ヒイラギ先生のことは、完全に吹っ切れたと言えば嘘になる。

 思い出すと涙が出るし、哀しい気持ちと淋しい気持ちが一度に襲ってくる。

 それでもこうして笑っていられるのは、シノグと吉之がそばにいてくれるからだと思う。

 カナタは歩いている。二人の少しだけ後ろをゆったりと歩いている。ときどき二人とも、カナタのほうを見て歩幅を合わせてくれる。

 そのたびにカナタは、二人のことが大好きだなと思う。

 シノグと吉之の関係は、時計の針のようだ。長針と短針は追いつけ追い越せの関係だけれど、それでも二つの針が重なる瞬間が必ずある。シノグと吉之の間には、そういう信頼があるのではないかと、カナタは思う。そしてカナタはそれを見守る人間のひとりだ。そうでありたい。

 これはお別れするための旅で、また新しく始めるための旅だ。

 哀しくて淋しいけれど、前を向いて歩かなくてはいけない。

 ヒイラギ先生曰く、カナタは橋なのだそうだ。

 カナタが神の世界と人間の世界を再び繋げることが出来たら、それは素敵なことだとヒイラギ先生は言っていた。カナタもそう思う。だからカナタは決めた。自分が新しい未来への懸け橋になると。

 どうなるかはわからない。上手くいけば世界がすべて覆るし、上手くいかなければまた天災が起こって最悪の状況になるかもしれない。それでも少しの希望にすがることが悪いことだとは思わない。だから、カナタはヒイラギ先生の意思を引き継ぐ。

 市場を出てから、十数分が経っていたと思う。

 住宅らしきものが等間隔に建っている。そこに人が住んでいることが信じられないほど、カナタの目には倉庫か小屋にしか見えなかった。メイの街と比べ物にならないくらい淋しい場所だと思った。

 カナタの知らない世界だった。いや。知っていたのだと思う。動画で見たことがある。むしろ映像でしか見たことがないから、創作物かと思っていた。

 でも本物だった。この肌で感じる空気も風も、色がなくて美味しくない林檎もすべて本物だ。それが嬉しくて、感動していた。泣いてしまいそうだった。これがヒイラギ先生やシノグ、吉之が見てきた世界なんだ。


『……ケタ……』


 突然、カナタの頭の中に何かの声が響いた。それは唐突で、恐ろしく低音だった。それが声だと認識できたのは、何故だろうか。

 シノグと吉之の声ではない。別の誰か。いや、何かの声だ。

 カナタは嫌な予感がした。


「二人とも、待って」


 カナタは声を上げた。そのとき何か大きな音が聴こえて、その声はかき消された。

 シノグと吉之はカナタが呼び止めるまでもなく、歩くのをやめた。


「警告音だ」


 と吉之が言った。

 音はすぐに止まったが、次に何かの叫び声が聴こえてきて進行方向から二人ほど人が逃げるように走ってきたのが見えた。


「おい、何してる。お前らも早く逃げろ」


 ひとりが立ち止まり、息を切らしながらカナタたちに声をかけてくる。もやしのように痩せた男だった。


「構わん。先に逃げろ」


 吉之がその男に向かってそう言った。


「何を言って……」


 顔をしかめる男に、今度はシノグが言う。


「彼は色式士です。任せておけばいいんじゃないですか」

「まあ。それなら」


 安堵したような表情を浮かべる男。


「でも一応。万が一ということもありますし。逃げてください」

「だったらお嬢さんたちも」


 焦るように男が言うと、

「大丈夫です。彼女は僕が守りますから」


 シノグがそう言って懐から銃を取り出した。それはいつぞやに吉之に突き付けた銃だ。どうしてそんなものを持っているのかとカナタは以前シノグに問いかけたことがある。シノグはこれは大事なお守りだと言った。だから銃弾は入っていないとも言っていた。


「おい、あんた。他に対応している色式士は?」


 吉之が男に問う。


「い、いない。いきなり襲われたんだ。逃げるので精いっぱいだった」


 男は首を横に振りながら答えた。


「そうか。なら好都合だ」


 吉之がそう言って羽織っていたマントの隙間から右腕を大きく振るように出した。それと同時に彼の腕は橙色の光を纏う。色式だった。彼は橙色式を編んでいる。


「あまり無茶だけはしないようにお願いしますよ」


 とシノグが吉之に向かって忠告する。


「わかってる」


 面倒そうに、吉之はそう返事をした。


『――ミツケタ』


 今度ははっきりとした声が、カナタの頭の中に響いた。

 カナタは思わず両耳を両手でふさいで、その場にしゃがみこんだ。


「なんなの」


 怖い。と感じる。

 暗がりにひとり取り残された気分だ。周りには誰もいないかのように思えた。


「カナタ?」


 名前を呼ぶ声に、我に返る。見上げると、シノグが心配そうな顔をしてこちらを見ている。


「どうしました」

「声が……」


 唇が震えた。


「声?」


 シノグが首をかしげている。


「声が聴こえるの」


 やっとの思いでカナタは言葉を絞り出した。


「誰の声ですか」


 シノグの質問に、カナタは首を横に振る。

 声は、カナタにしか聴こえていないのだと理解した。


「わからない。わからないけれど、頭の中に直接届いてくるの」

「何といっているのか、わかりますか」

「見つけたって――」


 カナタがその言葉を口にした瞬間だった。

 突風が吹いた。強くて恐ろしい風が吹いた。その風を色に例えるならば黒だ。とても良くない風。

 カナタたちの目の前で、黒い粒子が一緒に漂ってきてひとつの黒い塊になる。それは次第に二本足になり、胴体が創られ左右に腕まで生えてきた。首ができて最後に頭の形になり、そしてそこから二本の角が生えた。それはヒイラギ先生やシノグ。吉之が言っていた鬼の形とそっくりだった。あるいは御伽噺の本で見た鬼の姿そのものであった。

 カナタは呆気に取られていた。しゃがんだ状態から立ち上がることができなかった。


「二人とも下がってろ」


 吉之がそう言って、カナタとシノグをかばうように鬼の前に立った。

 さきほどの男はいつの間にか逃げたようだ。どこにも見当たらなかった。

 両耳を塞いでいても、鬼の咆哮が鼓膜に響く。


「あなたひとりで充分だとでも?」


 シノグが、吉之の背中に向かって言った。


「むしろ足手まといだ」


 吉之がシノグに向かってそう返した。


「な――」


 シノグが何かを言い返そうとしたけれど、吉之はそれを遮るように振り向いた。


「そんなふうに手が震えてちゃな。いいから、カナタと一緒に下がってろ」


 吉之の目線は、シノグの銃を持つ手に向けられていた。

 そしてすぐに鬼のほうに視線を戻す。


「どうしてわかったんですか」


 シノグが震える声で言った。

 必死に隠していたであろう声色は、もう隠す必要がなかった。


「当たり前だろう。あんたが鬼を怖がるのは。あんたの事情を知ったなら尚更だ。それにだ。鬼は誰だって怖いものだろ」


 吉之はそう言ってから、鬼に向かって駆け出した。

 自分たちよりはるかに大きな鬼だった。体長は五メートル以上ありそうだ。そんなものにたったひとりで挑んでいく吉之を見て、カナタはああやっぱり彼はかっこいいなと思った。

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