第二話『置いて来たモノ』

「着いたぞ」

 男の声で、物思いから我に返った。道中、男は特に私に話しかけることはなく、おかげで私も会話に困るようなこともなくて助かった。とかく、私はこれでようやく、床と壁と天井のある場所で休めるわけだ。全くありがたいことである。

「お邪魔しまーす」

 感謝しつつ、世話になると決めたからには遠慮はしない。相手から申し出があった以上、全力でお世話になるのが誠意というものだろう。

 割と新しいアパートで、こざっぱりとしたワンルームには、少ないながらも厳選された家具が小粋に並んでいる。それなりに片付いているが、丸いちゃぶ台の上には菓子の袋がそのままになっていたり、布団が無造作に二つ折りになって隅に追いやられていたりと、生活感が垣間見える。部屋の持ち主の性格がよくわかり、なんとも微笑ましい。

 先にずかずかと入ってあれこれ見回していると、部屋の主が無造作に置かれた座布団を指差すので、ありがたくそこに座す。彼はカバンを置くと、小さな冷蔵庫から麦茶をだして、プラスチックのシンプルなコップに入れて出してくれた。

 毒を盛られる心当たりならあり過ぎるほどあるし、そもそも毒は効かない体質なのでろくに確かめずに麦茶を飲む。よく冷えていて、うまい。

 その間に、彼はカバンの中身を整理し、財布を手にすると、すたすたと玄関に向かって歩き出した。

「……って、おい」

「……?」

 呼び止めると、こちらを向いてきょとん、と小首を傾げた。やめろあざとい。

「って、違う!……いや、お前、どこ行くの?」

「どこって……コンビニに飯を買いに」

「……」

 よそ者を自宅で一人にすることの危険性について奴に説くことは、一瞬考えて無駄であると放棄する。私はこいつの保護者でも何でもない。

「……ああ。そう。行ってらっしゃい」

 しかし、奴はまだ、玄関と私の間で、顔だけ私の方に向けて突っ立っている。

「……名前」

 彼は、ボソリと言った。何を言われたかわからず聞き返す。

「え?」

「名前、まだ聞いてない」

 ああ、と声が漏れた。そういえば、自己紹介すらまだしていなかった。

 目の前の男の顔を見、束の間、思考を巡らせる。

「……ソラ。呼び捨てで」

 あからさまに本名ではない。どうせ家出娘か何かだと思われているなら、かえって都合がいい。

 私のいい加減な名乗りに、彼が応える。

「俺は、マドカ、リョウ」

「……ん?」

 聞き違いかと思ってしまった。あまり嬉しく無さそうな顔で、男は説明を加えた。

「円に香りで円香、リョウは……なんか、普通の、よくあるあの……」

「ああ、アレか。なんかよく名前である、あの……」

「そうそう、あの亮だ」

「オーケー、把握」

 少し顔を明るくして、円香亮は私に言う。

「できれば亮と呼んで欲しい」

「オーケー」

 円香が笑顔になる。いい顔だ。そんなに自分の苗字が嫌なのだろうか。その顔を眺めながら、私はにやりとして言った。

「いってらっしゃい、まどか」


🔀


 かくして、円香は大層傷付いたご様子で部屋を出て行かれた。私はそれを、極上の笑顔で見送った。

 奴がいなくなり、座ったまま、ぼんやりと部屋を見回す。戻って来る前に、通帳とハンコでも探して逃げようかと思ったが、なんとなく体がだるいのでそのまま座っていた。


 家具のない部屋。

 慣れないにおい。

 記憶が混線する。


 ふわふわし始めた脳で、私がこんな惨めなザマになった理由を回想する。

「友達を助けたい」なんて英雄気取りを。

 過去に縋りつきながら、未来に救いを求めずにはいられない女々しさを。


 私が、随分昔に出会った退魔の一族の少女──津雲依子の、孫の孫……五代目津雲依子つくもよりここと、ヒカルの物語を『清算』したのがついこの前。結局、ストーカーめいてヒカルの行く先々に現れては、なんだかよくわからない妨害を仕掛けてきた……否、今だにちょっかいを出しているのか、あいつ──『最悪の魔女』いろはとの直接対決は無いままに事は済んだ。最後の最後で、私のコミュ障が仇となってヒカルとぶつかってしまったが、大きな時空の歪みも発生せず、まあ、概ね上手くいったと言える。

 問題は、首を突っ込んだ私の方だ。ヒカル含め、この世界で仲良く……なった、のか……?とにかく、知り合った人間は私を不老不死の最強生物だと思っている節があるが、当然、私にだって限界はある。

