2
その名を聞いた瞬間、シノグは妙な胸騒ぎしか感じなかった。
リクという名は地上と地下両方を探してもたったひとりしか存在しないだろう。
カナタは知らない様子だったが、シノグは知っていた。当然ヒイラギ先生も知っているはずだった。
研究所という名の屋敷に客が来るのはこれが初めてではなかったが、そのたびに必ずヒイラギが客間のソファの上で睡眠をむさぼっていることも初めてではなかった。
「先生。先生。起きてください」
研究所へ帰る前に一度ヒイラギに連絡を入れていたはずなのだが。ヒイラギのこの癖は一向に治りそうになかった。
「駄目だ。こうなるともう、しばらく起きないんです」
シノグは困ったように言った。
ヒイラギは一度眠ってしまうと、身体を揺さぶっても大きな音を出してもなかなか起きない。一日中研究に没頭していた日は特にそうだった。
「構わない。エレベータキーとやらが貰えるのならばいつまででも待つ」
吉之が両腕を組みながら壁にもたれかかっていたので、シノグは長方形のテーブルを挟んでヒイラギの向かい側のソファに座るように促した。吉之は言われたままにソファに座った。
カナタがどこからかブランケットを持ってきて、ヒイラギの体の上にかけた。ヒイラギは二人用のソファで横になっていたため、足も頭もひじ掛けに乗せていた。本来ならばとても客に見せるようなものではない。
シノグは頭を抱えた。
「明日の朝には起きていると思うので、そのときにまた。と言いたいところですが、あなたは住居など持っていませんしね。永住権だけ貰ったのなら、もしかしてこちらに知り合いでもいるのですか」
シノグの質問に、吉之は首を横に振った。
「いや。いない」
「つまりは行く当てもなく、ただぶらぶらと観光でもしたかったということですか」
吉之の返答に、シノグは息を吐いた。
どうやら思っていたよりも、何も考えていなかったらしい。
「観光のために来たわけでもない。俺には目的がある」
「目的ですか。 貴族を探しに? ただそれだけのためにですか。探してどうするんです?」
「答える義理はない」
決まり文句のようにそう言ったかと思えば、吉之はそれ以降口を閉じてしまった。
シノグは改めて吉之の服装を見てみる。外套はぼろぼろで、ところどころ破れている。そんな格好で出歩いていたらまずこの街の人間ではないことがわかってしまう。嘲笑の的だ。地下都市メイへ来た地上人が最初にしなければならないこと。それは小綺麗な服を着ることだとシノグは思った。
いやなことを思い出して、唇を軽く噛む。
シノグは元々、メイの人間ではない。両親が死に、メイに住んでいた親戚に引き取られたために、メイに来ることになった。シノグも彩に住んでいた頃は今みたいな真っ白い白衣など着られなかったし、吉之のようにズボンではなく袴を履いていた。
メイに来て最初に言われたのが、「小汚い」という悪口だった。小汚くて貧相な体をした生意気な子ども。それが、親戚の叔父に言われた言葉だった。
「んぅ……」
ヒイラギが何か寝言を発した。シノグは思わずヒイラギに視線を向ける。カナタは先ほどからずっとソファの前でしゃがみ、ヒイラギの寝顔を見ている。
シノグはヒイラギの顔を見つめながら、ヒイラギと初めて会った時のことを思い出していた。叔父とそりが合わなかったシノグを救ってくれたのが、たまたま叔父と友人関係にあったヒイラギ博士だった。
部屋の隅で陰鬱な顔をしていたシノグに。面白いものを見せてあげるとヒイラギに連れられて初めてこの研究所を訪れたのは、シノグが十二歳のころだった。確か同じ年に、まだ赤ん坊だったカナタもこの研究所にきたのだったか。
「先生ならこういうとき、泊めてあげるんじゃないかな」
不意にカナタがそう口にした。
シノグだって考えていなかったわけじゃない。カナタが座ったまま振り向き、シノグのほうを見る。懇願するような瞳に、シノグは弱い。
「仕方がないですね」
息を吐きながらシノグは言った。
*
色式の研究所だと聞いていたのに、実際はでかい屋敷だった。研究室自体は別の部屋にあるのだろう。吉之は客間と思われる場所に通された。机を挟んで二人掛けの椅子が二つ並んでいる。吉之はそのひとつに言われるまま腰かけていた。目の前には無精ひげを生やした白髪まじりの男性が椅子を占領するように横になって寝ていた。
吉之の泊まるあてがないことを伝えると、何故か屋敷に泊めてもらえることになった。吉之は別に野宿しても良かったのだが、ここは素直に好意に甘えようと考えた。何故ならこのよくわからない白衣の男から吉之が探している男の情報を引き出さなければならないからだ。
