自分はもうすぐ死ぬのだろうとヒイラギは一人思う。慕ってくれる弟子や娘には悪いが、それは抗えない定めなのだと、それが寿命なのだと悟っていた。老い先短いこの命をどう使うのかはヒイラギの勝手だった。ヒイラギは白髪交じりの無精ひげを右手で触る。考える時の癖だった。右ひじを左手で支える。そのまま数秒動かずに、以前から思考していたあることを実行に移すことに決めた。ヒイラギは残されたもののために、ある選択をさせることにした。カナタたちがどちらを選ぶかはわからない。だがそれは世界をも揺るがす答えであることは確かだ。

 ヒイラギは筆を執る。縦書きの白い便箋を二枚、机上に用意していた。一枚は古い知人宛てのもの。彼に手紙を書くのは久しぶりだった。失礼なことを書かないように注意しながら文字を綴る。旧知の仲とはいえ、神経質な相手のことを思うと頼みごとをするのも憚られる。しかし、彼はヒイラギにとって最も信頼できる相手であった。ヒイラギは慎重に言葉を選びながら筆を走らせて、自分の思いや今後のことを書いた。

 もう一枚は、シノグとカナタへ宛てたものだったが、どこから書いたらよいものか頭を悩ませた。すべてを最初から語るにはおそらく紙が足りないだろう。ヒイラギは真実を書こうとしていた。この世界の成り立ちからすべて。自分が今まで二人に隠していたこと、そのすべてを明かそうと心に決めたのだ。

 しかし、筆は進まなかった。そうしているうちにノックの音の代わりに部屋の呼び出し音が鳴る。誰かが部屋の前の端末を操作したのだろう。

 ヒイラギは机上にある別の端末の画面を見る。カメラに映っているシノグを見て、思わず狼狽する。まだ乾かしていた知人宛ての手紙は急いで封筒に入れた。真っ白な便箋はそのままに、音声を繋ぐ。


「どうした?」

「先生、飲み物をお持ちしました」


 つくづく気の利く弟子だと思った。


「ああ。ありがとう」


 ヒイラギは重い腰を上げ椅子から立ち上がると、丁度いいな。と思い直す。

 扉を開けてシノグの顔を見ると、ヒイラギは彼に向かってこう言った。


「シノグ。カナタを交えて大事な話がある」

「大事な話ですか」

「少し長くなる。せっかく持ってきてくれたところ悪いが、その飲み物はリビングで話しながら頂こう」


 ヒイラギの真剣な表情に、シノグも気持ちを引き締めたのを感じた。


「はい。わかりました」


 シノグが頷いて、ヒイラギのために用意したであろうティーカップに入ったコーッヒーを持ったまま白衣を翻してリビングのある方向を向く。

 ヒイラギはまた少しだけ髭を触り思考する。大事な話はシノグとカナタにするつもりであったが、今はもうひとり家族がいるのだ。彼にも参加してもらうのも手ではないのだろうかと。きっとそのための縁だったのではないかと。


「――いや。やはり吉之くんも呼んで四人で話そう。そのほうがいい」

「え? 吉之もですか」


 ヒイラギの言葉に、シノグは驚いて振り向く。


「不服かね」


 とヒイラギは笑う。


「いいえ。先生の判断に任せます」


 シノグはそう言って首を横に振った。


「そうしてくれると助かる」


 ヒイラギは笑みを浮かべたまま頷いた。

 カナタ、シノグ、吉之。三人にすべてを語りつくしたら、きっと自分は役目を終えるだろう。五十七年。短くも長い人生だった。

 彼らはこれから世界の真実を目の当たりにするだろう。その時にどちらを選ぶのか。ヒイラギはまだ知らない。そして永遠に知ることはないだろう。何故ならそれがヒイラギに課せられた運命だからだ。


 ――願わくば、三人が最善の選択をしてくれますように。


      *


 リビングには二人掛けのソファと一人用のソファがあり、そのすぐ傍に丸いローテーブルがあった。座るところが一つ足りなかったので、シノグは研究室にある折り畳み椅子を一脚持ってきてそれに座った。

 ヒイラギとカナタが二人掛けソファ。吉之が一人掛けソファに座るという形になった。

 テーブルの上には四つのティーカップが置かれている。一つだけ紅茶で、あとの三つはコーヒーが入れられていた。紅茶を飲むのはカナタだった。彼女はコーヒーをあまり好まない。飲むときは砂糖を多めに入れる。


「さて」


 とヒイラギがコーヒーを一口飲んでから言った。


「どこから話したら良いものか」


 部屋には緊張感が漂っていた。まるで膨らんだ風船に針を刺す前みたいな空気だった。これから割れますよ。大きな音がしますよと、事前にわかっているのだからそんなに怖がることはないのに。ヒイラギ以外の三人は何故か顔を強張らせていた。

 ヒイラギの表情が、いつになく真剣だったからだ。

 大事な話と言われたときから覚悟していた。ヒイラギはこれから自分たちの頭の上に爆弾を落とそうとしているのかもしれないと。

 わかっているのに怖かった。中身が怖い。割れた風船から何が出てくるのかわからないから怖いのだ。


「きっかけはこの本だった」


 ヒイラギはティーカップをテーブルに置いて、白衣のポケットから一冊の本を取り出した。とてもシンプルな装丁の本だった。茶色一色で塗られており、タイトルも著者名も書いておらず、どちらが表紙で裏表紙かもわからなかった。一見して本とは思えなかった。本の保管室で見た単行本と呼ばれるものと同じぐらいの大きさと分厚さがあり、読みごたえはありそうだった。

 シノグはヒイラギからそれを受け取る。本を開くと一ページ目にはこう書かれていた。


――本書に書かれているものはすべて真実であり、決して嘘偽りのないものとする。本書は決して見つからないものとして隠すべきものであり、本書の内容は機密とする。本書を拝読した者はただちにその重要性を理解し、絶対に見つからない場所に再び隠してほしい――


「わたしがその本を手に入れたのは本当に偶然だった」


 ヒイラギは慎重に言葉を選びながら話を始めた。


「あれはまだわたしが地上で研究を続けていた頃だ。鬼に襲われて放棄された村の調査に赴いたときに、瓦礫の下からその本を発見した。誰がどんな目的でこの本を残したのかはわからない。だが、凄く衝撃的なことが書かれていたよ。それこそ我々の世界の成り立ちを根底から覆すような事実がね」


 シノグは本を開いた状態で持ったまま、ヒイラギに視線を戻し、彼の話を聞いた。その場にいた全員が、ヒイラギの話に聞き入っていた。


        *


 ――それはひとつの予言に始まる。

『まもなく大きな災いがやってくる。それを招く者が神々の中にいる』――


 ――大神様の予言は必ず起こることとされている。この予言により、神々は地上から消えることを選択した。良き隣人である人々を守るためであった。そのために空を飛ぶ船を造り、予言の日を最後に地上から姿を消した――


 ――神々は人々に何も伝えてはいなかった。何も知らない人々は怒り苦しみ憎み、挙句神々は我々を裏切ったとしてその歴史から抹消してしまった――


 ――その日は嵐で、不吉な日であった。その数日後。色を喰う鬼が現れたのである――

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