5
玄関のドアのレバーを下に傾けて、押した。外を窺いながら、開かれた空間を抜けていく。
部屋に入ってきていたものよりも暖かい風に春を感じながら、閉じられたドアの鍵穴に鍵を挿して回す。
鍵穴のほうから聞き慣れた音と、鍵の向こうで何かが動く感触がした。
ドアを背にして見上げると、青白い空が広がっていた。
空を見ると、なぜか落ち着く。
「相変わらず」朝見た時とほとんど変わらない、どこまでも続いていくのような空だった。
朝と比べると、少しだけ優しい色合いになったような気がする。
雲は、ちらほらとあるだけで、ほとんどなくなってしまったから、さらに空が広く見えた。
なんて言うか、こういう大きな空を見ると、自分の悩みなんて本当は小さくて、簡単に解決できるように思えてしまう。思えるだけで解決できるなら楽なんだけど。
周りに聞こえないように配慮しながら、
「本当、何度見ても羨ましいよ」と空に向かって言った。
自然と目が細まって、口角が上がっていた。楽しいのか悲しいのかわからない。
家の中にいた時にあった、圧し潰されそうな気持ちは霧散していったのか、いまはもうない。
「さて、行きますか」
お日様の光に当てられて、身体が暖められているのを感じながら、ゆっくりと歩き始めた。
どこに行くかは決めていないけど、良いか。
横目で、周りの景色を取り込んでいく。右も左も家が並んでいる。
灰色の街。温度を感じない。無機質、と言う言葉が浮かんだ。
肌に当たる風も、ヒーターの暖かいだけの風に似ている。
程度の差はあっても、寂れてしまっているように見えてしまうのは、ご近所付き合いがないからだろうか?
不思議と近所の人とすれ違うことがほとんどない。会うこともないから、どんな人が住んでいるのか知らない。
こうして歩いていても、音が聞こえてくることはない。だからなのかもしれないけど、人が住んでいる感じがしない。
人が住んでいても住んでいなくても関係なさそう雰囲気が、温度を感じないと思った理由なのかもしれない。
家に帰る途中にどこかの家から漂ってくる魚を焼く匂いが好きだった。落ち込んでいても、自然とお腹が減ってきて、家の晩ご飯を想像しながら帰路につくのが楽しかった。昔の話。ここ最近は、そんな匂いもしてこない。
道の途中で立ち止まる。
空を見上げる。何もかも投げ出して、空で漂っている雲のように、何者にも縛られずにどこかに行ってしまいたい。
今この時だけは、何もかも吹っ切れて、進んでいけるような気がしている。
何もかも吹っ切れて行う逃避行は楽しそう。知らない冒険が待っている。
でも、逃避行それ自体が目的になってしまったら、良い結果に向かうことは、まずない。
だから、分の悪い賭けはするべきじゃない。
自分の中の理性的な部分か、本能的な部分か、
あるいは両方が、いつだってブレーキをかける。
いつの頃からか、外に出る時は必ずと言って良いほど目的地が設定されていたように思う。だから、目的もなく外出したのは久しぶりかもしれない。
ふらふら歩くのも、案外楽しい。
道の途中で立ち止まった。
適当にぶらぶらするのにも飽きてしまった。行き先を決めないで歩き続けるのは、自分には合わないのかもしれない。
といっても、どこに行こう? そんなに歩いたつもりはなかったんだけど、足が少し疲れた。
片足ずつぶらぶらと軽く振った。
比較的静かだと思う場所で、ここから歩きで行けるところだと、桜の並木道があるところと隠れ桜の二つか。並木道は隠れ桜の道中だから、隠れ桜まで行くかは、並木道に行った後に考えれば良い。
完全に運動不足だ。
止まっていた足をもう一度、目的地に向かって動かし始めた。
桜の並木道か。
桜がずらーっと並んでいる様は壮観で綺麗なんだけど、以前にテレビで紹介されたからなのか、桜の開花時期になると見に来る人が増えて、割と賑わう。
楽しそうに桜を見る人を遠目から眺めていると、昔からの知り合いと呼べる場所が有名になって嬉しい半面、小さい頃と比べると、静かに見れなくなって寂しい。
