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あげは会のなわばりである町。その町に正式な名はなかったが、通称であげは町と呼ばれていた。そのあげは町には、たった一軒しかない宿屋があった。色式士協会の土地である朝伎の街との境目にあるその宿屋には、いろんな人間が、いろんな事情で泊まりに来る。だから自然と色式士協会とあげは会の両方の情報が集まってくる。
吉之は店主が情報屋としても活動していることを知っていた。それは吉之自身が、以前この店主の男に世話になったことがあるからだ。
宿の一階にある酒場の隅。細長い椅子に、吉之は座っていた。
日も落ちてきたので、今夜はこの宿屋に泊まることにしたのだ。カナタは相当疲れていたようすだったので、野宿させるのはやはりやめようと吉之は思いたち、シノグの持っていたヒイラギの資金と相談して、一番安い部屋をとることにした。カナタは部屋に着くと、すぐに近くにあった椅子の上で眠りに入ってしまった。仕方ないなと思い、吉之とシノグは協力してカナタを布団に寝かせた。彼女はいつもベッドで眠っていたために、明日の朝はきっと身体が痛いと言うかもしれないと思った。
吉之は酒が飲めないので、本当はシノグに情報交換を頼みたかったのだが、カナタの側を離れるわけにはいかないと言われたのもあって、吉之だけがここに座っている。
「お久しぶりですね」
店主の男。優木がそう言ってほほ笑んだ。優木は吉之の目の前で盆を持って立っている。深緑色の着物が彼の細い身体の線を際立たせていた。
「覚えているのか」
そのことに、吉之は驚いた。
「とても印象的でしたから」
「だからと言って、人ひとり覚えるのは大変だろう」
吉之は言いながら、周囲に視線を向ける。
酒場には吉之を合わせて四人の客がいた。
吉之は一番奥の席に座っていたので、他の客に会話を聞かれる心配はない。しかし吉之も優木も声を押さえて話していた。
客のひとりは酒を飲み酔っぱらっているようすで、上機嫌に唄を歌っている。
「ええ。ですが、あんなに切羽詰まった顔で来られた方は、あなたが初めてです。ところで、ご注文は?」
優木は涼しげな顔をして言った。
「情報をひとつ」
「どちらのでしょうか」
優木の問いに、吉之は迷わず答える。
「両方だな。現状が知りたい。何が起こっているのか」
吉之は、とにかく色式士協会とあげは会の情報を手に入れないことには、下手に動けないと思っていた。美咲の言動からして、今何かが起こっていることは予想できた。
このまま二つの抗争に巻き込まれることだけは避けなければならない。
「何が出せます」
と優木が言った。
「地下に関するもの」
そう言って吉之は四つ折りにした手のひらほどの小さな紙を、優木に渡す。
「わかりました。ではしばらくお待ちください」
優木はほほ笑みながら言うと、店の奥の部屋に行ってしまった。
吉之は優木が戻ってくる間に色々考えようと思ったが、流石に酔っぱらいの唄う歌がうるさいので集中できなかった。部屋でゆっくり考えよう。と吉之は思った。
しばらくして優木が戻ってきた頃には、酔っぱらいは唄いつかれたのか椅子の上で眠ってしまっていた。
優木は吉之に紙を手渡してきた。それには吉之の欲しがった情報が書かれているのだろう。吉之は優木に礼を言い、部屋に帰った。
部屋に入ると、カナタとシノグが一緒に布団で眠っていたので少しだけ驚いたが、吉之はゆっくり考え事ができるなと思って部屋の端にあった座椅子に座った。
優木から受け取った紙を広げると、そこには明後日、あげは会が色式士協会に強襲するという情報が書かれていた。
「まさか」
吉之は目を見開き、右手で口を押える。
よく読むと、原因は地下であげは会の色式士が暴れたため、資金源が一部絶たれたことにあるらしい。これを機に小康状態であった協会を潰して自分たちのものにする計画が実行されるというのだ。
おそらく、ここに書かれているあげは会の色式士というのは自分の事だな。と吉之は思った。多少の罪悪感が襲ってくるが、後悔はしていなかった。あげは会は何よりも、個人の自由を重んじる。貴族の奴隷になることは、その自由を奪われること。吉之の行動は、何も間違っていなかったはずだ。
吉之はゆっくりと、優木に手渡された紙の二枚目を広げる。そちらには、色式士協会側はあげは会を迎え撃つ準備をしていると書かれていた。
吉之は眉をひそめた。
明日には馬車で色式士協会の管理する養成学校へ向かう予定だった。ヒイラギの知り合いに会いに行かなくてはいけない。けれど、今のこの状況であげは会の人間である吉之が学校へ行けば、間違いなく警戒される。まともに取り合ってくれるかもわからない。
――こうなる原因を作ってしまったのは自分だ。
吉之はそう思いながら、二枚の紙を床に置く。
状況は最悪だった。美咲は吉之にあげは会に戻ってこいと言ったけれど、あげは会からしたら吉之は都合の悪いことをした人間だ。吉之の存在を、このまま見逃してくれるはずがない。
吉之は、眠っているカナタとシノグを見つめる。二人はこの件に関係がない。今ならまだ、二人を巻き込まずに済むかもしれない。吉之が二人から離れれば――。
そんなことを考えていたとき、ふと窓の外から物音がした。歪んだ硝子窓の向こうに、人影が映っていた。
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