今のところわかっているのは、白衣のまま寝ている男性がここからさらに下層にある貴族街へ行くためのカードキーなるものを持っていることだけだ。
「そういえば、紹介が遅れました。僕はシノグです。そこで眠っているのが、僕たちの先生。ヒイラギ博士です。この研究所で色式研究をしています。それから――」
「あたしは、カナタ! よろしくね」
頼んでもいないのに勝手に自己紹介が始まった。
そういえばまだ名のっていないことに気づく。おそらく知っているだろうとも思ったが、礼儀なので名のっておく。
「季野吉之。よろしく」
「よろしく」
シノグがにこりともせずに言った。
理由はわからないが、嫌われていることだけはわかった。
吉之は本当にここにいていいのだろうかと思った。流されるままついてきてしまったが、シノグとカナタの二人は、どうして自分などに声をかけたのだろう。
そんなことを考えていると、シノグが口を開いた。
「ところで。義理ができたので問いますが。あなたが使っていた色式についてと、闘技場の一件と、あなたが貴族を探している理由について教えてくれませんか」
「あ。そうそう。あたしも知りたいの。動画の時は、賞金も永住権も受け取らなかったのに、どうして今回は賞金だけ受け取らなかったの?」
カナタも便乗するように質問してきた。
吉之は義理ができたことについて反論するつもりはなかった。なので素直に答える。
「色式についての質問だが。俺が使っていた橙色式。あれは複数の色式を同時に編んだものだ」
「複数を同時に?」
シノグが驚いたような声を上げる。
「もちろん俺が独自に作ったものだ。他にはない」
「驚いた。そんなこと可能なのか。いや、可能だとしてもそんなことをしたら身体に相当の負荷がかからないか……?」
独り言のようにシノグが小さな声で言う。
「負担はかかる」
吉之はそう言って、羽織っていた外套を脱いで見せた。
着物の袖は中で肩口までまくって紐で止めていたので、袖を上げる必要はなかった。巻いていた包帯をほどく。吉之の腕があらわになる。
シノグとカナタの視線が、吉之の不自然に青色になった右腕を注視していた。肩から肘にかけては全体的に青く、肘から先はまだら模様のようになっていた。手のひらは手袋をしていたのでそれも外す。手だけは普通の肌の色が残っていた。
それを見ていたカナタが口を両手で覆った。
シノグは一瞬だけ目を開いたが、すぐに眉間にしわを寄せた。
「どうしてそこまでして」
シノグの中で、また新たな疑問が生まれた様子だった。
「大丈夫? 痛くないの」
心配そうな声でカナタが聞いてくる。
「痛い。今も痛い。だが、これも必要な痛みだ」
そう言いながら、吉之は腰につけていた袋を開ける。中に入っていた新しい包帯を取り出して腕に巻き始める。気休めだった。
「必要な痛みって何ですか」
シノグの質問に、吉之は手を止める。
「そのままの意味だ」
「必要な痛みなんてもの、あるはずないでしょう」
怒っているような強い口調だった。
「何を怒っている」
「怒っていませんよ。心配しているんです。あなたね。色式をなんだと思っているんですか。便利なものじゃありませんよ。なんでもできるわけじゃないんです。自分の腕を犠牲にしてまで、扱うものじゃないんですよ」
正論だった。吉之は何も言い返せない。
「色式は、先生が長年研究してきたものです。普通に使用すればそんなに危険なものではないんです。それをあなた。複数の色式を同時に編む? 混ぜるな危険という言葉があること、知らないんですか。用法容量を守っていれば、そんな腕になるはずないんです。一体、どんな教育を受けてきたんですか。これだから色式士って嫌いなんですよ」
シノグが頭を抱えた。
「教育なら受けたが、俺は正規の色式士じゃない」
吉之はそう言って、包帯を巻く手を再び動かした。
「正規じゃないって。非正規の色式士ってことですか。そういえば紋章が……」
シノグが吉之の体をまじまじと見つめている。
「どういうこと?」
カナタが首をかしげていた。
「俺は色式士の養成所を卒業したが、色式士協会に登録しなかった。だから証明書持ちの正規の色式士じゃない。俺は色式士協会に反する組織。あげは会の所属だ」
そこまで言ってしまってから、吉之は巻き終わった包帯の先を歯と左手を使って結ぶ。
顔を上げると、目の前に銃口が突きつけられていた。
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