顔に冷たさを感じて、吉之は目を覚ます。ゆっくりと瞼を持ち上げると、目の前に小さな氷の粒が幾つも転がっていた。それは床に落ちてすぐに溶けていく。

 ぼうっとする頭で視線だけ持ち上げる。目の前に、誰かが立っている。

 状況は理解できないが、誰かが吉之を起こしたいということだけは確かなようだった。頭の上に氷を降らせるなどと、随分と乱暴な起こし方だった。


「冷たいだろう」


 仕方なく吉之は起き上がる。まだ身体は重たかったが、動けないほどではなかった。これもカナタの力を借りて緑色式で治療したおかげだろうか。

 煩わしくて頭の上の氷を手で払う。


「――で? 何だよこの状況は」


 吉之は言った。

 氷の他に光も降っていたようで、吉之はもう何が何やらという感じだった。目の前には光る雨とその光に包まれるかのように神々しい光を放つ人物がいる。その後ろ。氷のでどころはおそらくシノグだろうと思う。首を傾けてそちらを見る。


「シノグ? ――と、カナタ」


 シノグがカナタを抱きかかえていた。

 吉之はそれを見て目を丸くする。見間違いじゃないかと疑った。吉之は瞬きしてしっかりと目を閉じているカナタを見る。彼女の身体は硝子のように透けて見えた。


「何があった?」


 吉之はシノグに向かって顔をしかめた。


「説明は後です。こちらに来てください」

「来いって言われても」


 シノグの要求に困惑した吉之は、つい目の前の誰かと目を合わせてしまう。


「おはよう。君も、私の邪魔をするのかな」


 その人物が言った。中性的な顔立ちだ。いや、そもそも人なのかどうかも怪しい。だって人間はこんなにも光らない。 


「その神の言葉に、聞く耳を持たないでください。吉之。その神はカナタを連れていこうとしています」


 神。とシノグが言って、吉之は納得と同時に首をかしげる。


「いや。もともとその予定だっただろ。何でだ」

「彼はあの子と離れるのが嫌なのだろう。だが、このままだとあの子は消えてしまうぞ。その前に我々の元へと返してくれ」


 神の言葉に、「ああ」と吉之は納得したように呟く。それから口角を上げて笑う。


「ふざけんな」


 一言。吉之は吐き捨てる。瞬間、色式を編む。両足と両手に橙色式を展開。飛ぶように前にでる。神の後ろに素早く回り込み、シノグとカナタを抱える。カナタの体重がびっくりするほど軽い。紙風船のように思えて、繊細な物を扱うときみたいに力の加減を調整した。


「シノグ。認めるのが遅い」


 右の脇に抱えたシノグに向かって、吉之は言った。

 しかし自分の気持ちに素直になった彼を、吉之は誇らしくも思っていた。


「うるさいですね。早く行ってください」

「行くってどこに」

「決まっているでしょう。ここから逃げる方法、ひとつしかないんですから。わかっているくせに」

「無茶すぎるだろう」

「僕が何とかします」

「頼んだ」


 笑って吉之はシノグに返した。


「まて。――後悔するぞ」


 神が言った。脅すような言い方だった。

 吉之は神に背を向けたまま顔だけを向ける。


「後悔なら、ここに来た時点でしている」


 そう言ってから、吉之はシノグとカナタの二人を抱えたまま走り出す。シノグを信じることが、今の吉之に出来ることだった。

 吉之は大きく一歩を踏み出して、ゼロの塔から飛び降りた。


 シノグと違って異様に軽いカナタを離してしまわないかと不安になりながら、吉之は落ちていた。自然と身体がシノグのほうに傾く。目の前は真っ暗だった。闇の中に落ちていく。

 シノグが吉之の腕の中で、銃を下方へ向かって構えた。おそらく最後の力を振り絞り銃に青色式を展開した。青い光が銃から発射される。吉之はその光景に目を離せなかった。

 青い光が吉之のすぐ下に広がって、それは巨大な鳥の形を造った。見る見るうちに青い光は氷になっていった。氷で造られた鳥に、吉之たちは着地したのだ。

 色式の無茶な使い方を、あれだけ反対していたシノグの立てる作戦ではなかった。


「でも、このまま落下死するよりも良いでしょう」


 とは、シノグの言い分である。彼はそのまま鳥の上で寝転がった。鳥が消えてしまうので、意識を失わないようになんとか耐えているようだった。

 吉之たちを乗せた氷の鳥は、真夜中の空を飛んでいた。光の雨は流星のようにも見えてとても綺麗だったが、そんなことを思う余裕が吉之にはなかった。カナタが手を離したらそのまま飛んでいってしまうように思えたからだ。


