客間に通されたヒイラギと吉之は、隣同士で緑色のソファに座っていた。目の前には低い長方形の机と向かいに座っているものと同じソファがあり、そこにモルフが座っていた。

 机の上にはモルフが淹れた紅茶の入ったティーカップがあった。

 

「では、彼がその。リク様とマリナ様の息子ということですか」

「そうみたいなんだ」


 ヒイラギが吉之から聞いた事情をそのままモルフに伝えて、関係性を確認した。

 マリナというのが吉之の母親の名前だった。

 吉之は黙って話を聞いていた。


「私、マリナ様が身ごもっていらっしゃったことを知りませんでした」

「わたしもだ。でも顔がそっくりだったのでな。すぐに察した」

「言われてみればそうですね。マリナ様によく似ていらっしゃいます。でも目元はリク様に似ているかもしれません」

「ああ」


 とヒイラギが吉之の顔を見て、ほほ笑む。

 吉之は顔をそむけた。

 紅茶を一口飲んで、やっと少しだけ心が落ち着いた気がした。それでもまだぐちゃぐちゃの感情を、すべて整えることはできなかった。


「まぁ、なんだ。そういうわけで、こちらの事情は以上だ。吉之はマリナ氏が亡くなったときに初めて父親。リク氏の存在を知ったようだ。あれを見て、取り乱すのも無理はないと思うよ。こちらの事情を一切知らないのだから当然だ」

「マリナ様は、吉之様に詳しいことは何もお伝えしなかったのですね」 


 モルフの言葉に、吉之は頷いた。


「俺が母から聴いたのは、母は元々メイの人間で、俺の父親もそうだということ。それと、父親の名前を何度もうわ言のように呟いていた」


 吉之は母のことを思い出しながら言った。

 今でも鮮明に思い出せる。弱々しい母の声を。

 モルフがティーカップを手に取り、紅茶を一口飲んで一息つく。ティーカップを元の位置に戻すと彼はゆっくりと言った。


「簡単にこちらの事情を説明いたしますと、マリナ様はリク様の正妻ではありません」

「え?」


 と吉之は思わず声を出したが、それはある程度予想していたことだった。


「ですから、マリナ様はつらい思いをされてきたと思います。この屋敷に一緒に住んでおりましたが、リク様がご病気になられたことにより元々悪かった立場がもっと悪くなられました。マリナ様に地上へ行くよう言ったのは、リク様です。丁度、色式に頼りヒイラギ様をお呼びした後の話です。あの頃はまだ、リク様も会話をすることができました」

「だからわたしも、詳しい話は知らなかったということだ」


 モルフの話に付け足すように、ヒイラギが言った。


「でも、地上は。鬼が」

「ええ。ですが、それで人が死んだという事実はありません。鬼はただ、色を食いつぶすだけだと聞きました。それならば、ここにこのままいるよりはずっと幸せなのではないかとリク様はお考えになられたのだと思います。なので、必要最低限の貨幣と荷物を持たせて、リク様はマリナ様を地上へ逃がしました。以来、私もマリナ様の所在を知りませんでした。まさか亡くなっていたとは……」

