第二章 不言色の生活

 季野吉之きのよしゆきは着ている外套の下で、右腕を左手で押さえるように触っていた。何本もの針に刺されているような痛みが、右腕を襲っていた。橙色式を使った直後はいつもこうだった。癒しの色式。緑色式を発動すると僅かに痛みは引く。それもやはり気休めにしかならなかったが。

 吉之はしっかりと舗装された路を歩いていた。こんな路を歩くことなど普段はないので、少しだけ感動を覚えていた。地上都市にいたころ。整備されたとある地区を除いても、路は自然そのままの砂利や泥。瓦礫や岩がほとんどだった。

 荒れ果てた街を懐かしく思うことがあるなんて考えたこともなかった。

 吉之は闘技場を出ると一度周りを見渡した。眼下に広がるは、地下都市メイ。地上と比べて明るく。賑わい。そして機械だらけの街だった。その機械というのは、地上にはないものだった。だからこそ吉之にとっては、ここは異世界という表現が適切である。話でしか知らない土地。外の街であり、世界であった。

 吉之にとって地下都市とは、来たくて来た場所ではなかった。ただ目的のために仕方なく来たというところだ。一度偵察をしに地下に潜入したことはあるが、それも闘技場周辺だけ散策しただけで、ここから先は未知の世界だった。

 吉之は歩いた。ただひたすらに歩いた。闘技場に隣接する歓楽街を横切る。

 地下へ来た目的はあるが、実のところあてはなかった。だから歩くしかなかった。知らない土地を迷子の子どもみたいに不安な顔をせずに歩いた。

 強がりと言ってしまえばその通りだった。

 吉之は強がって堂々とした態度でいたが、本当は不安で仕方がなかった。これからどうしたらいいのかまるでわからない状態だった。だからまずは情報収集をしなければならない。

 飲食店の建物の裏側で、吉之は一度足をとめた。痛む腕を隠しながら、荷物を確認する。持ち物は少なかった。数枚の貨幣と着替え。それだけしか持って来なかった。地上の貨幣が地下で使えるかすらも吉之は知らなかったが、念のためと懐に忍ばせていたのだ。

 吉之は天井を見上げる。闘技場の中から見た空の映像と差異はないが、流石にあれほど色とりどりに移り変わる空ではなかった。今は灰色に染まっている。何時だろうか。わからない。天井の色は変わるけれども、機械の街に昼も夜もない。地上と違って眠たくなったら宿に泊まる必要はないように思えた。そこら辺の路で横になればいい。邪魔だと怒られるだろうか。そのときはその時だ。

 疲れを感じて、吉之は地面に腰を下ろした。人気の少ない場所をわざわざ選んで休憩をする。 

 ここ数日間は闘技場の固い床で横になっていた。降りてきてからずっと気も張っている。これから先も恐らくここにいる限りこの調子だろう。

 それにひとつ気になることがあった。

 闘技場にいたときからずっと、視線を感じていた。敵意ではない。むしろ好意的な視線だった。しかし、煩わしいことに変わりはなかった。

 歩いている途中も吉之が足をとめると、相手も止まっていた。

 それで尾行のつもりだろうか。丸わかりである。気配ぐらい消したらどうなんだと思ったが、素人にそれはいっても意味のないことのようにも感じた。気のすむまで放っておこうと思った。関わりたくなかったし、相手も自分と関わらせたくなかった。

 今も視線を感じる。

 しばらく待っていればそのうち向うから話しかけてくるか、動かない自分に飽きてどこかへ行ってしまうかとも思っていたが、残念なことにそんな気配はなかった。

 もういっそのことこちらから声をかけようかと吉之は考えた。もしかしたら有力な情報を引き出せるかもしれない。


「おい」


 吉之はどこの誰かもわからない人物に向かって、声をかけた。


「ひゃっ」


 驚いたように相手が叫んだ。声だけで女性だとわかる。甲高い少女のような声が、物陰から聞こえてきた。

 室外機の向こう側。建物の陰から様子をうかがうように少女が顔を出した。


   *


 カナタは当惑した表情で立っていた。建物の陰に隠していた体を、おそるおそる吉之に見せてみる。声を掛けられるとは思っていなかったため、心の準備ができていない。


「――あたし?」


 少し間をあけてカナタは確かめた。

 信じられない気持ちだった。声をかけるタイミングがわからないままにカナタは吉之の後をついて歩いていたのだ。

 タブレット板と呼ばれる地下の人間なら大体の人が持っている平面の機械。電話が出来たり動画も視れる。その画面で彼の動画を見たときから、吉之という男性はカナタの興味の対象だった。見れば見るほど、彼のことを知りたいと思った。こんな気持ちを抱いたのはカナタにとっては初めてで、戸惑っている。それと同時に吉之に声をかけられたことが、カナタは飛び上がりそうになるほど嬉しかった。

