第一話『夕焼け小焼けの帰り道』

 冷たい風に身を竦めた。

 夏の暑さはどこへやら、秋空は素知らぬ顔で高く澄んでいる。流石に夏服のままで出てきたのは無謀だったかな、と、俺は半袖シャツからむき出しの二の腕をさすった。

 もうそろそろ日が暮れる頃で、青かった空は段々と優しい金色に染められていく。もう帰ろうと、家に向かって歩き出す。

 ……いや、家じゃない。あのアパートの一室は、ただの拠点に過ぎない。そもそも、自分に帰る場所なんてない。

 そう、俺は、円香亮まどかりょうは、帰る場所を喪った……ついでに、存在意義も見失った。

 まず、自分はどうして学校にも行かず、一日中、日が暮れるまで街を彷徨い歩いていたのか、胡乱な頭で回想する。

 自分が魔界一の大悪党、不幸の運び手──『最悪の魔女』いろはの手下として働いていたこと。

 その活動の一環として、人間界に拠点を構えたこと。もののついでに、近くの高校に入学したこと。そこでは、それなりに充実した生活を送っていたこと。

 そして……その歪な日常が、終わりを告げたこと。その理由としては、恐らく、いろはの『過去への侵攻』計画が頓挫したことが最も直接的なものだろう。途中までは順調だった計画は、謎の敵にいろはが完敗したことをきっかけに崩れ出した。同じくいろはに仕えていた『剣の魔女』──時村ネオンが脱落して行方不明になり、いろはの悪事は失敗が続き、そしてついに、いろはのライバル、賀神ヒカルによって計画は完全に潰された。

 最も、当のいろははけろりとしていたが。彼女にとって、お楽しみの一つや二つが消えるくらい、なんともないのだろう。

 大きな仕事は終わり、そうして俺は、いろはから首切りを宣告された次第だ。

 曰く、『もうマジックアイテムをバラまくことが出来ない以上、貴方を手駒として抱え続ける必要はないわね。私めの魔力ももったいないし。と、いうわけで、貴方、お役御免ですわ!何処へなりとお行きなさい。もちろん、私めからの魔力の供給は只今をもってストップですわ♪その仮初めの肉体がいつまで持つか知らないけれど、どうか、素敵なバカンスを楽しんでらっしゃいな☆』

 …………。ああ、思い出すだけで、苛立ちと諦観と、乾いた笑いまで浮かんで来た。俺は結局、言い返す気力もなくし、移ろいやすいいろはの気が変わらない内に、早々といろはの御前を辞したのだった。

 もともと、人間としての暮らしにそこまで夢は見ていなかった。人として、束の間生きられるならそれで良かった。人間界は思った以上に楽しくて、もう十分だと思っていたから、悲しみは無かった。

 その後間も無く、適当な理由で高校を辞め、魔力が切れてこの世から消える日まで、静かに余生を過ごすことにした。

 自分が消えるというのに、大した実感もないのは、魔力切れの兆候が軽いめまいだけであるせいかもしれない。そのめまいの頻度だけが、自分の終わりへの距離を伝えてくる。いろは、ネオンと共に『三魔士』などと呼ばれた身が、何とも情けないザマだ。

 それでも、 悪くない終わりだ、と思う。戦いの中で命を散らすこともなく、望んだ日常の中で『円香亮』は消滅する。名残り惜しそうに街を歩き回るのはご愛嬌。少し寂しいだけだ。未練なんて、ない。

 そんな風に自分に言い聞かせ、歩みを速める。ぼんやり考え事をしながら歩いていたせいか、いつの間にか辺りは暗くなってきていた。

 今日は早道をして帰ろう。公園を通り抜ければ早く部屋に戻れる。俺は公園に向かって早歩きをした。

 この後、自分が公園を通ったことを死ぬほど後悔するなんて、このときの俺には知りようもなかった。


 俺は、まさにこの公園で、ろくでもない奇蹟に行き逢ってしまったのだった。


 🔀


 穏やかに街を包んでいく夕闇の中、閑静な住宅街の一角にある、遊具の少ない小さな公園。ここを通り抜ければ、少しだけ早くアパートに着く。俺は街灯のそばを通り、ベンチの横を抜けようとして、立ち止まった。

 ベンチに人が倒れていた。

 寝ている、ではなく、咄嗟に『倒れている』と思ったのは、その少女があまりに無造作にベンチの上に転がっていたからだ。上半身はうつ伏せで、下半身は腰からねじれて横向き、足は投げっぱなし、片方の腕は体とベンチの背もたれに挟まれ窮屈そうに折り畳まれ、もう片腕は地面すれすれに垂れ下がっている。呼吸を確保する為か、顔は背もたれのない方に向けられている。口元に垂れた髪が呼気で揺れ、少女が生きていることを示していた。

「大丈夫ですか?」

 親方空から女の子が、とか、すわいろはの嫌がらせか、とか、まるで美少女ゲームのプロローグみたいだ、とか、もしかしたらこれから何か、突拍子もない出来事に巻き込まれるんじゃないか、とか、脳裏をよぎる色々は後回し。とりあえず、少し大きめの声で呼びかけ、強めに肩を叩く。すると少女は、うう、と呻いて目を覚ました。意識が戻ったことに安堵した俺の手を、少女の手がガシッと掴んだ。