「だから恨まないで。だったのか」


 吉之は母の言葉の意図をやっと理解して、息を吐いた。

 父が母を逃がした。その言葉を聞けて良かったと吉之は思った。もっと非道な理由で母が地上へ来ることになっていたら、おそらく吉之は平静を保てなくなっただろう。


「吉之様。マリナ様は、地上で幸せに暮らせていましたか? それだけが、ただ心配でした。私たちの選択は間違っていたのではないかと」


 モルフの質問に、吉之は答える。


「幸せだったかどうかは、わからない。けれど病気になる前は、いつも笑っていたように思う。だから、たぶん間違っていなかったんだと思う」

「それを聞いて安心しました」


 モルフがほほ笑む。


「リク様に代わってお礼を申し上げます。ありがとうございました」


 吉之に向かってモルフが頭を下げた。


「やめてくれ。俺は何もしていない。何もできなかった」


 吉之は頭を横に振る。

 お礼を言われるようなことは何もしていない。ただ母と二人、一緒に生活していただけだ。母を幸せにしてあげられていたのかどうかもわからない。


「いいえ。マリナ様がひとりではなくてよかったです。あなたがいてくれてよかったです。謙遜しないでください」


 ここに来てそんなことを言われるとは思っていなかった。

 捨てられたわけじゃなかった。それがわかっただけでも救われた気分だった。けれど、心の中のもやもやが解消されたわけでもなかった。


「ひとつ……。聞いても良いか」

「何ですか」

「どうして、あの人は色式での治療を続けているんだ」


 父と口に出して呼ぶには、まだ抵抗があった。

 吉之はモルフの目を見られなかった。


「ひとつ言えば、我儘。ですかね。確かに先ほど吉之様がおっしゃった通り、死んでいるのと同じ。意味のないことかもしれません。ですが、それを本人が望んでいるのだとしたら、無意味ではないはずです。人間というのは、生を望むものでしょう」


 モルフの言葉を、吉之は否定することはできなかった。彼の言う通りだ。人間は生にしがみつく。生きたいとどうしても望んでしまうものだ。それが例えどんな状態であっても。


「納得……していくしかないのだと思うんだ」


 隣に座っていたヒイラギが静かに言った。

 彼は今この場にいる誰よりも、生きることについて考えられる人間だろう。リクの気持ちを誰よりも理解できる。


「リク氏がわたしを呼んだのも、何も抗いもせずそのまま死ぬことが嫌だったからだろう。苦しいけれど、つらいけれど、それでも生きたいと望んだ。わたしは無力だったが、それでもいいとリク氏は言ってくれた。治療を続けるうちに、お互いに何か見えてくるものがあるのではないかと彼は言ったんだ。それがわたしに課せられたひとつの試練なのではないかと、今では思うよ」

「そんなの、むちゃくちゃだ」


 吉之はそう言って、顔を俯かせた。


「ああ。むちゃくちゃだな」


 とヒイラギは言って、吉之の頭に手を乗せた。そのまま撫でるでもなく叩くでもなくただ乗せただけだったが、なんだか妙に安心感を覚えてしまって、吉之は泣いてしまいそうになった。

 結局のところ、吉之には何もできることはない。

 ヒイラギが無力だと言ったように、吉之もまた無力だった。

 帰り際。「またいつでも来てくださいね」とモルフが言った。吉之は思わずヒイラギのほうを見るとヒイラギは笑って、「ではまた」と言った。

 吉之はヒイラギが自身の病気のことをモルフにも伝えていないのだと察した。

 吉之は、何も言わずにモルフに向かって頷いた。


 ――また、なんてあるのだろうか。


      *


 その日は朝から、ヒイラギ先生と吉之がどこかへ出かけていた。珍しいこともあるものだと思ったが、シノグが「もしかして」と少し晴れた顔をしていたので不安になった。

 シノグが吉之をあまりよく思っていないことぐらい、カナタだって気づいていた。だからそんな表情をするということは、「もしかして」ついにヒイラギが折れたのではないかと言いたそうだった。

 夕方になって二人が帰ってくるまでの間。カナタは心ここにあらずだった。何をしている間も、ご飯を食べている間も、日記を書いている間も。ずっと吉之のことを考えていた。

 もしも吉之だけが帰ってこなかったらどうしよう。どこかの貴族の家にもらわれたらどうしよう。そんなよくない思考がカナタの頭の中を駆け巡っていた。


「ただいま」


 と言ってヒイラギと共に吉之が屋敷に帰ってきたことに、カナタは安堵した。


「おかえり!」


 カナタが嬉しそうに言うと、吉之は困ったような表情をみせてきた。疲れているのかと思って、その日はあまり吉之に話しかけないようにした。

 吉之が帰ってきたことに、シノグは残念がっていた。

 吉之は夕食の席で、あまり食事が喉が通らない様子だったので、やはり疲れていたのだろうと思う。いつもより早めに寝室へ入っていった。

 ヒイラギに「どうしたの?」と問うと、ヒイラギも疲れた顔をして「心配しないで」と言った。そんなことを言われると余計に心配になることを、ヒイラギは知らないのだろうか。

