第三章 青紫色の追憶

 速水柊はやみひいらぎが小さなころに発見された色式は、いつでも柊の興味の対象だった。だから柊が色式の研究者になったのは、自然なことだった。

 当時はまだ色式に関する研究をする人間が少なく、彩では人間が鬼に襲われる事件の次に、色式に関連する事件や事故が多かった。

 色式士の養成学校が設立されてからの九年間。柊は学校の研究室で色式についての研究に明け暮れていた。いつの間にか色式研究の第一人者と呼ばれるようになってしまったのはとても喜ばしいことだったが、それが原因で後に大変なことになるとは思っていなかった。

 柊が彩からメイへ連れて来られたのは、下歴しもれき七十七年。三十四歳の頃だった。


「わたしはね。最初は断ったんだ。お金もない。研究するしか能のないわたしが、どうして地下に呼ばれたのかわからなかったからだ」


 下層へ降りるためのエレベーターへ向かう道中、ヒイラギは季野吉之きのよしゆきに自分の生い立ちを語っていた。

 吉之はただ黙ってヒイラギの話を聞いてくれている。


「それでも頭を下げられて、必死な顔で頼まれたら流石のわたしも放ってはおけなかった。どうしてそんなに必死なのかと問うと、その人は言ったよ。実は秘密裏に、色式に頼りたいというお人がいるんだ、と。その人は病気で、メイの医学じゃどうにもできない。だからどうか助けてほしいと。メイでは、色式が得体のしれないものと思われていてね。恐れられてはいたんだが、新しい可能性の力としてもみられていたんだ。だからわたしがメイに呼ばれたというわけだ。わたしの知識が役に立つのならと、わたしは地下へ降りることを決めた。それ以外の理由ならば、絶対に地下に降りなかっただろうな」


 ヒイラギはただでさえ細い目を、さらに細める。

 足が重かった。もう身体が思うように動かせないでいる。

 隣を一緒に歩いている吉之は、ゆっくりとしたヒイラギの歩調に合わせてくれている。


「地下へ降りたわたしが最初に連れていかれたのは、下層にあるとあるお屋敷だった。その屋敷の主人が、わたしを呼んだらしい。わたしが彼に初めて会ったとき、彼は部屋のベッドで眠っていた。そこに付き添っている女性がいたのを、覚えている。彼女はわたしに頭を下げると、そのまま部屋を出て行ったよ。だからそれだけだ。わたしと彼女の関わりは、たったそれだけだよ」


 そういいながら、ヒイラギは吉之のほうを見た。

 吉之もまた、ヒイラギのほうを見ていた。


「わたしは記憶力がある方でね。君を動画で見たときに、すぐに気づいたんだ。あの時の女性に似ている。と。わたしは彼らの事情をすべて知っているわけではない。わたしを地下に呼んだ男と、その時会った女性の関係性もわからない。ただわたしは君があの女性に似ていると感じただけの話だ。わたしが詮索していい話ではないと思った。でも何の因果か、君はわたしのところに来た。どうしたものかと思っていたよ」


 ヒイラギは眉間を寄せて、微かに笑う。


「素直にエレベーターキーを渡してしまっていいものかどうか、悩んだんだ」

「どうしてだ?」


 それまで黙っていた吉之が首をかしげる。


「吉之くんが目的を達成した場合。又は失った場合について考えていた。そのときに君がどうするのか」

「そんなこと――」

「ああ。余計なお世話かもしれないがね」


 吉之は、自分の母親は死んだのだと言った。遺言に、「お父さんを恨まないで」と残されたらしい。父親は地下都市メイに住んでいる貴族で、リクという名前らしいという情報しか彼は知らないと言った。


 歓楽街の入り口の近くに、エレベーターはあった。それは下層と上層を繋ぐための昇降機であり、人間はもちろん大きな荷物を乗せることもあった。家具や家電をたくさん乗せられるぐらいには広い空間と、最大重量が確保されている。

 ヒイラギと吉之はその大きなエレベーターの前に到着した。

 ヒイラギは持っていた鞄から丁寧に畳んでおいた白衣を取り出す。自分が着ているものと同じものだった。それを吉之に渡す。


「これをそのまま羽織ってくれ。君の立場は、今からわたしの助手ということになる。いいかい。話をわたしに合わせるんだ」

「話を合わせるって、そんなこと上手くいくわけないだろう」

「大丈夫。わたしが助ける。あとこれも、返しておくよ」


 そう言ってヒイラギは、季野吉之の情報の入った住民カードを、吉之本人に返した。それはヒイラギが吉之の住所情報を更新するために、吉之から預かったものだった。


「ああ。ありがとう」

「どういたしまして。君は複雑だろうが、どちらにしても住所がないと怪しまれるからね」

「どうしてここまでしてくれるんだ。約束があるとはいえ、その前から俺のことを気にかけてくれただろう」

「わたしは君を利用したいんだ。だから君もわたしを利用してくれていい。吉之くん。改めて聞くけれど。君は何の目的でリク氏に会いたいんだ?」


 ヒイラギはずっと迷っていた。だから吉之に質問をした。本当にこのまま彼を、彼に会わせてもいいものかどうか。


「確かめたいことが、あるんだ。それと、聞きたいことが山ほどある」

「――そうか。なら行こうか」


 覚悟をしなければならない。ヒイラギも吉之も。

 そういう流れの中で生きている。


 ――もう時間がない。

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