 目の前の吉之は疲弊しているのか、その場に座り込んだまま動かない。


「そうだ。あんたに声をかけた。あんたしかいないだろう」


 吉之がカナタに視線を向けながら言った。


「あ。本当だ。あれ。シノグは?」


 カナタはくるくると周りを見まわし、それから首をかしげる。そこにはカナタしかいなかった。てっきり一緒にいたシノグもついてきていると思い込んでいた。

 これは後でシノグに怒られるなとカナタは思った。こうしてカナタがひとりで突っ走って先へ行ってしまい、結果的にはぐれることはたまにある。そのたびにカナタはシノグに怒られる。カナタの保護者はヒイラギ先生であったが、シノグもまたそうであった。 


「誰だ? ――まあいい。あんた、この辺りには詳しいか? 道を教えて欲しいんだが」


 ちょうどいい相手を見つけたと言わんばかりに、吉之がカナタにそう質問してきた。知ったかぶりは自分の首を絞めるだけなので、カナタは正直に答える。


「道? どこへ行くの。あたしって方向音痴で地図も読めないんだけど」

「……そうか」


 予想外の返答だったのか、吉之が困ったような顔をした。

 カナタも会話が続かず困ってしまう。カナタは慌てて話題を変えようと、闘技場で感じた疑問をそのまま吉之に向かって投げつける。


「それよりさ。今回はなんで賞金だけ受け取らなかったの? あたし観客席でずっと見ていたんだよ」


 吉之は驚いたのか目を丸くしてカナタを見た。


「あんたには関係のないことじゃないか」


 何も知らなさそうな貴族の娘にでも見えたのか、吉之が言った。

 カナタは吉之の返答に納得がいかなかった。カナタは疑問に思ったことはすぐに質問する。それはいつもきちんとした返答が貰えることが多いからだ。

 吉之のような人間はカナタにとって新鮮で、とても興味深い人物だった。


「関係ないかもしれないけど、でも。気になるの。教えて。あたしにはわからないから」

「わからないほうがいいこともある」


 吉之の助言に、カナタは引き下がるつもりはなかった。


「そんなことないわ。わからないことをそのままにしておくのはよくないって先生はいつも言っているもの」


 吉之には理解のできない理屈だったかもしれない。


「会ったこともない人の言葉を出されても困るだけだ」


 と吉之は言った。


「それは、そうだけれど」

「わかったら失せろ。俺はあんたの質問に答えるつもりはない」

「どうして?」


 カナタは首をかしげる。


「俺はあんたに道を尋ねたが、あんたは方向音痴で地図も読めないと言った。その時点で俺はもうあんたを必要としていない。だからこれ以上の会話は無駄だ」

「ちょっと待って。それなら、道に詳しい人に聞けばいいじゃない」


 いいことを思いついたので、カナタは両手を叩いて言った。正論で返したつもりだった。


「は?」


 吉之の口から、間の抜けたような声が出た。


「あなたどこかへ行きたいのよね。なら、連れていってあげる。詳しい人に聞けばわかるから。シノグとか、先生」

「カナタ!」


 そのとき、叫ぶような声がした。

 聞きなれた声に驚いて振り向くと、シノグが険しい顔をして立っていた。

 理由はわからない。何かあったのだろうか。しかしタイミングが良い。


「シノグ! ちょうどいいところに」

「帰りますよ。カナタ」


 声をかけると、なんだか冷たい声でシノグが言った。

 その視線はカナタではなく、別のどこかへ向けられているようだった。


「あのね。この人を道案内してあげてほしいの」


 カナタは構わず、シノグに吉之を紹介する。カナタはなんとかして吉之と接点が欲しかった。このままさようならと言いたくなかった。


「道案内ですか」

「うん」


 カナタが頷くと、シノグは顔をしかめた。

 シノグはカナタの前に出て、吉之との間に入る。


「すみません。どこへ行きたいんですか」

「ある貴族をさがしているんだ」

「その貴族の名前は、何ですか? それだけではちょっと」

「リクという名しかしらない」

「――わかりました」


 シノグは何故か、一瞬だけ驚いた顔をした。しかしすぐに真面目な顔をする。

 その意味を、カナタは知らなかった。後で聞こうと思った。


「その貴族の名前は聞いたことがあります。有名です。そのクラスになると下層に住まわれていると思います。しかし、ここから下層へ行くにはエレベーターキーが必要になります。先生がそれを持っているはず。僕では判断のしようがないので。先生に一度会ってください」


 シノグはそう説明すると、ゆっくりと息を吐いた。

 カナタは言葉の意味を理解して嬉しくなった。


「なら、おうちに来るのね」

「そうなりますね」


 シノグは渋々という様子で頷いた。


「面倒だが、仕方がない」


 吉之が頭を掻きながら言った。

 排気口から香辛料の匂いが漂っていた。それはカナタの苦手なカレーの匂いだったが、そんなことはどうでもよくなるぐらいに、吉之が家に来ることについて胸がいっぱいだった。

 吉之の立ち上がる姿が、一挙一動がかっこよく見えた。自分はどうかしてしまったのだろうかとカナタは思った。けれどそれを聞く勇気はカナタにはなかった。こればかりはシノグに聞いてはいけないような気がしていた。

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