――ミツケタ――


 声が聴こえる。

 カナタはひとり立っていた。目の前には大きな鬼が胡坐をかいて座っていた。巨像のようにどっしりとそこにある。

 怖い。と思った。恐怖が波のように押し寄せてきて、カナタの心をさらおうとする。


「やめて」と口を動かすが、声が出なかった。


 鬼は声を発するのをやめてくれなかった。


 目を覚ましたとほとんど同時に、カナタは勢いよく上半身を起こした。

 呼吸がうまくできない。身体に汗をかいているのがわかった。


「大丈夫?」


 不意に誰かの声がして、カナタは飛び上がるほど驚いた。

 隣で眠っているシノグの声ではないことは確かで、けれど聴いたことのない声でもなかった。


「ひどくうなされていたみたいだから」


 シノグとは逆側の隣から、声の主はカナタの顔を覗き込むように見ていた。着物姿の彼女は、布団の敷かれている畳の上で、正座していた。


「え、えっと……?」


 カナタは当惑していた。布団を両手で強く握る。できるだけ顔に近づけて、怯えた表情をした。どうして彼女がここにいるのか、まったくわからなかったからだ。


「ちゃんと自己紹介をしていなかったわね。私の名前は、一之瀬美咲。あげは会所属の色式士。序列第四位よ。まぁ、肩書なんてどうでもいいわね。よろしく」


 美咲がそう言って、カナタに向かってほほ笑む。


「あ、あたしはカナタっていうの。よろしく」  


 お互いに握手は求めなかった。警戒していたのだろうと思う。カナタはもちろん、美咲の方も。その証拠に、それからしばらくカナタと美咲の間に沈黙が流れた。

 カナタは首を傾げた。そういえばどうして、隣で眠っているシノグは起きないのだろうと思った。シノグは眠っているところに、誰かが部屋に来るとすぐに起きるタイプの人間だ。少しの物音でも敏感に反応し、目覚めてしまう。カナタはともかく美咲が部屋にいるのに、目覚める気配がまったくない。

 何かがおかしかった。おかしいといえばこの状況だ。どうして美咲はここにいて、カナタのことをじっと見ているのだろうか。


「あの……。あなたはどうして、ここに?」


 素朴で、けれど一番重要な質問をカナタはする。


「ん? あなたたちに会いに来たのよ。でも悪いけれど、横の彼には眠ってもらったわ。まともに話ができそうになかったから」


 美咲の言葉に、新たな疑問が増える。


「眠ってもらった?」

「そう。大丈夫、心配しないで。朝になったらちゃんと目覚めるわ」

「睡眠薬でも、盛ったの」

「んー。薬ではないわね。そういう効果のある色式をかけたっていうのが、正しいわ」

「どうして?」

「あなたと話がしたかったから」


 美咲が、真剣な顔をして言った。

 部屋を見まわしても吉之の姿はなく、この状況が故意に作られたものなのだと理解するしかなかった。


「あまり時間はないの。吉之が戻ってくる前に退散しないといけないから」

「そうなの?」


 カナタが言うと、美咲は頷いた。


「そうなの。だから簡潔に質問するわ。あなたとそこで眠っている彼は、季野吉之とどんな関係なの」


 カナタは迷わずに答える。


「吉之はね。あたしとシノグの家族だよ」

「――家族?」


 美咲が眉をひそめた。どうしてそんな顔をするのか、カナタにはさっぱりわからなかった。何かおかしなことを言ったのだろうか。


「そう。家族なの。メイで一緒に暮らしていたの。本当は先生も一緒にいたのだけれど、先生は死んじゃって。でも、吉之はそれでも一緒にいてくれたの。一緒に先生の願いを叶えるの」

「それが、あなたたちの今の目的ってこと?」


 美咲の問いに、カナタは頷く。


「うん」

「わかったわ。吉之が以前の顔をしなくなったのは、あなたたちのせいってことね」


 美咲が納得したように言って、息を吐いた。


「以前の顔?」


 カナタは首を傾げた。


「憎悪に満ちた顔よ。割れた硝子の破片みたいに、刺々しかった。でもそういうところが好きだったのよね。私は」 


 美咲が口にした言葉に、カナタは何故だか胸の奥に違和感を覚えた。嫌いな食べ物を目の前に出されたときみたいに嫌な気分だった。


「吉之は、ガラスの破片なんかじゃない! 確かに最初に見たときはそうだったけれど、今は違うの」


 カナタは思わず大きな声を出した。急いで自分の右手で口を塞ぐ。しまったと思った。隣で眠っているシノグが起きてしまわないか心配になったが、やはり起きる気配はない。ぐっすりと眠っている。本当に、このまま朝になるまで彼は起きないのかもしれない。と思った。

 美咲が一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに真面目な顔をして言った。


「そうね。今はそうじゃない。言葉が悪かったわ。あなたたちのおかげで、吉之は優しい表情をするようになった。私の好みじゃなくなったけれど」

「今の吉之は、好きじゃないの?」

「好きでも嫌いでもないわ」


 美咲はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。

 カナタは美咲を見上げる。


「もういいの? あなたの知りたかったことは、知れたの」

「そうね。本当は、あなたたちの具体的な目的と、どこへ向かっているのかを聞きたかったのだけれど。もういいの。もうどうでもよくなっちゃった。吉之のこと。あなたたちに、よろしくお願いするわ。あなたたちと一緒にいることが、彼にとって一番良いことだとわかったもの。私は満足よ」


 美咲はそう言って、ほほ笑んだ。本心だったのだろう。彼女はそのまま部屋を出て行った。

 カナタは美咲に抱いた感情を、上手く呑み込めないでいた。彼女が満足したことは良かったが、カナタの心の奥深くに染みを残したような気がした。カナタは美咲の後姿を黙って見送るしかなかった。

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