 翌朝。朝食の当番だったのでカナタは包丁を使わずに料理した。いつもそうだった。コーヒーは機械で自動で淹れてくれるし、クッキーみたいな食感だけど栄養がたくさんつまっている丸い粒の食べ物をお皿に盛っただけの簡単なものだ。

 誰かが起きてきたのか、食堂の扉を開けたのに気付いた。見るとそこにいたのは吉之だった。吉之はカナタに「おはよう」と言うと、カナタの返事も聞かずにテーブルの前の椅子に座って置いてあったタブレット端末を触りだした。


「おはよう。昨日はよく眠れた?」


 カナタは勇気を出して、吉之に向かってそう尋ねた。


「いいや」


 吉之はタブレットから手を離すとカナタのほうを見てそう言った。

 コーヒーが四人分淹れ終わるまでの間、やることがないので吉之に話しかける。


「昨日はどうしたの? 酷く疲れた顔をしてたよ」

「そうか?」

「そうだよ」

「……そうかもしれないな」


 間があったが、吉之は頷いた。


「そうだ。吉之は、ここでの生活にもう慣れた?」


 吉之は答えない。


「吉之がここに来て二週間経つんだっけ。あたし、新しい家族が増えて嬉しいよ」

「家族?」


 カナタの言葉が気に障りでもしたのか、吉之が険しい顔をする。

 カナタは一瞬だけ怖くなったが、話を続ける。


「同じ家で寝て。一緒にご飯食べて。同じ時間を過ごしている。それってもう家族なんだよ。先生が言ってた」

「ばかばかしい。俺はただの厄介な客だろ」

「違うよー」

「とても歓迎されているとは思えないんだけれど」


 吉之が不機嫌な顔をして言った。

 理由はわからないが、カナタは吉之を怒らせてしまったようだった。


「どうしてそういうこというの」

「俺にはもう、家族なんてものは存在しない」

「する」

「しない」

「するもん!」


 言い合いになって、カナタは泣きそうな顔をした。

 吉之は大きくため息をついた。


「俺はずっと母親と二人っきりの家族だった。母が亡くなってからは独りだ。父親は、きっとこれからも――」


 吉之の言葉はそこから続かなかった。

 カナタは吉之の気持ちがわからない。けれど、わかるような気もした。

 カナタは生まれたときから独りで。けれど独りではなかった。

 カナタには、生まれたときから父親も母親もいなかった。ヒイラギすら会ったこともないらしい。だからどんな人だったのかまったくわからない。

 カナタはヒイラギに拾われてシノグと一緒に家族のように育ったから、カナタにとってはヒイラギとシノグは育ての親みたいなものだ。もしもその二人と二度と会えなくなってしまったらと思うと、胸が張り裂けそうだ。


「吉之は、淋しいんだね」


 とカナタはぽつりと言う。

 気が付くと、カナタは吉之の頭を自分の胸に引き寄せていた。身体の横側から抱かれた吉之はテーブルのほうを向いたまま、目を丸くしていた。しかし振り払う気力もないのか、されるがままだった。

 吉之は図星だったのか。何も言い返してはこなかった。


「大丈夫だよ。吉之はもう独りじゃないよ」


 昨日、吉之の身に何があったのかはわからない。きっと詳しいことは教えてもくれないのだろう。そんな気がしたが、いつか。もしかしたらずっと先の未来で話してくれる日が来るのかもしれないとカナタは思った。

 そういうのも、悪くない。

 吉之の胸辺りに回した手に、いくつもの水の粒が落ちてきた。カナタはそれに気づかないふりをする。その代わり抱きしめる腕に力を込めた。

 数分後にコーヒーを淹れる機械の音が鳴るまで、カナタと吉之はずっとそうしていた。カナタは吉之を離さなかったし、吉之も抵抗しなかった。

 静かに時は流れていった。

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