昇降機はゆっくりと動いていた。耳が膜を張ったような感じがしたので、吉之は思わず唾をのんだ。ヒイラギから言われたままに着た白衣が、吉之には似合っていない気がした。鏡があれば鼻で笑っていただろう。ただでさえ中に着慣れないワイシャツと、下はズボンを履いているのに、このままだと心も体もメイの人間になってしまいそうだった。

 外は見えない。昇降機の天井にある蛍光灯の光が眩しかった。

 どれくらいの時間が流れたのだろうか。ヒイラギも吉之も無言だった。椅子もないので立ったまま、ただ到着するのを待っている。

 途中、ヒイラギが何度か咳をした。吉之はもう何も言わなかった。ヒイラギは心配も介抱もしてほしくないみたいだった。

 吉之は逸る気持ちを抑えるのに必死だった。緊張もしている。父親という吉之の中では得体のしれない存在にこれから会うのだと思うと、心は少しも落ち着かなかった。

 吉之は、父親を知らない。父親というのは本来なら家族の中でどんな役割を担うのかもわからなかった。だから養成学校にいたころ。父親との話をする学生に吉之はこう尋ねたことがある。


「父親ってのは、いると楽しいのか?」


 奇異な目で見られたのは言うまでもない。

 ただ相手にとっての当たり前と吉之にとっての当たり前はまったく違ったという話だ。

 親。という感覚はわかる。


 ――吉之が物心ついたころには、もう母親しかいなかった。母親からの愛を感じて吉之は生きてきた。けれど父親からの愛を吉之は感じたことがない。いないのだから感じられるはずがない。


 だから尋ねた。質問した。

 両親ともいる感覚がわからなかったから。

 憐れむような視線が、吉之を突き刺した。

 父親がいないというのはおかしなことなのか? 吉之はそう思った。理解した。吉之にとっての普通が他人にとっての普通ではないと理解した。

 周りの人間はみんな吉之に近づこうとしなかった。吉之はいつも独りだった。

 壁に設置されていた液晶版の表示が、下層・貴族街という文字に代わり、突然高い音が短く鳴った。どうやら到着の合図だったらしい。ヒイラギが咳払いをして隣にいた吉之の背中を軽く叩いた。

 昇降機から降りると、立派なお屋敷が立ち並ぶ街並みに圧倒された。上層とはまったく違う。ヒイラギの屋敷よりも大きい。まさに大豪邸と呼ぶにふさわしい邸宅がいくつも建っていた。


「付いてきて」


 とヒイラギが言った。

 ヒイラギは手のひらほどの大きさの携帯端末を操作していた。先方に連絡を取っているらしい。それが終わるとまたゆっくりと歩き出した。

 洒落た茶色の煉瓦道を歩き、いくつかの邸宅の前を通る。途中、貴族の子どもが元気に走り回っていたのでヒイラギが「転ぶなよ」と注意していた。その声はとても優しかった。

 だから吉之はなんとなく尋ねた。


「子どもが好きなのか?」


 ヒイラギは驚いたのか目を丸くした。


「ああ。別に、嫌いではない。少しシノグやカナタが小さかった時のことを思い出してな。懐かしく思ったよ」

「あんたにとって、あの二人は何なんだ? ただの研究者と助手には見えない」

「そうか。言っていなかったかな。シノグは事情があって、十二歳のときからうちにいる。カナタは……赤ん坊の時にわたしが拾ったんだ。だからわたしもシノグも、彼女にとっては育ての親みたいなものかな。家族なんだよ」

「家族……」


 呟くように、吉之はその言葉を繰り返した。

 今の吉之には、家族と呼べる人間がひとりもいない。これから会う父親を、吉之は家族と思えるのだろうか。そればかりは、会ってみないとわからなかった。

 昇降機から降りて、そんなに時間はかからなかった。十分程といったところか。他の邸宅とさほど変わらない大きさだが、趣はどこか違う。

 門の前で、ヒイラギは再び端末を操作していた。しばらくすると門が自動的にゆっくりと開いた。

 足が震えた。一歩一歩が重くて、怖いのかもしれないと思った。

 母親が亡くなってから五年間。ずっと思い描いてきた。父親に会うという目的。それがもうすぐ叶おうとしている。

 広い庭を横目にしながら、玄関までの導入路を歩く。玄関扉の前には、伏木弦ふしきげんが着ていたものと似た服装をした男が立っていた。ただし胸元は蝶々に見えるように結ばれているものだった。


「お待ちしておりました。ヒイラギ様と、そちらはお連れ様ですか」


 男の視線が、吉之に向けられる。


「ああ。わたしの新しい助手のヨシユキだ」


 ヒイラギの言葉に、吉之は黙ったまま頭を下げる。

 下手に口を開いてはいけないような気がしていた。


「私はこの館の執事長を務めております。モルフと申します。以後お見知りおきを」


 男。モルフはそう言って吉之に向かって握手を求めてきた。吉之はその手におそるおそる答えた。


「では、中へお入りください」


 モルフは吉之のことを少しも疑うそぶりをせず、そう言って玄関扉を開いた。広い空間が、ヒイラギと吉之を出迎えた。紅い絨毯の廊下をゆっくりと歩く。煌びやかな置物を見て、さぞ高価なものなのだろうなと思った。

 モルフが足を留めたのはとある部屋の前だった。モルフはその部屋の扉を一度軽くたたいて「入ります」と挨拶をした。扉の中から返事は聴こえてこなかったが、モルフは構わずに扉を開いた。