桜のシーズンも終わったから、そんなに人はいないと思うんだけど、行ってみないとわからない。
歩き続けながら、もう一度、空を見た。
空は、いつも変わらない。
いつも、仰げばそこにいる。手を伸ばしても届かないけど、離れてもいかない。
青々と茂った木々が綺麗に並んでいる道が見えてきた。近づくにつれて、犬と一緒にいる人や、一人で歩いてる人、手をつなぎ合っている人達などが目に入った。それぞれ、思い思いに歩いているのだろう。
並木道には人がちらほらいるけど、先月の初めと比べると雲泥の差だった。
桜が散ったら減るのは当たり前なのだけど、春のほんの少しの間だけ持て囃されるというのは、なんだか悲しい。
並木道の出入り口まで進んでいくと、一度、立ち止まった。
ここから見ると、瑞々しそうな葉をつけて色づいているように見える木々が、アーチを作っているように並んでいる。何度見ても、壮観だと思う。
並木道の中に入っていく。
青さの香る風が、今はとても心地よい。
「綺麗……」
青い葉がお天道様に照らされて光り輝く新緑の道。
陽だまりと陰が織りなす春小径。青春の道が続いていく。
中盤あたりで歩き疲れて、途中にあったベンチに座った。
さてと、これからどうしよう?
あの静かな家にいたらどうにかなってしまいそうだったから急いで飛び出したのに、家に帰ってしまったら意味がない。
「うーん」
とはいったものの、なんとなく今は、人がいるところにあまりいたくない。
この場所は綺麗だけど、人の往来があるのが、少し気になる。
「静かで、人がいない場所か……」
自分で言っておいてなんだけど、そんな都合が良すぎる場所はあるんだろうか?
ふと、上を向くと、緑色の葉をたくさんつけた木の枝が風で揺れていた。
「もう、5月なんだよね……」
桜と言うと、満開の桜ばかり注目していた。
今日は、桜が散ってしまった後の葉桜も綺麗であることに気づいただけでも、収穫があったのかもしれない。
こんなに楽しいのは、久しぶりだ。
「隠れ桜か……」
近所の人達だけに有名な桜だから、通称、隠れ桜。お父さん達がそう呼んでいたから、この名前で呼んでいるけど、実際のところ、どれくらいの人にこの名前が通っているんだろう?
お花見の時期ならご近所さんがいる可能性があるけど、今なら多分、人はいない。
どうせ行く場所もなし、行ってみますか。
ベンチから腰を上げると、並木道を後にして、隠れ桜へと向かった。
一ヶ月前のことを思い出しながら、歩き続けた。
お母さんとお父さんと、三人で行った時以来か。
綺麗な夜桜だった。後、肌寒かった。
あの時は、お母さんとお父さんに半ば無理やり連れ出される形であそこに行った。
人が多いところに行きたくなかったし、お母さん達と行っても気まずくなるだけだったから、人がいるところに行きたくない、と言って最初は断った。
楽しくないと思っている人間と行くより、楽しみたい者同士だけで行ったほうが良いと思った。
数日経って、平日の夜に一緒に行かないか、と言われてさすがに困った。たしかに春休み中で比較的暇だったとはいえ、夜に一緒に行こうと言われるとは思わなかった。
変な気の使われ方をされているように思ったけど、そこまでされたら流石に断れなかった。
さらにその数日後に、シートとお弁当と懐中電灯と、どこから用意したのか携帯用のランタンを持って、三人でお花見に行った。
有名な桜の木と違って盛大なライトアップはされてないため、辺りは薄暗く、ランタンが思いの外、役に立った。
桜の木の下で、薄暗い夜桜を見上げながら夕食のお弁当を食べた後、暖かいお茶を飲みながら食後の休憩をしていたら、割とすぐに肌寒くなってしまった。
結局、夕食を桜の下で食べただけで帰ってきてしまったからか、あまりお花見という感じはしなかった。
ただ、その時に見た夜桜が、昼の桜にはない雰囲気があって、妖しいという表現が自分の中でぴったりと当てはまったことに感動したからか、すごく印象に残っている。
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