 今回の件は、完全に限界を超えていた。そもそも、人ひとりの因果を肩代わりするなんて、どう考えても個人の手に余る。人間なら、大魔術師が寿命を使い切ってようやく叶えられるような、そんな無茶な願いだ。今回は切り札があったとはいえ、流石にきつかった。

 加えて、私はどうやらこの世界の魔力と相性が悪いらしく、やたら魔力を消耗するわ補給はできないわ、オマケに魔法の威力は下がるわ散々な目に会った。挙句、適合不良で自分の肉を維持するのにも苦労する始末である。

 仕方なくその辺の適当な魂を喰い荒らして、ようやく戦えるだけの魔力を集めた。いろは相手に派手なハッタリをかました分、表だって魔力集めをするわけにもいかず、余計に苦労をした。

 つまり、私は今回も、やることなすこと裏目に出て、しなくてもいい苦労をしながら、無駄なお節介を焼いただけだった、というコトだ。

 ──きっと、私が何もしなくても、ヒカルは一人でいろはを止めていた。あんなに強いあの子のことだから、きっと……『彼』のことも、救えたのかも、しれない。

 それでも私は、また何も出来ないのは……また『津雲依子』を喪うのは嫌だったから、犠牲を払って、確実にヒカルを救った。

 自分が、ヒカルに『初代』を……はるか昔に死んだ人間を重ねているのはわかっている。それでも……何もしないことは、出来なかった。

 きっと、私の、こんなに浅ましい本性を知ったら、ヒカルは私を蔑むだろう。

 だから、逃げた。笑って手を振って……魔力の枯渇した駆体カラダを励起して、なけなしの力を振り絞って、ここまで逃げた。しばらく休んだら、久しく帰っていなかった故郷に帰るつもりだった。

 その前に、この世界で稼いだ小金をかき集めておこうと思い立ち、あちこちに遊ばせていた金を手元に戻す手続きを始めたのが五日前。

 思わぬ掘り出し物に出会って手持ちの全財産を使い果したのが四日前。

 金を手元に戻すのになかなか時間が掛かることに気付いて焦り出し、投げやりになって街中の野宿を決め込んだのが三日前。

 以降、体力を温存するためにダラダラと過ごし、そこをあのまどかに拾われた形である。我ながら、これは酷い。少しは後先考えて行動すべきである。……まあ、改める気はないが。

 金が入るまで、あと二日ある。その間まどかの元でグダグダして、そうしたら残りの金を回収して、さっさと何処か別の場所に行こう。

 この物語から遠く離れた、別の物語に。


 そんなことを考えていたら、ドアがガチャリと鳴って主人の帰宅を告げた。

「…………」

 部屋に入ってきたまどかは、布製の手提げ袋を持ち、突っ立ったまま私の顔を凝視していた。

「……おか、え、り……?」

 何か顔に付いているだろうかと思いながら、ぎこちなく挨拶する。と、円香は眉根を寄せて袋を置き、膝をついて私の顔を覗き込んだ。

 やはり女の体は面倒臭い。ホイホイ男に付いて行ったらすぐコレだ。だけど私は大丈夫落ち着いて冷静に拳を固め目の前に迫った奴の顔に裏拳を……

「……顔色が、悪い」

「超★必殺真っ直ぐストレーッ……は、はい?」

 握った必殺の拳は行き場を失い、床から五センチ程上がった位置で固まる。掌が額に当てられる。男の大きな、そのくせどこか柔らかい手。さっきまで外にいたというのに温かい。

 この状況がわからない。否、現実を見たくない。


 この、こっぱずかしいさで顔が引き攣りそうな現状を。


 男は私の額に掌を当てたままで、んー、とかなんとか言いながら首を傾げ、

「よく、わからないな」

 残念そうな顔をして手を下ろした。

「ここには体温計が無くて……ええと、外で寝たりするから体を冷やした、と思うから、とりあえず、飯……で、寝れば治る……?」

 何か、コイツは、弁解を、している?

