今朝はいやにスッキリとした目覚めだったなとシノグは思っていた。こんなに気分よく眠れたのはいつぶりだろうか。久しぶりに夜中に一度も目覚めずに朝までぐっすりと眠っていたようだ。しかし、昨夜はいつ寝たのだろうか。何かの用事で宿の従業員が部屋に来て、それからの記憶が曖昧だった。

シノグは、早朝にカナタに起こされて宿の朝げを食べているときから気になっていることがある。それは微かな変化だったので、普通には気づかないことだった。


 ――吉之とカナタの様子がおかしい。


 なんと言えばいいのか、二人の間の空気が重苦しいのだ。どうしたのかとそれとなく尋ねてみたけれど、カナタは目を逸らしながら「大丈夫」と言うし吉之に至っては無視だった。

 僕が寝ている間に何かあったのか。とシノグは半ば確信するように思っていた。

 宿の人が手配してくれた馬車は煌びやかな模様もなく、白と黒を基調にしたとてもシンプルなものだった。天井まで囲われた車内の座席には、クッションもなく固い木が丸出しになっている。そこにシノグとカナタが隣同士に座り、シノグの向い側の座席に吉之が座った。

 馬車が動き出すと、振動が直接身体に伝わってくる。到着まで、しばし我慢するしかなさそうだった。

 馬車へ乗り込む際、シノグは吉之の外套が昨日よりも綺麗になっていることに気が付いた。


「吉之。外套を洗ったんですか」


 何気なく、シノグは問う。吉之は答えた。


「ああ。鬼の口に入ったときに、酷く汚れてしまったからな」


 嘘ではなかったのだと思う。吉之は真っすぐにこちらを見ていた。けれどそれだけの理由でシノグに自分の衣類の洗濯をさせなかったあの吉之が、外套を洗うだろうか。


「そうですか。いい加減、昨夜何があったのか教えてくれませんか」


 シノグは訝しげな視線を、吉之に向けた。

 吉之はふっと鼻で笑う。


「疑い深いな。何もなかった。じゃあ、納得してくれそうにないな」

「当たり前じゃないですか。隠しきれていないのですよ。二人とも」


 シノグはそう言って、息を吐いた。

 このままでは気持ち悪いと思った。刻一刻と、別れは近づいていて。この旅の先のことを思うと足さえも重く感じてしまう。笑顔でさようならを言えるとは思っていない。けれど、何かしらの後悔を抱えて別れることは嫌だった。


「わかった。最初の目的地へ着いたら話そうと思っていたんだが、今から話すよ」


 観念したように吉之が言った。

 そして吉之はシノグが眠っていて知らなかった昨夜のことを、すべて話してくれた。

 吉之が仕入れたあげは会と色式士協会の抗争問題から、あげは会の色式士に吉之が襲われたこと。そしてカナタ側からは、昨日の昼に会った女の色式士と話をしたこと。その女の色式でシノグが眠らされていたことをきいた。

 シノグは顔をしかめるしかなかった。どうしてそんな大事な時に、自分は悠長に眠っていたのだろうかと。


「無事だったからよかったものの。僕は……」


 シノグはそう言って両手で頭を抱えた。


「シノグのせいじゃないよ」


 カナタがフォローをいれてくれる。


「一之瀬美咲の色式は強力だ。眠る前に変装でもした彼女に会ったか何かで、知らずに色式をくらったんだろう。仕方がない」

「ですが。僕が油断をしていたのも事実です。宿に着いて少し気が抜けていたのかもしれません。彼女は何の色式を操っているんですか」


 シノグの質問に、吉之は迷いなく答える。


「紫色式だ」

「紫? では、彼女もまた複数同時に色式を編むのですか」


「ああ」と吉之は頷いた。それから続ける。


「俺は一度、彼女に殺されかけたことがある。まったく油断できない相手だ。彼女の紫色式で展開されるのは、毒。あの時は体が痺れて動けなくなった」

「では、僕も毒を盛られたということですか。でもこうして生きている」

「彼女の色式は、毒にも薬にもなるということだ」


 上手いことを言ったつもりだろうか。けれど吉之の一言に、シノグは納得した。

 それにしても吉之といい、一之瀬美咲といい。複数の色式を同時に編むことに対する身体への負担をまったく気にしていないのはどうかと思う。あげは会の連中はみんなそうなのかもしれないが。


