宿の部屋に戻る間。吉之は誰とも会わなかった。それは良いことではあったが、悪いことでもあった。焦っているせいで汗をかいたのか、身体の痛みで汗をかいたのか。もうどちらかはわからなかった。

 緑色式を展開しているおかげで村瀬に裂かれた腹の痛みは治まってきているが、吉之はシノグとカナタを危険に晒しているのかもしれないという不安で、心が押しつぶされそうだった。こんな思いをするくらいなら、二人から離れたほうがいい。一刻も早くヒイラギの知り合いに二人を預けてでも、自分は離れるべきだと考えた。


 ――本当にそれが正しいと思っているのか。

 

 心のどこかで、誰かが言った。吉之はそれを無視して、部屋の障子を開けた。勢いよく開けたせいで、柱と障子のぶつかる音がした。


「カナタ、シノグ!」


 吉之は二人の名を呼んだ。


「あ。おかえりなさい」 


 カナタが突然入ってきた吉之に目を丸くしながらも、座椅子に座ったままそう挨拶した。吉之は拍子抜けしてしまった。見ると布団にはシノグが寝ていて、カナタは部屋にあったのか小さな女の子の人形を持っていた。ひとりで遊んでいたのだろうか。

 吉之はカナタとシノグの無事を確認し、安堵した。それから尋ねる。


「誰かが部屋に来なかったか」

「少し前に、一之瀬美咲さんが来たよ」


 カナタが、あっけらかんとして答えた。

 吉之は顔をしかめた。どうして彼女が。と思った。


「何もされなかったか」


 吉之の質問に、カナタが頷く。


「うん。ただお話しただけだよ」

「――それだけ?」

「うん。それだけ。あたしとお話がしたかったみたいで、シノグには色式を使ったって言ってたけれど。眠らされただけみたい」


 カナタに言われて、吉之は気づいた。そういえば先ほど大きな声と音を立てて部屋に入ったのに、シノグは起きなかった。美咲が色式を使ったせいならばこの状況には納得ができる。


「そうか。何の話をしたのか、聞いていいか」

「いいよ。あたしとシノグが吉之とどういう関係なのかって話と、今の吉之が好きかどうかって話をしたの」

「なんだそれは……」


 吉之は眉をひそめる。

 美咲の行動が、吉之にはよくわからなかった。その話は、彼女にとって何か意味のあることだったのだろうか。そんなことのために、吉之は痛い思いをしなければならなかったのかと思うと、腹立たしいが。なんとなくだけれどそれはあの村瀬という男が好き勝手に動いただけで、美咲は直接関わっていない気もした。美咲は意味もなく吉之を傷つけることはしないと思った。それは彼女の意に反することだと吉之は知っている。でなければ、シノグを眠らせるだけで済ますはずがない。彼女はそこまで非道な人間じゃないことの証明になるだろう。


「吉之の事をよろしくされちゃった」

「そうか――」


 吉之は気が抜けたようにそう言って、その場に膝を折った。


「吉之?」


 カナタが驚いた顔をして立ち上がり、吉之の側に寄る。


「疲れた」

「大丈夫?」


 今度は心配そうな顔をして、カナタが吉之の目の前でしゃがみこむように座った。


「大丈夫ではない」


 吉之の言葉に、カナタが目を見開く。視線の先には、吉之の外套に染みこんだ血。


「吉之、血が。それによく見たら全身が傷だらけじゃない」

「緑色式で治療したから、今は痛みもないし平気だ。ただ疲れた。物凄く疲れた」

「――何があったの」

「俺にもよくわからない。遊ばれただけのような気がする」

「遊びで、こんなことする人がいるの」

「いる。それが、あげは会の色式士だ」


 それ以上、言葉は続かなかった。怒っても仕方のないことだと納得するしかない。受け入れていくしかないのだと、吉之は思った。


「でも吉之も、あの一之瀬って人も。こんなことしない人だよね」


 呟くようにカナタが言った。

 吉之は無言で頷いた。それから一呼吸おいてカナタに問いかける。


「なぁ。もし俺がカナタたちと一緒にいたくないと言ったら、どうする?」


 吉之は、カナタと目を合わすことが出来なかった。部屋の隅に置いてある角行灯を見つめる。メイにいたときは、天井からの明かりで、カナタからも吉之の表情がよく見えただろう。けれど今は、足りない光で互いの顔に影が出来ている。吉之は、それが都合よく思えた。


