闘技場の建物に入って右側の奥に、関係者以外立ち入り禁止の文字が書かれた扉があった。その先の廊下を歩いていくと階段が続いている。その階段を上がると廊下の突き当りに貴賓室があった。

 ドレスを着た女の子の人形が、部屋の端にある丸テーブルに黄色い花の入った花瓶の横に置かれている。


「なんだこの人形は」


 そう言ったのはサファイヤやルビーなどの装飾のついた指輪をはめた白髪の老人だった。老人の名は、エンガ。高級品に身を包んだ貴族だった。赤色の衣服全体には金色の刺繍が施されている。

 エンガはこの闘技場の持ち主であり、試合の主催者であった。


「廊下に落ちてたんだよ」


 エンガの孫にあたる十歳くらいの少女。コロネが言った。


「何でこんなものが廊下に落ちている」

「知らない。でも可愛いから拾っちゃった」


 コロネはそう言いながら人形を手に取る。

 エンガは訝しんだ。


「薄汚い人形だ」


 エンガは言うと、大きな窓の前に置いてあるソファに腰かけた。

 窓の外には試合場が見える。


「汚くないもん……」


 コロネは人形を抱きしめる両腕に力を入れた。コロネが泣きそうな顔になっていることをエンガは知らない。見ていなかった。老人は、窓の外で繰り広げられる試合にしか興味がない。優勝者にしか興味がない。オークションの商品にしか興味がない。しかし本日の試合には期待できそうになかった。


「まったく、何なんだ。今日は参加者が二人しかいないそうじゃないか。しかも、この間の優勝者とそいつに負けた男か。新規商品はないのか」


 エンガは側近の男に問う。

 長身で細身の男は白いシャツに黒色のジャケットを羽織り、黒いネクタイを着けていた。男は名を伏木弦ふしきげんと言った。エンガの側近であり、コロネの世話係であった。


「はい。再試合が決まることなど想定外でしたので、今回は新規の参加者を募る時間がありませんでした。仕方ないかと」

「そこを何とかするのがお前の仕事だろうが。あの季野吉之きのよしゆきとかいう男。何のために今回も試合に参加している。参加権利をはく奪するべきではなかったか」

「はぁ。例外ばかりでしたので、そこまで考えが及びませんでした。指示もなかったものですから。そういうことをおっしゃられるのなら、いっその事試合を中止にすべきでは?」


 エンガは深いため息をついた。


「それではわしの面子が立たないだろうが。……しくじったな」


 苛立ちを隠せないのか、エンガは先ほどからずっとひじ掛けの上で指だけを上下に動かしている。木製のひじ掛けは、エンガの指でリズムを刻んでいた。


「季野吉之が勝てば、前回と同じくオークションが開けない可能性が高いですし。負けたとしても、前回準優勝の渡辺正太郎わたなべしょうたろうを競り落としたい貴族がいるとも限らないですしね」

「その通りだ。しかし、わしには名案がある」

「なんです?」


 エンガの得意げな表情に、弦は首を傾げた。

 コロネが不安そうに弦を見上げていた。


「新商品がないなら、中古品を売るしかないだろう。わしの言っている意味が、わかるな?」


 エンガがまっすぐに弦の顔を見ていた。


「中古品を競り落とすような人間もいるとは思えませんが」

「だが、わしの付き人が優秀な色式士であることをアピールできる。それと。季野吉之が二度と参加しようと思わないようにすることも、お前にはできるんじゃないのか」

「エンガ様。先ほどから僕が勝つこと前提の話をされていますが、もし負けた場合は?」

「不良品は処分に決まっておろう」


 すがすがしいまでの笑顔で、エンガが言った。

 弦は何も返す言葉がなかった。

 コロネは無言のまま、弦の服の袖をつかんでいた。


        *


 出て行こうともう何度思ったか。それでも出て行かなかったのは、戻る場所がなかったせいなのか。それともこの愛らしい少女のことをほうってはおけなかったからなのか。どちらかはわからない。

 伏木弦は色式士だった。

 何年か前にこの闘技場の試合に参加し、そして優勝した。エンガに買われたのは、まだエンガがオークションを主宰していなかった頃だ。エンガがやたらと弦のことを気に入って、あまりにもしつこかったので取引に応じてしまった。