「ここのところ、夜が寒かったから。まだ本格的に冬になってないとはいえ、流石に……その格好で野宿は……厳しいと……思、う……」

 言い訳めいた呟きが尻すぼみに消えて行くのは、私の眉間の皺がどんどん深くなっていくからか。

 つまりコイツは、別に下心も何もなく、ただ私の様子がおかしかったから体調を気遣っただけだと言うのか。

 ……自意識過剰、とか人間不信、とかいう文字が脳裏をよぎる。それだけでだいぶ辛いのに、更にさっきの掌の感触と、あの状況に少し、若干、本当にちょっとだけキュンと来ていた自分に対する羞恥で泣きたくなってくる。ダメ押しとばかりに、目の前の円香は、しかめ面から能面の如き無表情となった私を見ておろおろしていて、その必死さ、純粋さが罪悪感となってこちらを追い詰める。

 ダメだ。これ以上は耐えられない。

「……おい、円香亮」

「あ……はい?」

 手を握ったり開いたり、深呼吸したりして己を落ち着かせながら言う。

「ちょっと考えごとをしていてボーっとしてしまいました。私は大丈夫ですありがとうございます」

 それを聞いた途端、円香は目に見えて安堵した。とても分かりやすい。コイツは嘘がつけないタイプだろう。

「……あと、ごめんなさい」

「え?なんで謝るんだ……」

「うっさい!」

 ひとり相撲に負けた悔しさについ声を荒げてしまった。怒鳴られて身を縮めた円香は、こちらを窺いながら買い物袋を拾い、中身をちゃぶ台に無造作に広げた。メロンパン。おにぎり。おにぎり。おにぎり。メロンパン。から揚げ棒。メロンパン。

 ……待て。確かコイツは夕飯を買いに行くと言って出ていったはずだ。なのにこれは一体なんだ、奴はこれを夕飯と言い張るのか。主食はメロンパンなのか。

「適当に買って来たから……好きな物を取ってくれ」

 至極真面目に言った円香を見て確信する。コイツは、紛れもないド天然……!

 最早突っ込む気も失せ、黙って食べ物に手を伸ばした。

「オレの分まで、わざわざどーも。遠慮なくいただくよ」

 もう脂肪フラグとか関係ねー。開き直っておにぎり二つとメロンパン一つを引き寄せる。円香は残りを自分の方に取り、どちらともなく手を合わせた。

「いただきまーす」

「……いただきます」

 そして私達は夕飯にありついた。円香は、から揚げを一つ、串から外して分けてくれた。


🔀


 ろくに会話もせず、あっという間に夕飯が終わる。ゴミを小さく畳んで、律儀にも分別してあるゴミ箱に捨て、元の席に戻ってまた黙り込んだ。

 円香も黙っているが、こちらはこの沈黙をどうしたものか、悩んでは私を窺い、躊躇う事を繰り返しているらしい。見兼ねて声を掛けた。

「別に気を遣わなくてもいいよ。オレは会話が無くても平気だから、無理にしゃべんなくていい」

 そう言うと、円香はボソボソと「どうも」みたいな事を呟いた。


 沈黙。


 まだ、円香はチラチラとこちらに視線を向けている。気になるが、会話は要らないと言った手前、話し掛けるのは気が引けた。

 相手を意識すると、それまで何とも感じなかった沈黙が、やたら重たく感じる。

 何も言えないままの沈黙に耐え切れなくなった、その時。

 軽快なメロディーが、静まりかえった部屋に響いた。メロディーと共に音声が流れ、風呂が沸いた旨を知らせた。

「おい、」

 呼びかけられて目を上げると、円香は口ごもりながら言った。

「その……風呂……先に……」

「別にオレはいいから。お前だけさっさと入って……」

 気持ちは嬉しいけど、と心の中で呟きながら辞退しようとした私を、円香が遮った。

「女の子が体を冷やすのは良くない!……から、その……」

 思わずまじまじと見つめてしまった。円香は相変わらずごにょごにょと語尾を濁しながらなんとか続ける。

「バスタオルの予備があって、服は、貸す……けど、し、下着は、ちょっと……」

「……ああ、わかった。わかったから無理をするんじゃあない」

 赤くなりながらも必死に言い募る円香に居た堪れなくなって、申し出を了承する。

「有難くお風呂、いただきます」

 そう言うと、円香はほっとした顔で立ち上がり、いそいそとバスタオルと服の準備を始めた。

 なんだか、先程からずっと円香のペースに流されている気がする。が、悪い気はしなかった。

 私も腰を上げ、円香に付いて風呂場へ向かった。



 お湯を体に掛けて初めて、思っていた以上に体が冷えていたことに気がついた。有難く一番風呂に浸かり、しっかり体を温める。

 風呂から上がると、脱衣所にはきちんと畳まれたバスタオルと、巨大なスウェットが置かれていた。体を拭き、髪の水気をざっと取って、とりあえず使い回しの下着を身に付ける。それからスウェットを手に取ってみた。