「シノグ。カナタはどうなるんだ」

「僕にも、わかりません。消滅すると、あの神は言っていました」


 消滅。カナタの存在そのものが消えるというのだろうか。そんなこと、予想していなかった。きっと亡くなったヒイラギも、今の状況を見たら驚愕してしまうだろう。

 こんなことがあって良いのか。と吉之は思った。こんな結末は、誰も望んでいないのだ。


「もう、重さも感じないんだが」


 吉之は確認した事実を述べる。


「こうしている間にも、身体が消えていっていますからね」

「どうにかできないのか」


 吉之の質問に、シノグは答えを返してくれなかった。シノグでさえ、解決策を思いついていないのだということだけ理解した。


「僕だって、どうにかできるものならばどうにかしたいですよ」


 悔しそうに、シノグが呟いた。


「――悪い」


 そう謝ってから、吉之は固い鳥の背中にゆっくりと腰を下ろした。カナタだけは離さないように気を付ける。ふとシノグの顔を見ると、違和感を覚えた。彼の顔をまじまじと見つめる。


「おい。お前、その顔どうした」

「え? ……ああ。この光ですよ。これにあたったら、顔が戻ったみたいです」


 シノグはそう言いながら顔の左半分を覆っていた髪の毛を、手で掻き上げて見せてくれた。

 こうしている間にも、光の雨は吉之たちに降り注いでいた。


「そうか。よかったな」


 その点だけは本気でそう思って、吉之はほっとしたように言った。


「あ。そうですよ。そういうことじゃないですか」


 唐突にシノグが何かに気づき、寝ころんだまま両手を打ち鳴らした。


「何だ」


 吉之は目を丸くする。


「この光。状況から察するに、カナタの色の力ではないでしょうか」

「はぁ? 何を言ってんだ」


 吉之は顔をしかめる。


「あの神は言いました。その子は力を使い果たしたのだと。カナタは一体何に力を使ったんですか」

「力を使った?」

「ええ。きっと塔を動かすために使ったんですよ」


 シノグがゆっくりと上半身を起こした。そして話を続ける。


「わかりますか。これはカナタの力です。力が雨のように地上に降り注いでいます。だから僕の顔もその力に触れて元に戻りました。僕の顔の左半分は鬼に喰われて色を失っていました。その色が、今はあります。カナタの力で元に戻ったんです。ということは。もしかしたら、この力をすべてカナタの身体に戻せばカナタは消えずに済むのでは?」

「そんなこと、出来るのか」


 吉之は驚いた顔をして疑問を口にする。

 言うだけなら簡単だった。しかしすべてを。となると途方もない事のように思えた。シノグの言うことが本当なら、既にカナタの力は細かく分解されて地上世界のあちらこちらに散らばってしまっている。


「正直なところ。不可能に近いです。ですが仙道理事長や、あまり頼りたくありませんがあげは会のトップに協力を求めればあるいは……」

「俺は反対だ。理事長はともかく下田は」


 吉之は眉をひそめて強く言った。シノグは下田のことを軽く考えているのではないかと疑ってしまう。


「気持ちはわかりますが、そうは言っていられないじゃないですか」

「……お前。何を考えている」


 真剣な表情で、吉之はシノグに言った。シノグの本心を確かめたかった。


「僕が二組織にお願いしたい理由は、多人数を必要とするからです。いいですか。この空から降っているカナタの色の力を、みんなで協力して出来るだけ多く集めてほしいんです。すべてとは言いません。僕の顔のように、既に力を吸収してしまったものに関しては、元に戻すのは無理でしょうから」

「大人しく協力してくれると、良いんだがな」


 ため息を吐いて、吉之は言った。


「ええ。でも、カナタの為ならば僕たちは」


 シノグの言葉に、吉之は黙って頷いた。

 何だってする覚悟は、もう出来ていた。たとえ世界を敵に回そうとも、たったひとりの少女を取り戻すことが、シノグと吉之にとってどれほど重要なことか、きっと誰にも理解はされまい。

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