「協会に所属していないが故。ですか」

「まぁな。協会だと禁止色式はいくつかある。俺の色式も美咲の色式も、そのひとつというところだ」


 吉之はそう言って、眠たそうに瞼を閉じようとしていた。馬車が時折小石に引っかかって振動が起こる。とても眠れる状態ではなかったので、揺れるたびに吉之は瞬きする。

 宿があげは会と色式士協会の領地の境目だと吉之に説明されてはいたが、宿から学校までは距離があるらしく、馬車で行くことになったのだ。


「それで。どうして今朝は二人ともよそよそしかったのですか」


 シノグは本題をぶつける。今朝ははぐらかされた質問だが、昨夜のことをすべて話してくれた今なら、その理由も話してくれるはずだ。

 しかし吉之はまた黙ってしまった。代わりにカナタが答える。


「吉之が。学校へ着いたら、さよならだって言ったの」


 その声はすごく落ち込んでいて、淋しそうだった。

 シノグは目を丸くした。


「そんなこと、本気で言ったんですか。君は」


 責めるような目を、シノグは吉之に向けた。吉之は黙ったまま頷いた。

 殴ってやりたい気分だったが、そんなことカナタの前ではできなかった。感情的な自分の姿を、カナタに見せたくはなかった。


「あたしたちを、自分の問題に巻き込みたくないって」


 泣きそうな声で、カナタは言った。


「今さら何を言っているんですか。三人で決めましたよね。何があっても最後まで付き合うって。先生の最後の願いを叶えるって。決めましたよね」


 もう一度確かめるように、シノグは言う。


「ああ。だがあの時と今と、状況が違う」


 吉之が静かに言った。諦めている表情で。


「違わないでしょう。色式士に襲われる可能性を考えていなかったわけでもないし。ここまでの道中だって鬼と色式士どちらがましかでこちらの道を選んできました。それにですね。いいですか。あげは会と色式士協会の問題は双方の問題です。僕たちには、関係がありません。例えその原因の一端が吉之にあろうと、僕たちの問題には関係がないんです」


 シノグは熱弁する。吉之にわかってほしかった。理解してほしかった。二つの組織の抗争と自分たちの目的を切り離して考えてほしかった。


「どんなに邪魔が入ろうと、僕たちの目的はひとつです。僕たちはカナタをあの塔のてっぺんまで連れていって、空の上の神たちを呼ばなければならないんです。カナタを、神たちに届けなければならないんです。それが先生の悲願なんです」


 馬を運行している御者に聴こえてしまわないように、声を押さえてシノグは言った。

 すべては先生のためだった。自分たちで決めたことだ。カナタとの別れは約束されている。おそらく、そこまで付き合うつもりだった吉之との別れも待っている。でもそんな約束された別れより先に来る別れに、シノグは納得しない。するはずがない。きっとヒイラギ先生も同様だろう。


「先生。先生って……。ずっと思っていたんだけどな。あんたらさ、いつまでヒイラギ先生に捕らわれてんの」


 吉之の針のように鋭い言葉に、シノグは思わず眉をひそめる。


「は? 何を――」

「最後まで付き合うつもりだったから、今まで言わなかったけれど。カナタもシノグも。自分たちが決めたとか言っているけれど、そんなの言い訳で。本当はヒイラギが決めたことだから従っているだけだろう。遺言だかなんだか知らんが、あんたらは自分の意思で塔へ向かっているんじゃない。ヒイラギが言ったから向かっているんだ」


 反論するべきだったとは思う。けれど、シノグは声が出なかった。否定することが出来なかった。少しでも、そうかもしれないと思ってしまっていたからだ。

 隣のカナタに視線を移すと、彼女もまた同様に言葉を失っていたようだった。どんなに言い合いをしたとして。結局はそこに帰結する。ヒイラギ先生の願いを叶えることがシノグとカナタの願いであって。それは本当に、自分たちの願いなのだろうか、と。親が子に自分がなしえなかった願いを託すのと何ら変わりない。そこに自分たちの意思はあるのかどうか。

 シノグもカナタも、答えを失っていた。いや、最初から答えなど持ち合わせていなかったのかもしれない。


「何も言わねぇってことは、図星なんだろ。まぁ俺も。半分は自分の意思。もう半分はヒイラギに頼まれたからというのもあったから人のことは言えないがな。塔まで行くか行かないかはあんたらが決めればいい。俺は学校までついていくが、ヒイラギ先生の知り合いにあんたらを預けたら、そこで任を降りる」


 吉之が最後までついてこないというのは、つまり自分がいたら目的の達成に関して支障が出ると判断したということ。あげは会と色式士協会に板挟みにされてしまうのではないかという懸念を抱いたということだ。

 吉之は自分の意見を絶対に曲げない。一之瀬美咲が言った通りの人物だったけれど。今は違うのだとシノグは感じた。吉之はちゃんと周りが見えていて、シノグとカナタのことを考えて出した結論なのだ。


 ――あなたはそういうふうに、変わったのですね。


 シノグは心の中で思う。吉之は変わった。けれど、シノグとカナタはいつまでも変わらないでいる。ヒイラギ先生という絶対的な存在を失ってもなお、不変を望んでいる。それが良いことなのか悪いことなのか。シノグは答えを持っていない。

 それからしばらく、誰も何も言葉を紡がなかった。ただ馬の走る音と振動と、岩のように重たい空気が漂っている。

 シノグの中では早く到着してほしい気持ちと、このまま時が止まってしまえばいいのにと思う気持ちがせめぎあっていた。

 あげは町を出発してからどれほどの時間が流れていたのかはわからない。そのとき、声が聴こえた。


「お三人方。到着しましたよ」

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