 でかい。

 確かに円香は背が高い。180は間違いなくある。だからといって、ここまででかい服にする必要はあるものか。

 もしかすると、彼はああ見えてかなりイイ体をしているのかもしれない。隙を狙って確かめてみよう。

 ……とにかく、寝巻きとして提供された服は馬鹿みたいにでかかった。謎の緊張を感じつつ、まずは上に袖を通してみる。

 でかい。

 まず袖が余る。有り余る。萌え袖とかいうレベルではない。10センチぐらい垂れ下がっている。

 さらに首回りがでかい。色々と不安になってくるガバガバ具合である。これは、流石に……なんというか、屈んだら見えるんじゃなかろうか。なにとは言わないが。

 まあ、私はスポーツブラ愛用者なので、仮に見えたとしても素っ気無い黒いメッシュ生地しか見えないのだが。

 そして、丈が、長い。太腿どころか膝丈である。生活指導を免れそうだ。彼Tとかそう言うのじゃなく、普通にワンピースとして通用する。下にレギンスを履けば完璧だ。

 つまり、彼Tと言い張るには哀しいかな、チラリズムの欠片も無い、いささかダサすぎるシロモノだった。

「……まあ、これはこれで」

 下は、もうどうにもならない事がわかっているので最初から履かない。スウェットワンピースのまま、頭にバスタオルを被って脱衣所を後にする。

「上がったよー。お風呂、ご馳走様っと」

 余った袖を何となく振り回しながら居間まで歩いて、円香に声を掛けた。 ふと、昔、家で家族にも同じように、風呂が空いたことを伝えていたと思い出した。

 円香はこちらを振り向き、目を丸くした。

「なっ、し、下っ!?」

 次いで顔を真っ赤にする。私は手に持ったスウェットの下を突き出した。

「お前の服、でかい。オレには上だけでいいみたい……」

「だっ、だからってその、その格好はっ」

 眉を寄せて、溜息をつく。男子高校生というのは難儀な生き物らしい。

「よく見ろ丈が長すぎるしおまけにダサい部屋着だこれのどこに赤くなる要素がある!こんなモノ、着ているオレ含め萌えの欠片も無い!話にならん!」

 鼻息荒く一喝する。彼Tとは小柄で可憐な女の子がサイズの合わない男物を着て、色々と見えそうでギリギリ見えない状態が至高にして最高にしてジャスティス、すなわち、断じて私の今の格好は彼Tとは言わないのだ。

 円香は赤い顔のまま、謝罪と、抗議らしき呟きを漏らしながらそそくさと麦茶を飲み始めた。

 少し落ち着いたらしく、冷蔵庫の前から振り向き、手で床を示した。

 先程まで居間の真ん中に鎮座していたちゃぶ台は、脚を畳まれて壁際に寄せられ、広くなったスペースには布団が敷かれていた。

「確かに、お前がどんな格好をしようがそれはお前の自由だ。……とにかく、今夜はここで寝てくれ。俺が昨日使った布団だけど……」

「……いえーい」

 何の飾り気も無い、普通の白い布団に、少し逡巡したのち、両手を広げてばたーんと倒れ込む。その拍子に、スウェットワンピの裾がひらりと捲れ、尻の辺りがヒヤリとした。素早く裾を整える。

 円香がコップの中で麦茶に噎せる音が聞こえた。

「……見、」

「見てない!見てない!!」

「……黒」

 ごぼごぼと苦しげな咳をする円香をじとりと睨む。

「なるほど、健全な男子高校生ね、カラダが目当てか……」

「ち、違う違う!善意、純然たる小市民的だッ!」

 口元を拭いながら、必死に抗議する表情に、改めて、この男に悪意も敵意も無い事を確信する。

 円香はただ、野外で寝こけていた、素性の分からぬ無一文の少女を、本当に心配して自宅に招き入れただけなのだ。


 それは、とても、異常な事だ。


「まどか」

「……?」

 真剣な声のトーンに、円香は怪訝そうな顔をこちらに向けた。

「普通、小市民は素性の分からない人間を拾ったりしない。何をされるか分からないからね。それは道徳とか、そういったもの以前の、防衛本能による判断だ。自身を省みない他人への献身なぞ、聖人君子か、でなけりゃ死を前にした人間だけだ」

 円香は、黙って顔を逸らした。こちらに目を向けないまま、言った。

「あんな……あんな、アニメやマンガの王道みたいなシチュエーションなら……つい、魔が差すことだってあるだろう」

 少し、意外な言葉だった。

「もしかしたら、お前を助ければ突飛な出来事に巻き込まれるかもしれない。何か、青春めいた……面白いことが、あるかもしれない……そんな、思春期の男子高校生の、ただの下心だ」

