6
メイに来てから、吉之はわからないことがどんどん増えていくような気がしていた。
闘技場の件だってあのまま普通に優勝者として永住権と賞金を受け取って、その後の競売も受け入れていれば今頃こんなところにはいなかっただろう。貴族の奴隷になったところで、目的を果たした後に逃げ出せばそれでよかったはずだ。
でも吉之はそうしなかった。
この目で地下都市メイの街を見て、闘技場の現状を見て。吉之は腹を立てた。ただそれだけの理由で、あんなむちゃくちゃなことをした。
本当は、こんなところで油を売っている場合でもなかった。でも何日も経っても未だに吉之は目的を達成できていない。屋敷に来てそろそろ二週間になる。
吉之は、屋敷の中で入れる部屋はすべて入った。そして探した。それでもエレベターキーは見つからなかった。ヒイラギたちに、何をしているのかは聞かれなかった。わかっていたのだと思う。止められはしなかった。好きにしていいとヒイラギに言われた。もしかしたらヒイラギが隠し持っているのかもしれないと思っている。
一度、ヒイラギが出かけている時に彼の部屋に入ろうとしたことがあった。しかし鍵が掛けられていて入ることができなかった。吉之はどうにかこうにか侵入する方法を考えている。泥棒みたいな真似をすることに罪悪感はあったが、それでも目的のためには仕方ないと思った。いつまでもエレベターキーを渡さないヒイラギが悪いのだ。
この屋敷の鍵は特殊だった。それともメイの鍵はどれもそうなんだろうか。鍵穴はなく、扉には四角い機械がくっついていた。どうもカードキーが必要らしい。そういう部屋がいくつかあった。そのうちのひとつがヒイラギの部屋で、もうひとつが研究室だということはわかっていた。
吉之は機械に詳しくない。だからもしもカードキーをヒイラギのポケットから入手できたとしても、開け方など知るはずがなかった。
外の天井が闇に染まって、それから朝焼けみたいな色に変わるまでの時間。ヒイラギもシノグもカナタも眠っている。吉之は眠たい目を擦りながら、今日こそはとヒイラギの部屋に侵入する方法を部屋の前で考えていた。
例えば吉之が色式を使って扉をぶち抜いたとしよう。確実にヒイラギに怒られる。その時点でそれは失敗である。下手したらエレベーターキーを手に入れられずに家を追い出される可能性がある。これは最悪の方法であったので、吉之は無いなと思う。
例えば吉之が機械のことについて勉強すれば、この鍵の開け方がわかるだろうか。一体何年かかるのかわからない。そんなに根気よく待てるわけがないのだ。
吉之はため息をついた。
そのとき。目の前の扉が開いて吉之は目を見開いた。隠れたほうが良かったのかもしれないが、そんな余裕はなかった。突然のことに身体が動かなかった。
「あ」
声だけは出た。
それはほんとうに偶然起こったことだったのか。ヒイラギにとっても吉之が扉の前に立っていることが予想外だったのか、しばらく沈黙が流れた。
「吉之くん。どうしたんだい?」
廊下は暗く、灯りは窓から入ってくる街灯だけだった。
ヒイラギの声は寝起きのせいかいつもより低い。そして表情は薄暗くてよく見えなかった。
「考え事をしていた」
ごまかせないと思い、正直に答える。
「わたしの部屋の前でかい? どんなことを考えていたか当ててあげようか」
吉之は何かがおかしいと感じた。けれど何がおかしいかわからなかった。
ヒイラギが続ける。
「君は、わたしの部屋の前で、わたしの部屋にどうやって入ろうか考えていたんだ。けれど、その方法は見つからない。だから困っていた」
「そこまでわかっているなら、俺が何でそんなことを考えているかわかるだろう」
「そう……だね……」
歯切れの悪い返事だった。
ヒイラギは、酷い咳をした。普通の風邪の咳とは違う。血でも吐く勢いのある咳だ。ヒイラギが口を手で押さえる。
様子がおかしいと吉之は思った。
「げほっげほっ」
「おい。大丈夫か?」
慌てて尋ねると、ヒイラギは息を荒げて言う。
「大丈夫だ」
「大丈夫に見えないから聞いているんだ」
何かをしなければならないだろうかと、頭の隅で考える。そのうちに持ち直したのか、ヒイラギが口から手を放す。
