何も知らないまま。何も気づかないまま。そのままでいられたらどんなにかよかっただろうと思っていた。京太郎が最初にそれを知った時。啓生はこう言った。


「友達ごっこは楽しかったか」と。


 衝撃だった。約一年もの間。彼は生徒のふりをして、京太郎と柊に近づき友人のふりをしていたのだという。では一体何のためにそれをしていたのかと言えば、特に京太郎の父親。つまり当時の理事長に会うためであった。


「気づいたときにはもう遅かった。父は深手を負い、理事長室で倒れた。啓生の要求は学校の閉鎖。協会の解散だった。父はそれを呑まなかった。だから色式で父を攻撃したというんだ。私は啓生が許せなかった。側に柊がいなかったら、それこそ私はその場で啓生をどうにかしてしまっていたかもしれない」


 京太郎は回顧し、拳を握りしめた。


「先生が間に入ったために、今の形に?」


 シノグの問いに、京太郎は頷いた。


「ああ。柊が啓生と交渉してくれた。協会は、父にこのまま引退してもらうこと。私が父の後を継ぐこと。そして啓生は、あげは会を設立してならず者たちをまとめること。この二つが成立するには、互いに手出しをしないこと。深く干渉しないこと。つまり黙認するように柊に説得されたんだ。私も啓生もね」


 実際に反協会を掲げる色式士たちが個人で動いて、そこかしこで事件を起こされるのには困っていたし、柊の提案は理にかなっていた。あの場をまとめる唯一の方法だった。それは理解しているけれど、今のこの状況になって思う。柊の判断は正しかったのだろうかと。


「柊の訃報は、啓生にとって好都合でしかないのだと思う。もう止める人間がいないのだからね。啓生は全力で色式士協会を潰しに来るよ」

「衝突は、避けられないんですか」


 シノグの質問に、京太郎は息を吐く。


「無理だね。あるいは……と思ってはいたんだが、回避のしようがない。こちらに入ってきている情報では、明朝には来るらしい。だからそれまでに体勢を整えていく方針だ。君たちを巻き込むつもりはない。もし心変わりしないのであれば、今すぐにでもここを出たほうが安全かもしれない。もちろん吉之くん。君も含めてだよ」


 京太郎はそう言って、吉之に視線を送る。


「これは私と啓生の問題であって、あげは会と色式士協会の問題だ。君はこのままだと利用されるだけだ。吉之くん。本当はどうしたいのか。とっくに答えは出ているのだろう。二人を守れるのは、君しかいないぞ」


 吉之は一瞬目を丸くして、それから何かを決意するかのように、強く頷いた。


「――わかった」


 京太郎はそれを確認して、椅子から立ち上がる。


「本音は、君たちを止めたかった。けれど、止められるとも思っていなかった。心のどこかで諦めていたんだ。世界は変えるしかない。己の手で。己の力で。変わるのを怖がっていては何もできない。知ることを怖がっていては、何もできない。真実を見るんだ。見てきてほしい。そして教えてほしいんだ。空の上に本当は何があるのかを」


 シノグとカナタと吉之も立ち上がる。

 京太郎は三人の顔を順に見る。それぞれが不安そうな顔をしつつも、どこか覚悟している顔をしていた。出逢いと別れを経験して、それでも前を見る人間は強い。この子たちは強い。だからきっと大丈夫な気がしていた。


「ひとつだけ約束してほしい。三人とも。無事に帰ってくると。誰ひとり欠けずに帰ってくると。約束してほしいんだ」


 京太郎が言うと、カナタが首を振った。


「それは無理だよ。あたしはもうここに戻ってこられない」

「いいや。君も戻ってくるんだよ。カナタ。そうでないとダメなんだ。そうでないと――」


 ――君をひとり犠牲にしてしまうことになる。


 京太郎は言葉を飲み込んだ。


「淋しいじゃないか」

「うん……。そうだね」


 困った表情でカナタがうなづいて、それから徐に羽織っていた外套のなかから小さな本を取り出した。


「それは?」


 京太郎はカナタに尋ねる。


「これは、日記帳だよ。あなたのお願いを聞く代わりに、これを預かっていてほしいの」

「どうして?」

「あたしが生きてる証だから。あたしがちゃんとここに存在しているんだっていう証だから」

「わかった。それは私が預かろう。だから、必ず帰って来てくれ」

「うん。その時は、色式のこと教えてね」


 カナタがそう言って微笑む。しかしそれが本心なのか京太郎にはわからない。

 それから京太郎は、カナタとシノグと吉之にゼロの塔へ行く安全な道筋を紙に書いて渡した。


「あの塔は誰が何の目的で建てたのかわからない。神がまだ地上にいた頃に建てられたものということだけわかっている。神の遺物だ。そしてあの塔の付近では鬼の目撃情報が多数報告されている。周りを調べた限りでは、あの塔のてっぺんに何かがある。私は、そう睨んでいる」

「何かとは何です」


 シノグが訝しむように言った。


「さぁ。そこまではわからないが、空へ行くための何か。だと思っている。君たちは、空の上へいくための方法を私に尋ねに来た。そうだね」


 改めて京太郎が言うと、三人はほぼ当時に頷いた。


「君たちは、鳥がどうして空を飛べるのか考えたことはあるか」

「翼があるからだろう」


 吉之が答える。


「ふむ。ならば翼があるのに空を飛ばない動物がいることはどう説明する」

「彼らは飛ぶ必要がないから、翼があっても飛べるように進化して来なかったんです」


 今度はシノグが答えた。


「うん。その通り。考え方はそれと同じだよ。あの塔は、何のために建っているのか。あの塔が神の遺物ならば、どうしてそれを建てたのか予想はつく。あの塔は鬼を生みだすために創られたわけではない。空の上へ行くために創られたんだ。だからとりあえず塔の階段を登るんだ。その先に空の上にいく方法が必ずあるはずだ」


 京太郎が力添えできるのはそれだけだった。もうこれで自分の役目は終わり。京太郎は三人に別れを告げて学校から送り出した。

 京太郎は校門の前で三人の背中を見送る。カナタがこちらを向いて手を大きく振った。京太郎が振り返すと彼女は笑顔を見せて満足したようにまた歩き出した。


「よろしかったのですか」


 秘書が不安そうな表情で、京太郎のことを見ていた。


「こればかりは、仕方ないかなぁ」


 京太郎は両腕を使って身体を伸ばした。

 理事長室へ戻ると、ふと机の上に置いたカナタの日記が目に入った。彼女が残していったもの。彼女が存在する証。彼女の答え。

 京太郎は表紙を指で撫でた。


「私も君たちと再び会えるように、頑張ってみるよ」


 ぽつりと呟く。

 次に啓生と対面したとき、無事でいるとも限らない。そんなことを思ったが、京太郎は口が裂けても言えなかった。 

 秘書が――妻が哀しむ言葉を言いたくなかったからだ。 

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