 部屋に入ってすぐに、吉之は冷たい水を浴びせられた気分になった。予想だにしていなかった。目に飛び込んできたものを、信じられない気持ちで見た。

動揺は、隠せそうになかった。ヒイラギは知っていて吉之に何も説明せずに父親のもとに連れてきたのだ。それを理解して、まずヒイラギを見た。彼は無言のまま、吉之の背中を押した。

 いや、吉之の頭が足りなかったのかもしれない。だって、ヒイラギは言っていたではないか。彼は。病気だと。

 吉之はそのベッドに横になっている男の前に立たされて、どうしたらよいのかわからなかった。いくつもの管がその男と傍にある四角い機械につながれていた。

 部屋に響いていたのは、機械的な呼吸音と何を表すのかわからない高く短い音だけ。


「どうされました」


 無言で立ち尽くしていた吉之を見てか、モルフがそう尋ねてくる。


「思っていたよりも深刻で、驚いただけだと思います」


 吉之はヒイラギの言葉に、否定も肯定もしなかった。

 そう。驚いてはいる。同時に、落胆してもいた。

 こんな状態では、きっと話すことすらできない。

 見たくなかった。視界に入れたくなかった。一刻も早くこの部屋から出て行きたかった。今にも叫びだしてしまいそうなのを必死でこらえる。


「やはり意識は戻られていない様子ですね。前回わたしがここを訪れたのは、一月前でしたか」

「はい。一月前と状況は変わらずですね」

「無力で申し訳ない」

「いいえ。あなたに来ていただけるだけで充分ですから。希望はあります」


 吉之の耳に、ヒイラギとモルフの会話が入ってくる。

 ヒイラギがどうして吉之にエレベーターキーを中々渡さなかったのか。その理由がやっとわかった気がした。ヒイラギは最初から知っていた。病気が今も治っていないこと。とても話せる状態ではないこと。知っていて、吉之をここに連れてくるべきか悩んでいたのだ。


「色式を発動します。気休めにしかならないかもしれないが」

「お願いします」


 ヒイラギは吉之に自分が持っていた鞄を預けてくる。吉之はヒイラギの横に立ってその様子を見守るしかなかった。

 ヒイラギが癒しの色式である緑色式を編み始める。緑色の光が、ヒイラギの両手を飛び交い始める。


「こうしていると思い出すな。初めてここに来た日のことを」

「あの時は無理を言ってすみませんでした。藁をも縋る思いだったのです」


 モルフの苦い表情に、ヒイラギを地下へ連れてきた人物が彼なのだとわかる。


「いや。わたしも驚いたよ。でも結果的にここに来てよかったとわたしは思っているよ」

「と申しますと?」

「あのまま地上だけで研究を続けていても、わたしは満足のいく成果を上げられていなかったかもしれないからね」


 ヒイラギの発言の意味を汲み取ることはできなかった。

 モルフでさえ首をかしげていた。

 緑色式がヒイラギの手を伝ってその力を発揮する。眠っているリクの身体のすべてを緑色の光が包んだ。

 色式では体の痛みを鎮静化することはできても、病気の。根本を直すことは不可能だ。それをわかっていて尚もヒイラギとモルフは、希望に縋るらしい。

 馬鹿らしいと吉之は思う。


「こんな状態で生きることに、意味はあるのか」


 気が付いたら、そんな言葉が吉之の口からもれていた。


「こんなの、死んでいるのと同じじゃないか」


 動くことができない。しゃべることができない。生きていると言えるのだろうか。


「ヨシユキ」


 ヒイラギが言葉で止めるのを無視して、吉之は言う。


「なあ。何でだよ。俺はこんなこと予想していなかった。望んでいなかった。この人のこんな姿を、見たくなかった」


 ヒイラギから預かった鞄を持つ手に力を入れる。

 違う。これはただの吉之の我儘だ。

 父に会ったら母とのことを聞こうと思っていた。どうして母を捨て、自分を捨てたのだと問いただす気でいた。答えを求めていた。


 ――でもそれは叶わない。


 悔しかった。どうすることもできない自分に腹を立てていた。

 いっそのこと、死んでくれていたらまだ諦めがついたのにと思った。

 ただ理由が知りたかった、。こうなった理由。なってしまった理由。

 いつだかカナタが言った言葉を思い出す。

 わからないことをそのままにしておくのはよくない。

 その通りだった。


「ヨシユキ様?」


 モルフが困惑した表情で、じっと吉之の顔を見つめている。

 治療を終えたのか、ヒイラギがベッドから離れる。それから吉之の両肩を両手で掴み、言った。


「それでも、受け止めなくてはいけないよ」


 それは重い一言だった。


「ふざけるな……」


 と吉之は呟く。我慢の限界だった。


「ヨシユキ」

「ふざけるな!」


 吉之は叫びながらヒイラギから渡されていた鞄を床に放り投げる。中に入っていた書類が鞄から飛び出して数枚が床に散らばった。


「ヨシユキ!」


 ヒイラギが叫んだ。

 モルフは、二人を止めようとしたのか右手を胸の前まであげていた。


「どうしてだ」


 吉之はヒイラギの目を真っすぐに見て、尋ねる。


「君の気持ちもよくわかる。けれど、こちらにはこちらの事情があってこうなっているんだ。みんながみんな、君の意見と同じではないからね」


 ヒイラギがそう言って、ヨシユキの肩を抑えたままモルフの方に顔を向けた。


「モルフ氏。大声を出してすまない」

「いいえ。驚きましたが、何か事情がおありのようですね」


 モルフが目を丸くしながら言った。


「とりあえず、別室で話をしよう」


 ヒイラギは優しい声色でそう言った。

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