「ぁ……のっ!?」

 声が引きつった。

「すみません……そこな、お優しい方……」

 突然のことに困惑する俺の手首を痛いぐらいに握りしめ、少女は蚊の鳴くような声で言った。

「何か……食物を……お恵み、ください、ません、か……」

 食物。食べ物。俺は即座にカバンに自由な方の手を突っ込み、開いた袋に入れたままの、半分食べかけのメロンパンを差し出す。即座にそうしたのは、弱り切った少女の様子が一番の理由ではあるが、握り込まれた俺の腕の骨が軋んでいるせいでもあった。本能的に体が動いた。

「……むっ」

 少女が俺のメロンパンを認めた、直後。少女の姿がかすみ、俺の手からメロンパンが消えた。その、刹那の出来事を脳が認識できず、少女が奇妙に体を曲げて上体を起こし、口いっぱいに頬張ったメロンパンをもごもごと咀嚼するのを、俺は数秒間マヌケ面で眺めていた。

 しばらくして俺は我に返り、少女が俺の食いかけメロンパンを丸ごと口に押し込むことで確保し、それから少しづつ咀嚼し飲み込み胃に収める、という作業を行っているらしいことを理解した。

 驚くほど意地汚い。一体どんな過酷な経験をすればこんな行動力が身につくのだろう。

 などと考えているうちに、少女は最後のひと口(最初から全部口に入れているのでひと口もなにもないのだが)を飲み込んだ。白い喉がごくりと動き、俺のメロンパンは完全に彼女の胃袋に収まった。

「いやあ、ありがとう、通りすがりの親切な君。おかげでこの通り、オレは命を繋ぐことができた」

 と、少しだけ元気になった、ように見える少女は、俺に頭を下げる。

「これでまた、ここで文無し旅がらすごっこができる。とても感謝しているよ。文無しだからお礼とかできないけど」

 おい。待て。

「いやいや、ごめんて。でも本当に文無しなんだよ。どうしてもっていうなら、まあ、カラダ一つでなんかこう、なんかしてあげないでもないが、まあそれはそれとして、食いかけメロンパンごときでなんか、そういうのはどうかと」

 困ったような笑みを浮かべる少女の勘違い発言を遮る。

「違う。俺が言いたいのはそういうアレじゃない!ごときとはなんだ、コンビニメロンパンは文明の奇跡だ!」

「それがお前の言いたいことか……」

「いや待て……違う!俺がお前に言いたいのは、」

 少女の酷い言い様に文句を付けたら、何故かすごく、残念なモノを見る目で見られた。しかし思わずツッコミを入れてしまったが、俺が本当に問題にしているのはメロンパンがいかに素晴らしい食べ物かじゃない。

「お前、またここで行き倒れる気か」

 俺の問いに、少女はやや憮然として答えた。

「行き倒れちげーよ。お腹空いて動けなくなっただけだし!」

 世間一般では、それを行き倒れと言う。

「それにあと二日したらお金入るし。そしたらリッチなネカフェ暮らしするんだし!」

 なるほど。嘘か本当か知らないが、無計画に行き倒れ続ける訳ではないのか。

 しかし。俺が聞きたいのは……。

「お前、帰る家がないのか」

 家出か何かか、それとも、本当に家がないのか。それはわからなかったが、『帰るべき場所がない』という境遇に、ほんの、少しだけ、親近感を感じてしまった。

「いやまあ、寝床を確保してないのは、そうなんだが」

 俺の意図がわからず、ベンチに座り直して、俺を見上げて怪訝そうにする少女。夜の帳はいよいよ街を包み始め、公園の街灯が灯る。

 ここは民家に囲まれた公園で、不審者が出たとかいう話は聞いたことがないし、まだ本格的に寒くなってはいない。

 そして、相手は見ず知らずの、全く無関係の人間だ。俺は単なる通りすがりでしかない。

 それでも。

「二日……だよな」

「……?」

「お前、良かったら、俺の……家に来るか」

 知らんぷりは出来ない、と思った。同年代の少女が、こんなにも無防備に野外で眠るなんて、放っておいていいハズがない。……といって、知らない男の家というのも、どうかとは自分でも思う。言ってしまってから、断られる可能性の方が高いことに気づいて後悔する。

「え?いいの?それって今晩の御相伴にあずかれたりする?しちゃう?オレ遠慮しないよ?ホントにいいの?」

「えっ……あ、ああ」

 ところが当人、ノリノリだった。

 十中八九断られると思っていたので、誘ったこちらが面食らってしまった。少女はそんな俺などお構いなしに、ニコニコとしながら立ち上がった。

「いや、本当にありがとう!それじゃ、お世話になります!」


 ──ああ。


 面倒を抱え込んだ、という思いと、誰かに必要とされる安堵が混ざり合う。

「では、もう日も暮れるし、君のおうちまでご案内願いたい」

 俺の胸中などお構いなしに、少女はニコニコと催促してくる。俺は置いていたカバンを肩に掛け、家に向かって歩き出す。

「こっちだ」

 公園を抜け、少し広い道に出る。

「おお!」

 少女の声に振り向くと、ちょうど、沈んでいく太陽が、最後に西の空を目の覚めるような茜に染めている所だった。もう紺色に暮れた空と、夕陽で色づいた雲が鮮やかなコントラストを成している。昼が終わる、最後の数分。ひととき見惚れて、また、歩き出す。

「今日は一日いい天気だったからな」

 歩きながら少女は言った。

 そして訪れた夜の中、俺たちは家に帰る。


🔚

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