 と。今度はしっかりとこちらを向いて、そう言い切った。

 そんなにはっきり宣言されては仕方がない。茶化す隙もないようだ。

「……そうか」

 だから、私も真摯に向き合わなければいけない。

「じゃあ、ありがとう」

 体を起こし、膝を揃える。

「これから暫く、よろしくお願いします」

 頭を下げる私に、円香は慌てて頭を下げ返す。

「こちらこそ、よろしく……その、下心とは言っても、そんないかがわしいものでは……」

「わかってる、わかってる。頑張って自制するこったな」

 私が笑うと、円香も柔らかく笑った。

「大丈夫、俺は結構ヘタレだから」

 ……それは、どうなんだろう。


 🔀


 続けて風呂に入ると言って、円香が立ち上がった時、ふと気になって尋ねてみた。

「ところでさ、まどか」

「ん?」

「布団……いっこしか無いんだけど……」

 ああ、といって円香は部屋の隅を指した。

「俺は独り暮らしだから。……今晩は、アレで寝るよ」

 アレ、と言って示したのは、ちゃぶ台と共に片付けられた座布団だった。どうやらこいつは、客に布団を使わせて自分は座布団で眠るつもりらしい。それは、さすがに申し訳ない。

「あ、いや……悪いよ、そんな気遣わなくていいって。オレそっちに寝るよ」

「……いや。女子を座布団に寝かせるのは男として駄目な気がする……」

 断固として首を振る円香に、私も負けずに言い募る。

「お前さぁ、そうやってオレに貸しを作ろうったってね、させないからね。居候なんか気にせず……」

 言葉が尻すぼみになったのは、なぜか目の前の男が傷付いたような、悲しげな顔をしたからだ。

「やっぱり、俺の使った布団は嫌か……」

 そして円香から放たれた思いもよらない言葉。

「……っ、いや、違……違うんだ、そうでなく!オレは、ただ、お前に借りなど作らないって……!」

 情けなく眉を下げたその顔に、必要以上に動揺してしまった。なぜか必死になって、しどろもどろに弁解する。

「だから、別に、お前が使ったことを気にしてるんじゃなくて……!」

 すると、円香はゆっくりと顔を綻ばせた。

「……そうか、よかった」

 その事実に、必要以上にほっとして、力んでいた体から力を抜く。すると、円香がこちらに向かって踏み出すのが見えた。

「……?」

 とん、と、肩を押されて、布団に倒れる。

 何が起きたのかわからない。脳味噌の回転数が下がっている。状況の理解が追

 いつかないまま、部屋の明かりで逆光になった、意外と幼さが残る青年の顔を見上げていた。

「……、……そ、」

 やっと、布団に押し倒されたことを理解した時には、ふわり、と柔らかい感触と共に、掛け布団を被せられていた。

「それじゃあ、おやすみ」

 低く滑らかな声が降ってきて、最後に柔らかく微笑んで、円香は部屋を出ていった。それまで、全く身体が動かなかった。

 風呂場から遠いシャワーの音が聞こえてきて、そこでようやく、私の身体は制御を取り戻す。

 やっと回転数の戻った頭で、直前の出来事を、反芻、して、

「あ……ああ……」

 私は。いや、アイツは、私に、

「…………あああぁぁぁぁぁ……!」

 横たわったまま、力無く悲鳴を上げる。あり得ない。あんな、無防備に、自分の間合いに入られて、それで何もできない、なんて。

「何なんだよ……何なんだよ!何なんだよ何なんだよ!!」

 落ち着こうと息を吸い、鼻腔いっぱいに奴の匂いが広がって、余計に頭に血が上った。

「ぁ……あ、」

 我慢ならずに、隠し持っていたナイフを抜く。枕をズタズタにしたい衝動をなんとか抑え、虚空に向かって振り回す。

 獣のように唸りながら布団の上でジタバタと暴れ、最終的に疲れ切ってバタリと布団に倒れた。ナイフを抱き込むように体を丸める。

「何なんだよ、畜生……」

 力無く呟く。もう頭は冷えて、じくじくと羞恥が胸の裡で燻った。そのまま目を閉じる。心身ともにぐったり疲れて、すぐにやってきた睡魔に、投げやりな気持ちで身を委ねた。


🔚

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Over the vapor trail 玉簾連雀 @piyooru

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