「もう時間がないのかもしれないね。そろそろ本題に入ろうか。吉之くん」
とヒイラギがゆっくりとした口調で言った。
ヒイラギの目が真っすぐに吉之を見つめているのが、その視線でわかる。
本当にヒイラギは何を考えているのかわからないと吉之は思った。
「そんな話をしている場合かよ。シノグか、カナタを呼んだほうがいいんじゃないのか」
吉之は暗い廊下の先を見る。
「心配してくれるのはわかるが、たいしたことじゃないんだ。大丈夫。二人は呼ばなくて平気だよ」
ヒイラギの言葉に、吉之は視線を戻す。
「何がだよ。どこが平気なんだよ。そんな苦しそうな声を出して」
「シノグとカナタには、まだ言っていないんだ。だから……」
吉之は眉をひそめる。
「あんた、もしかして病気なのか?」
口に出したくない疑問を、吉之は言った。
ヒイラギの姿が、吉之の母親を想起させる。吉之の母親は、病気が原因で死んだ。
「歳だからな。もう五十七年も生きた」
「知らないけど、メイの医学ならもっと長生きできるんじゃないのか」
「そうだな。そうかもしれない」
ヒイラギが鼻で笑う。
「病気。重いのか。メイの医学で治らないのか」
「治らない病もあるってことだ」
ヒイラギから帰ってきた言葉に、吉之は目を丸くする。
「あんたが死んだら、あいつらどうなるんだよ」
吉之は小さな声でぽつりと言った。
考えたくなかった。ヒイラギのことを先生と慕うシノグとカナタを想うと、胸が痛くなった。
「さて。わたしの研究もあと少しで終わる。それまでは、病気のこと。あの子らには黙っていてくれ」
「なんでだ?」
言ったほうがいいのではないかと吉之は思った。
「時が来たら、わたしから伝えるつもりだ」
「時って、いつだよ。それってもう本当に危険な時だよな。そんな状況で伝えられても、伝えられた側は困るだけなんだよ。だから――」
「頼む」
吉之の言葉は、ヒイラギの声で遮られた。それは強い言葉だった。
一生のお願いと言われていないのに、そう言われた気分だった。
吉之は返す言葉を探していた。けれど何も思い浮かばなかった。自分の母親の最期の姿が頭の中を支配していた。母親もヒイラギも、どんな思いがあってそういう選択をしたのか吉之にはわからなかった。だから何も言えないのだと理解することしかできない。
こうしている間にも、時は進む。
ヒイラギはまた咳き込んで、それから深呼吸をした。
「君はこの地下都市メイに何をしに来たんだい?」
そう改めて尋ねられて、吉之は真面目に答えるしかなかった。
「とある貴族を探しに来た」
「君はその目的のために、エレベーターキーをわたしから受け取り、下層のエレベーターへ乗らなければならない。わたしの言いたいことは、わかっているね」
確かに、わかっていた。理解している。けれど、どうしても納得はいかないだろうと思った。
吉之は静かに頷いたが、この薄暗い中それがヒイラギに見えているのかはわからなかった。
ヒイラギはおもむろに、寝間着のズボンのポケットから小さな長方形の紙みたいなものを取り出した。どうやらそれが、エレベーターキーのようだった。
「これを受け取ったら、君はわたしとの約束を守らなければならない。いいね?」
「――はい」
と吉之は返事をするしかなかった。
吉之の目的は確かにそれだったからだ。
ここで変に情に流されてしまえば、本来の目的を達成することができないと思った。目的のためには手段を選んでいる場合ではないのだ。
「君が母親に似て、本当に良かったと思っているよ」
「え? 俺の母親のこと、知っているのか」
予想外の言葉に、吉之は首を傾げた。
「一度だけ。挨拶をしたことがあるだけだ」
ヒイラギは無精ひげを触る。何かを思考しているのだろうか。
「じゃあ、父親の、ことも何か。知っているのか」
歯切れの悪い言葉が、吉之の口から出る。
ヒイラギは言った。
「明日の昼。一緒に行こうか」
その日の夜は、眠れそうになかった。
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