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闘技場の控室はとても部屋とは呼べない場所であった。椅子も机もない。ただ石畳の細い通路のような一角だった。出入り口は二つ。入ってきた扉から十数歩離れた向かい側に設置されていた。決して広いとは言えないこの部屋に、二日前には男女合わせて二十名いた
理由は二つある。ひとつは入口の扉を開けてすぐにとある男があぐらをかいて座っていたから。大抵の色式士はその人物を見て激怒して部屋を出て行くか諦めたようにため息を吐いて部屋を出て行くかのどちらかだった。
そしてもうひとつの理由として。たったひとりだけ激怒はしたが部屋を出て行かなかった人物がいたのだ。名を
正太郎は両腕を胸の前で組んだまま壁にもたれて立っていた。部屋に入っては出て行く色式士たちを眺めていたが、正直なところ呆れていた。とんだ腰抜けどもがと思っていた。大方。二日前に吉之が闘技場で暴れまくったせいだろう。正太郎ですら敵わなかった。そのうえ彼は喉から手が出るぐらい皆が欲しがっていた地下の永住権を放棄した。欲しかったものを手に入れられる奴が手に入れないと宣言したのだ。誰だって憤りを覚えてしまうし、吉之の強さを目の当たりにしているので諦めてしまう。
仕方のないことだ。けれど正太郎だけは違った。永住権などどうでもよかった。とにかく吉之という男に勝ちたいと思った。ただの負けず嫌いではない。勝って彼に謝罪させたいと思っていた。だから吉之が再び参加すると知ったとき、正太郎もまた参加を決めた。
一度負けた相手にそれでも挑むのは、もはや、ただの意地だった。
また一人、男が部屋に入って来るなり逃げていった。このままでは、正太郎と吉之の一対一の勝負となってしまいそうだった。正太郎はそれでも良いと思っていた。余計な手間が省けるとさえ思っていた。正太郎が戦いたいのは、吉之だけだったからだ。
正太郎は、部屋に漂う緊迫した空気をかき消すようにふうと息を吐く。
「まったく。残ってんのは俺だけかよ」
正太郎の呟くような一声に、吉之が顔を上げた。
「できれば誰とも戦いたくない。あんたも棄権したらどうだ」
「はぁ? 本気でいっているのか」
吉之の言葉に、正太郎は顔をしかめた。
言っている意味がわからない。何か理由でもあるのだろうかと正太郎は思う。
「本気だ」
吉之はそう言って再び冷たい床に視線を移した。
「……お前は。俺たちがどんな思いでここに立っていると思っているんだ」
正太郎は肩を震わせていた。納得がいかない。
「ならあんたは。俺がどんな思いで棄権しろと言ったと思っているんだ」
試合が始まる前から、試合している気分だった。
互いに譲る気はさらさらないとでもいうようだった。
「そんなもの。知るわけがないだろう。お前のその態度が、気にくわない。お前の目的はなんだ。それがまったく見えてこないのが余計に腹が立つ」
正太郎は、胡坐をかいて座っている吉之の前で仁王立ちする。
本当は、今すぐにでも殴り倒してやりたいところだった。
「それを知ってどうする」
二人の視線は交錯しなかった。
吉之は正太郎など見ていなかった。別のどこか。いや、誰かを見ているかのようだ。
「お前、正規の色式士じゃないよな」
正太郎は、吉之の姿をまじまじと見る。ぼろきれのような外套を一枚羽織っただけの、貧相な衣類なことは何も言うまい。自分も同じようなものだったからだ。ただ問題は、地上都市で色式士協会が配布している色式士の証である桃色と緑色と黄色と青色で塗られた四葉の飾が衣類のどこにもつけられていないことだった。
あれがないということは、協会に反する色式士。非正規の色式士だ。
「だとしたら。何だというんだ。ここでは正規も非正規も関係がない」
彼の言うとおりだった。地下に降りた時点で地上の規則など無意味だった。正太郎は「それもそうだ」と言い、吉之から目を逸らした。
しばらく沈黙が流れた。二人以外には誰もいないその部屋を、一瞬の静寂が襲った。次にそれが破られたのは突然のことであった。
天井から大きな板のようなものが現れ、黒板に爪を立てたときのような不快な音をたてながらゆっくりと降りてきた。
「なんだ?」
正太郎は驚いて目を丸くする。
吉之もそちらに目を向けた。
黒い画面に何かが映し出される。どうやら闘技場の観客席の様子らしかった。映像は真横に流れるように視点が移動していく。少なくとも一昨日より人はまばらで、そのほとんどが空席だ。
その様子を見た吉之が何が面白いのか、笑いだした。