「それは、誰のためにいっているの」


 表情を変えないカナタの優しい声が、棘のように吉之の心に刺さった。


「カナタとシノグのためだ。俺といると、お前たちまで危険なめにあう」

「もとより危険な旅だってわかっていたじゃない。今さら何を言っているの」

「そうだ。あげは会と色式士協会。双方から俺の存在がよく思われていないことぐらい、少し考えればわかることだ。想像していなかったわけじゃないんだ。メイの闘技場で俺がしたことが、彩に伝わっていないはずがない。あの場に何人色式士がいたと思っている。もしかしたら俺のことを恨んでいる奴もいるかもしれない。いや、いるだろう。メイに住むことを夢見ていた奴が何人もいる。俺はそいつらの夢を踏みにじったんだ」


 自業自得だと思った。自分のしたことに後悔はしていない。けれど、それが巡り巡ってこうして自分を苦しい状況に陥れることになるとは思っていなかった。

 いつまでも三人で一緒にはいられない。そんなこと、この旅を始めたときからわかっていたことだ。

 あのとき、カナタとシノグと出会っていなければ。ヒイラギの家に行っていなければ。こんなふうに大切だと思う人たちを手に入れることはなかった。手放したくない。守りたいと思うこんな気持ちを抱くこともなかった。ヒイラギとシノグとカナタと過ごしたメイでの生活を思い返して、もう戻ってくることはない時間を切なく思うことなんてなかった。


「吉之は、優しいね。優しいから、そういうふうに感じるんだよ」

「違う。俺は、ひどい奴なんだ」

「違わないよ。だって、彩の人たちのためにやったことでしょう。よくわからないけれど、闘技場をあのままにしていたら、彩の人が苦しむんでしょう。やり方はどうあれ、吉之のしたことは間違ってなんかいないよ」

「ああ。俺も間違ってなかったと信じている。あのときも、俺は誰に恨まれてもいいって、理解してもらえなくてもいいって思っていた。いや。今でも思っている。だけど、そのせいでカナタとシノグを巻き込むのは嫌なんだ」

「吉之が、あたしたちと一緒にいることで傷つくなら。それは、あたしたちのためじゃなくて吉之自身のために離れることを選択するってことだよ。わかっている? あたしたちは吉之と一緒にいたいのに、吉之はそれを拒否するんだ」


 諭すようにカナタが言った。

 本当は吉之もわかっている。これは誰のためでもない。吉之のためだ。吉之が傷つきたくないから、カナタとシノグから離れようと思った。


「ごめん」


 吉之はカナタに向かって、謝るしかなかった。それ以外の言葉が浮かばなかった。


「あたしは吉之のこと、大切な家族だと思っているよ。シノグは素直じゃないから絶対に口にしないだろうけれど、きっとあたしと同じように思っている」


 カナタの言葉に、吉之はゆっくりと頷いた。


「わかっている」


 それでもはっきりと自分の気持ちを伝えることが、吉之には上手くできなかった。家族という言葉が吉之に重くのしかかる。カナタは変わらない。吉之には家族がいると言ってくれたあの時から、何も変わっていない。ずっとそう思い続けてくれている。それがどうしようもなく嬉しくて。哀しかった。吉之の気持ちは、胸の奥で雲のように漂っている。


「明日の朝。出来るだけ早くここを出発しよう。学校へ着いてヒイラギの知り合いに会えたら。俺たちはそこでお別れだ」


 家族ごっこはそこまでにして。とは口が裂けても言えなかった。


「よし――」

「ごめん。最後まで付き合えなくて」


 何かを言いかけていたカナタの言葉を遮って、吉之はそう言った。何も聞きたくなかった。

 外套と着物の血を落とすために、そのまま部屋を出る。宿の人に頼んで桶の中に水を汲んでもらった。何も尋ねられなかった。何かを察したのかもしれない。

 吉之は、衣服を洗って干してもらったのを見届けてから部屋に戻った。カナタは布団に丸まっていたが、起きているのか寝ているのか吉之にはわからなかった。

 吉之は押し入れから羽毛布団を出して、それにくるまりながらその夜を過ごした。

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