どこかの誰かが宣伝でもしたのか、観客席には徐々に人が増えてきているような気がする。

 吉之は休憩時間をすべて腕の痛みを誤魔化すことに費やした。緑色式を発動し、右腕を癒していた。気休めにしかならないだろうが、それでもよかった。二日前の試合の時もまったく同じことをしていた。それで何とか勝ち進んでいったのだから誰か褒めてほしい。まぁ、褒めてくれる人などいないのだろうけれど。

 試合場には審判と吉之とそしてげんが対峙していた。

 観客席含め、ここに吉之の味方はいないだろう。居心地が悪かった。案の定、吉之が試合場へ上がるやいなや観客席から気品のない野次が飛んできた。

 仕方のないこととはいえ、吉之は少しだけ息を吐いた。


「棄権するなら今のうちだぞ」


 吉之は弦に向かって言った。


「冗談言わないでよ。僕にだって過去に優勝した面子とか他にも色々あるし。負けられないんだよね」

「いや。お前は負ける」


 と吉之ははっきりと告げる。


「根拠は?」

「負けられないと言った。それがお前の弱さだ」

「挑発しているつもりなのかな。いい加減にしなよ。僕は君が今まで負かしてきた他の色式士たちとは違う」

「どうだろうな」


 それ以上会話は続かなかった。

 審判が吉之と弦を交互に見た。


「試合を開始してもよろしいですか」


 審判の問いに、吉之と弦はほとんど同時に「はい」と返事をした。

 試合開始の鐘が鳴る。

 吉之はいつも通りにそれと同時に色式を編む。橙色の光が吉之の右腕と両足を包む。ほんの一瞬だ。外野から見れば何もしていないようにも見えるだろう。

 その足で吉之が弦に近づこうとした時だった。

 目の前では弦が色式を編んでいた。弦はおもむろに編んでいるほうの腕を天井へ向かって伸ばす。青い閃光が上がっていく。


「なんだ?」


 と吉之は天井を見上げて呟いた。

 弦は他に何かをするようすもなく、ただそこでたたずんでいる。


「本日は晴れ時々曇り。所により激しい雷雨になるでしょう」


 丁寧にゆっくりと、聴き取りやすい速さで弦がそう口にした。

 吉之には言葉の意味はわかるが、聞きなれない文言だった。

 この地下都市メイでは、地上の色を再現するために機械で色を作っている。頭上の天井。空の色がまさにそれである。メイでは、それが普通なのだそうだ。羅列された文字列で色が決まる。不規則に表示すれば不規則で色が変わるという仕組みらしい。

 彩からメイへ来るときに、メイに詳しい男性に会って聞いた話だ。

 メイには天気や天候の概念がない。地下都市なのだから当たり前の話だ。しかしメイは地上の再現をするために、機械を使って天気を作った。闘技場の空は盛り上げるためなのか、めちゃくちゃな空の色をしているが、今現在のメイの空は快晴のはずだ。少なくとも雨は降っていない。

 吉之は試合中だということを忘れるくらいに、天井に見入っていた。

 弦の発動した色式は、まず晴天を見せた。太陽のせいか、適温だったはずの場内が暑く感じる。雨雲がかかると太陽が隠れて、今度は寒く感じた。

 天気が変化するたびに、観客席から歓声が上がる。

 これは観客を楽しませるための見世物だと、吉之は気づいた。

 今まで吉之は速さだけを重視して試合を行ってきた。見どころがない。盛り上がりに欠ける。面白くない。そういう言葉も観客からあった。しかし吉之はそんなものどうでもいいと思っていた。とにかく勝てばいいと思っていた。だから今回もそうするつもりだった。