「思った通りだな」
ひとしきり笑った後、満足したのか吉之が呟くように言った。
「何を笑っている」
正太郎は顔をしかめた。
「いや。観客は少なければ少ないほうがいいと思ってな」
吉之の言っている意味がわからない。正太郎は首を傾げた。
「普通は逆だろう」
正太郎の言葉に、吉之が口角を上げたまま返答する。
「それがそうでもない」
吉之は何かを探すように天井や壁、床に視線をやった。
それから言う。
「さっきあんたは、俺の目的はなんだときいたな。俺の目的はこれだよ」
「は?」
ますます意味がわからないと、正太郎は声をあげる。
「貴族様方の娯楽という名の競売を、意味のないものにする」
吉之が笑っていた顔を元の冷静な顔に戻すと、そう言った。
正太郎は自分の耳を疑うかのように、言葉を繰り返す。
「競売? 何を言っているんだ」
「言葉のままだが」
「これは賞金と、地下への永住権を勝ち取るための試合だ。それと同時に貴族の娯楽になっているのは知っている。だが、競売とはなんだ。そんな話は聞いたことがない」
「それはそうだろう。競売が行われているのは試合後だからな」
「いったい、何を競りにかけるんだ」
正太郎が疑問を口にすると、吉之は端的に。しかしはっきりと答えた。
「優勝者」
にわかには信じられない話だった。
「そんな馬鹿な」
正太郎は思わず声を震わせた。
「そんな馬鹿な話があるんだよ。優勝者は競りにかけられ、競り落とした貴族たちの奴隷になることが決まっている」
吉之が剣呑な目つきで言う。
「うそだ」
信じたくないと。正太郎は心の底から思った。
聞き間違いであってほしかった。
正太郎にとって地下へ移り住むことは夢だった。憧れだった。幸せがそこにあるのだと思っていた。それなのに。目の前の男は今何と言った。奴隷? 冗談じゃない。ここまで来るのにどれくらいの時間を有したのか、きっとこの男にはわからないだろうと思う。
「あんたは地下で暮らす色式士と直接話したことはあるか? ないだろう。俺の知り合いも一人この地下闘技場で優勝して以降、まったく連絡を寄こさない奴がいる。どうしてまったく連絡が取れなくなったのか。俺は考えもしなかった」
吉之の言葉を、できれば否定したかった。しかしそれはできなかった。何故なら正太郎にも同じ状況の友人がいたからだ。
友人の家族が、連絡を寄こさないから心配していると言っていたのを正太郎は知っている。優勝して永住権を手に入れたら、ついでに連絡を寄こさない理由を聞きに行きたいと正太郎は思っていた。それなのに。吉之の言う競売が事実なら、とてもじゃないが友人が幸せな暮らしをしているとは思えない。
液晶画面を見ながら、吉之が続ける。
「初めて地下へ降りた日。俺は、闘技場に偵察にきた。そもそもの目的に、闘技場は入っていなかった。ただの興味本位だった。試合後、優勝者以外の参加者たちが会場から追い出された。不審に思った。そこで俺は見た。貴族たちの競売を。信じられない光景だった。優勝者は喜んだのもつかの間。手枷をつけられた。話が違うと彼は叫んでいた。構わず競売は進められ、彼は巨額の金で競り落とされて、貴族様の奴隷になってどこかへ連れていかれたよ」
「その話を、俺に信じろというのか」
正太郎は吉之の顔をじっと見つめる。
嘘か誠か。見極めようとしていた。
しかし彼の表情からは何も読み取れない。
「信じるも信じないも、あんたしだいだ。俺のことを信用できない気持ちはわかる。俺も、あんたを信用しろと言われてもできる気がしない」
「お前の話が本当なら、お前は何も知らない俺たちのために、俺たちの恨みを買ったことになるんだぞ」
「それに、何か問題でもあるのか」
「は……」
正太郎は頭を抱えた。
そうすることが当たり前かのようにこの男は言うらしい。こんな悪役を買って出るような男が現実にいることが、信じられない。
けれど正太郎はその事実を受け入れようと思った。完全に否定できない以上、自分の目で見て確かめるしか方法がなかった。
「試合は棄権しない。お前のことを信用できないからな。だが、俺がお前に再び負ける可能性はある。考えたくもないがな。その時は。お前がいったことが真実だったと俺に証明しろ」
正太郎が言うと、吉之は微かに口角を上げた。
「証明しろというならば、もっといい方法がある」
正太郎は一瞬顔をしかめたが、そんなことを言われてしまったら耳を貸すしかなかった。
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