 その後何を思ったかエンガは闘技場を買い取り試合を主宰し、オークション形式で優勝者を販売するようになった。

 その件に関して、弦は何も口を出していない。弦はただ命じられたままに行動し、自分の保身をしてきた。たまに意見を言っても聞いてもらえることなどなかったからだ。

 弦が参加登録をしに行くと、事務の人に驚かれた。


「エンガ様のご命令です」


 というと、それならばと事務の人は特別に許可してくれた。

 元優勝者が試合に参加してはいけないというルール自体が、最初から存在しなかった。

 優勝者は貴族の奴隷として買われるため、再参加しようという人間は今まで一人もいなかったからだ。元優勝者がまた優勝したところで、別の貴族に買われることになるのだから。

 転職と考えればそれもありなのかもしれない。と弦は思う。

 しかし今回、弦が優勝したところでエンガが弦を手放すことなどあり得ないと思う。他の貴族たちもエンガに遠慮して弦を競り落とすこともないだろう。

 この試合に何の意味があるのか弦にはわからなかった。

 参加者控室には男が二人いた。ひとりは前回優勝者で、賞金と永住権を受け取らなかった季野吉之。もうひとりはその吉之に決勝で負けた渡辺正太郎だった。


「やあ」


 と挨拶をするが二人とも弦の姿に驚いて目を丸くしていた。

 間を空けて会釈をしてくる。


「どうも」

「僕も参加することになったんだけど。君たちは何をこそこそ嗅ぎまわっているの」


 弦は回りくどいことは嫌いだった。直球で聞いてみた。

 二人はまた驚いた顔をする。


「何の話だ」


 と正太郎が言った。


「この変な人形。君のでしょう」


 と言いながら、弦はコロネに上手いことを言って預かってきた薄汚れた女の子の人形を見せた。正太郎は苦いものでも食べたのかという顔をしていた。


「そんな人形は、知らない」

「嘘が下手だね。君。こんなものが貴賓室の廊下に落ちてるなんて変だと思わなかったの? 誰だって不審に思うよ。まぁ、偶然拾ったのがうちの姫様で良かったと思うよ」

「だから知らないと」

「まだとぼけるの。いい加減にしなよ。僕が何の根拠もなくこれが君のだって言っていると思っている?」


 別に怒っているつもりはなかった。けれど相手には怒っているように見えただろう。弦はそういう誤解をよく受ける。抑揚のあまりない口調のせいかもしれない。


「思わない」


 先ほどまで黙っていた吉之が口を開いた。

 弦は頷いた。そして続ける。


「正太郎くん。君は茶色式を使うのが得意だよね。地面から土壁を出したり土人形を作ったり。そして吉之くんは、正太郎君に余計なことを吹き込んだよね」


 弦は正太郎と吉之と順番に視線を送った。

 事実なので反論できないのか、正太郎は黙り込んだ。試合を見ていれば誰でもわかることだった。


「何故、そう思う」


 と吉之は言った。その表情は冷静なまま動かない。


「吉之くんは何を考えているのかわからないけれど、明らかに何かをしようとしているよね。それは警戒するよ。二人が手を組むのも予想出来ないこともないし」


 弦は言いながら人形を正太郎に返す。

 正太郎は顔をしかめながら人形を受け取った。


「あんたは同じ色式士でここのことに詳しいのに、俺たちの敵に回るのか」


 吉之は不満そうだった。


「逆に、なんで僕が君たちの味方になると思ったの。僕は壊さないでほしいんだよね。現状を」

「何故だ」

「今が一番いいからに決まっているでしょう」

「何故そう言い切れる」

「僕がまともだったら、絶対にここを出ようなんて思わない。ここを一歩でも出て主人を裏切れば、僕は殺されるから。だから今が僕にとって一番いい状況……でも、ないか。君たちに負けたら一緒だから」


 弦は一瞬だけ眉をひそめた。

 不良品は処分される。殺される運命だ。だから負けることは許されない。


「ならば尚更、あんたはここから出なければいけない」


 吉之の言葉に、弦は目を見開く。


「君はいい人なんだね」


 弦は呟くように言った。


「でも心配しないでよ。僕、君たちには負けないから」


 じゃあねと付け足して、弦は手を振った。背を向けて入ってきた扉から出て行く。

 吉之と正太郎は無言でそれを見送ってくれた。

 改めて自分の運命を考えると、弦は泣いてしまいそうだった。

 生きたい。でも正直勝つ自信はない。

 そのことがどうしようもなく哀しかった。

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