 闘技であり競売であっても、あくまでもこれは見世物だということに吉之は今更ながらに気づかされた。そういう意味では吉之はもう弦に負けている。


「随分と余裕だな」


 吉之はそう言って、しっかりと弦のほうを見た。彼は満足そうな笑みを浮かべていた。


「余裕なんてないよ。いつ君に殴られるかって、気が気じゃないし。でも言ったでしょう。僕は負けられない。負けるつもりなんかない」


 弦の色式で作られた雨雲から、水の粒が落ちてきた。最初は静かに音をたてずに降ってきて、だんだんと激しくなった。雷が鳴り、電が走る。

 吉之はずぶ濡れになっていた。もちろん弦と近くにいた審判もだ。観客席までは雲がいかなかったので観客たちは濡れなかった。

 傘も合羽もこの場にはないので、濡れるしか選択がなかった。雨で視界が悪くなる。服が濡れたせいで肌に張り付いてくる。

 ここまで彩の天気を再現できるなんて、そうそうできることではない。高度な色式の使い方だと吉之は思った。実力で言えば吉之をはるかに超えている。

 考えるしかなかった。弦に勝つ方法を。彼に勝たないと、吉之は前に進めない。

 場内に排水溝がないせいで雨水が地面に溜まってきている。これが続けば水に足をとられるだろう。ただでさえびしょ濡れで不快感が体中を襲っているのに、これ以上の不利な状況は避けたい。吉之は行動することにした。

 雨にあたるたび閉じそうになる瞼をなんとかあけながら、吉之は弦に近づこうと足を踏み出した。雨水が音を立ててはねる。

 試合の勝利条件は、おもに二つだ。ひとつは相手を場外に出すこと。もうひとつは、相手が戦闘を継続することができなくなることだ。渡辺正太郎との試合では、その条件を二つとものりこえていた。

 弦が次にどんな行動をとるか予測ができない。その前になんとかしなければいけない。肉弾戦に持ち込めれば吉之の勝ち。そうでなければ負け。これだけは確実だ。

 吉之は微動だにしない弦に向かって拳を突き出すが、あっさりとかわされる。服のせいで体が重く、思ったように腕が動かせないのだ。


「くそっ」


 吉之は外套を脱いで地面に捨てるように置いた。中に着ていた着物の袖をまくった。包帯を巻いた腕があらわになる。その腕はなおも橙色の光をまとっていた。

「そろそろ終わらせようか。この素敵なショーを」

 弦が大きな声で言った。雨音にかき消されてしまわないようにするためだろう。

 吉之はちっとも素敵だと思わなかった。不快で仕方がない。こんなやり方を認めるわけにはいかなかった。


「突然の突風にご注意ください」


 目の前の弦が大声でそう言いながら、緑色式を編み始める。


「ふざけんな」


 吉之は叫ぶと、今度は左手で弦の右腕を掴んだ。

 そのとき、風が吹いた。

 やばい。と吉之は直感した。このまま吹き飛ばされてしまえば確実に場外へ出てしまう。それだけは避けなければならない。吉之は弦の腕を掴む手に力を入れた。しかしそれだけでは足らず、右手で弦の左腕を掴んだ。風は弦の色式を編む両手から吹いていた。風のせいで雨が軌道を変え、吉之の顔面を強く打ち付けた。とうとう目を開くことすらできなくなって、吉之は何も見ることができなくなった。

 雨が降り風が吹き雷が鳴る。それはもう嵐だった。

 吉之の右腕は色式で強化されている。その手で掴まれた弦の左腕は強く掴まれて悲鳴を上げていたようで、弦は吉之の手を振りほどこうと動かしていた。それを吉之が逃すはずもなく、右手にさらに力を入れた。

 雨音と風音で小さな悲鳴は聞こえなかった。

 雨水はくるぶしのところまで達していた。

 吉之は何とか両足で踏ん張って立っていた。このままではらちが明かないので右足を肩幅ぐらい開いていた弦の両足の間に入れ、引っかけるようにして動かした。

 弦は体勢を崩し、後方に倒れた。弦の両腕を掴んでいた吉之は、そのまま弦を押し倒すような状態になっていた。弦は諦めたように両腕を地面に下ろしたため、半分雨水につかっている。

 これで弦にとどめを刺せば終わる。そう思って吉之が右腕を振り上げた時だった。


「だめー!」


 雨音と風音にかき消されて聴こえないはずの誰かの声が、後方から聴こえてきた。相当頑張って大きな声を出したのか。それともそのとき偶然おきた奇跡だったのかはわからない。

 その声に、吉之は思わず右腕を止めた。

 吉之の目の前では、弦も声が聴こえたのか、目を見開いていた。

 二人は静止したまま、互いの顔を見つめ合う形でいた。

 それからしばらくすると強風が止み、雷の音もしなくなり、雨もゆっくりと上がっていった。


「お嬢様」


 と弦が呟いた。

 吉之はゆっくりと弦の腕から手を放し、立ち上がった。弦のほうは、身を起そうとしたが、吉之が右手で掴んだ左腕が痛むのか再び地面に寝転がった。

 いつの間にか審判が小さな女の子を抱きかかえて、吉之と弦の傍まで来ていた。


「審判。僕の負けです。コロネお嬢様、申し訳ありません。約束は守れそうにありません」


 弦が審判と女の子。コロネを見上げながら言った。

 弦には試合を続ける意思はなさそうだった。吉之が弦を組み伏せた時点で、彼は負けを悟ってしまったのだ。


「おじい様が、弦が負けたら弦とはさよならだって言ってた。でもコロネは弦がいないと嫌なの。ずっとそばにいてほしいの」


 今にも泣き出しそうな声だった。それでもコロネは泣くのを我慢していた。


「すみません」


 と弦は言う。


「嫌だ!」


 少女が叫んだ。


「審判。判定を」


 吉之は言いながら、脱ぎ捨てていた外套を拾ってそのまま肩にかけた。


「え。ああ。はい。勝者。季野吉之きのよしゆき


 戸惑いながらも審判はマイクを使ってそう宣言した。

 今回は客席から歓声が上がった。理由は明白だった。


伏木弦ふしきげん。素敵なショーだった」


 吉之は仰向けに寝転がったままの弦を見下ろしながら、そう言った。

 これは弦に向けられた歓声だと吉之は思った。それだけ観客は今回の試合を楽しんでいたのだ。悔しいけれどそれが事実だった。


「それはよかった」


 弦は呟くようにそう言うと、瞼を閉じた。自分の今後の処遇を覚悟しているのだろう。


「権利をくれ。金はいらない」


 吉之は審判に向かって言った。

 またわけのわからないことを要求してきたと思っているだろう、審判がため息をついた。


「あなたのせいでむちゃくちゃですよ」


 審判がマイクを通さずに言った。


「むちゃくちゃにするためにやったことだからな」

「権利だけもらってどうするつもりですか。住むところもないんですよ。ホテルにずっと泊まるわけにもいかないでしょう。お金があれば、小さな家ぐらいは建てれると思いますが。元々はそのための賞金ですし」


 審判が素朴な疑問をぶつけてくる。

 元々はということは、競売が始まる前は賞金の役割が住居の購入だったのだろう。つまり今は貴族に買われた後、その賞金は全額貴族に入っていたのだ。

 吉之は少しも考えずに答えた。


「権利だけもらって目的が果たせたら、住む場所はその後考える」


 審判は呆れたように、再びため息をついた。


「これを持って、受け付けで個人情報を色々と登録してください」


 審判はそう言って、小さな紙を渡してきた。

 吉之はそれを無言で受け取る。


「あなたがここで何をなされたいのかわかりませんし、正直なところもったいないとも思いますが。ご武運を祈ります」

「すまない。ありがとう」


 何に対しての謝罪で何に対しての感謝なのかわからない様子で審判は目を見開いていたが、すぐに元の真面目な顔に戻った。

 吉之は自分を睨みつけているコロネを無視して、試合場から立ち去る。

 コロネと弦が今後どうなるか、吉之にはどうでもよかった。

 誰からも恨まれない人間などいないと吉之は思う。みんな誰かと関わらないと生きていけないし、存在できない。その過程で生まれる何かは良いものだったり悪いものだったりする。善人に対しての悪人が必ずいる。吉之にとっては、ただそれだけの話だった。

 天井は韓紅色に染まっていた。

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