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ドアを開けて、部屋に入る。
部屋に入った瞬間、息がしづらく、なんとも言えないまとわりつくような感じがした。
あまりここにいたくない。かと言って、一階に戻るのも、気が引ける。
そもそも、ダイニングの壁にある時計の音が気になって仕方がなかったからこっちに来たのに、下に戻ったら意味がない。
良い対策ないかな? 自分の部屋がなんだか澱んでいると感じた時は、他の人はどうしているんだろう?
うーん、カーテンが閉めっぱなしなのがいけないのかもしれない。とりあえず、窓を開けよう。
ドアを後ろ手で閉めると、薄っすらと光っている窓の前まで進んでいく。
カーテンをそっと掴んで、ゆっくりと開けると、身体にお日様の光が降り注がれて、ほんのりとした温かさを感じた。
窓の向こうには、包み込まれそうな青い空と一点に輝き座る太陽、ふらふらと歩いている亀のような雲があった。
「うん、いい天気」
窓を開ける。少し青臭いような匂いと一緒に、風が通り抜けていく。不快ではないけど、気持ちよくもない風。
カーテンに身体を撫でられた。
青空は、いつ見ても広い。四方八方に果てがないように見える。どこが始まりで、どこが終わりなんだろう?
空は地球の反対側にある海。まだ小学校に入る前の時に、そんなことを考えていた覚えがある。
実際の海は、絵で見るほど青くない。だから、空に海を連想したのかもしれないけど、どういう過程を経てそういう結論になったのか、今でも不思議に思う。
揺蕩うように流れる雲は何ものにも縛られないような雰囲気で、少しずつ形を変えながら、ふらふらと適当な道を進んでいるように見えた。雲はもっと速く流れているかと思っていたけど、意外に遅い。
太陽を見つめる。すぐに目を開けているのが辛くなり、手で日陰を作った。
なんていうか、こうしていると演劇で使われているような、大きなスポットライトに当てられている気分になる。
この三つなら、雲になりたい。
誰にも囚われず、ゆっくりと進んで、形を変えていく。どこかにふらっと行ってしまいたい。
少し、すっきりした。
窓を閉めた。
部屋の中がさっきより軽く爽やかになったように感じる。ドロリとした感じもほとんどない。
ベッドに腰を下ろすと、部屋全体を見回した。
窓の近くに小さな陽だまりができていて、そこを中心に活気が湧いてくる様を想像してみる。
心なしか、さっきより部屋が広々と感じた。
昔は、もっと鮮やかに見えていたように思う。
人間は、成長するにつれて、新鮮味がなくなっていくのかな?
それとも、友達がもっといれば、鮮やかになるのだろうか?
枕元に置かれている、携帯電話を手に取る。
受信、着信、なし。当たり前だよね。
携帯電話をそこら辺に置いた。
鮮やかにはならなさそう。
大学構内で他人の話に耳を傾けていると、そんな簡単な話ではないことがわかる。
最近の流行、趣味のこと、他学部と思われる人達のその学部特有と思われること。そして、友達や恋人のこと。
いろいろなことが、縦横無尽に流れていく。
楽しそうに話しているものもあれば、愚痴を言うように話しているようなものもあって、人間関係とはなんだろうと思う話もある。
声の調子、話の切り替わりのタイミングなどで、いろいろな関係性が想像できる。興味を持った話の場合は、相手に気づかれないように一部始終を眺めさせてもらう。
他人は自分を見ていないらしいけど、見聞きしている人はやはりいるのだと思う。
そういう話を耳に入れながら、今みたいに友達がほしいと思う時がある。
おそらく、夢を見ているんだろう。楽しそうに笑っている自分の夢を見ている。
お金持ちを夢見るのと一緒。お金があれば幸せと思っていて、お金持ちになって好きなものを買っている自分の夢を見ている。
いっそのこと、打算的な付き合いができたのなら、違った未来があったのかもしれない。
もっと割り切れれば、何かが変わるのかな?
大学生活の半分以上が過ぎてからそう思っても遅いと思う。
インターネットを使えば、同じような人に出会えるかもしれないけど、あそこは怖い。
本棚の上に鎮座されているノートパソコンを見つめる。
最初は、何もかもが楽しかった。
距離感が狂っていくように感じ始めてから、使うことに抵抗がある。
もう少し、形があれば使いやすいんだけど。
こちらの世界なら、感覚を全部使って、相手のことを知ろうとすることができる。
インターネットではそれができない。幾重にもかけられたフィルターを通してしか、相手のことがわからないうえに、情報が少なすぎる。
ほとんどは文章から想像するしかない。
しかし、丁寧語の優しそうな文章で書かれているのだから優しい人柄なのかというと、そうとは言い切れない。
同じ人でも、他の文章を漁っていくと、死ねやクズというような言葉を使っている文章を見かけるようなことが割とあった。
昔からそういう言葉を使う人は苦手だから、どうしても良い印象が持てない。
相手のすべてが疑わしくなっていって、どこまでが本当かわからなくなる。
相手が本当に同じ人なのか、わからなくなる。
インターネットは、感情を想像できる要素が少なすぎる気がする。感情の変化や性格が、なんとなくでしか把握できない。
お世辞、冗談、本音。あまりにもわかりづらい。
姿形は見えないけれど、相手は生身の人間なのだから、どうしても気を使ってしまう。
文は人なりという言葉がある。少なくともインターネットの世界では、文章だけで人となりが判断できるかは怪しいと感じた。
文字だけで細かくわかる人がいるのなら、本当に羨ましい。
ベッドに仰向けに倒れ込むと、掛け布団に受け止められた。白い天井が眼前に広がっている。
インターネットに初めて触れた時は、ただわくわくした気持ちだけがあった。終わりのない遊び場のように見えた。
インターネットは宇宙のようだと聞いたことがあるけれど、それよりは空に似ていると思う。
インターネットも空も、どこか得体のしれないものがありながら、なぜか身近にも感じるところがそっくりだと思う。
違う点は、インターネットは点々と存在する星の多くに、瞬時に行けること。動いた感覚がほとんどしない。どれだけのことをしても、キーボードとマウスの感触しか返ってこない。
両手を、目の前に持ってくる。目の前にキーボードの存在を想像した後、十本の指を適当に動かした。
両手の力を抜くと、掛け布団に落ちて沈んでいく。
人が機械を使っているのか、機械が人を使っているのか。
どこで知った言葉だったかな?
全身の力が抜けていく。ふと、天井からぶら下がっている電灯に意識がいった。
細かい汚れがついている電灯。電灯の中央からスイッチ用の紐がぶら下がっていて、先端にデフォルメされた猫の人形がぶら下がっている。
「うーん、何度拭いてあげても汚い」
年末の大掃除に拭いてあげた時は綺麗に見えるんだけど、こうして見ると、汚い。
放っておいた汚れは、こびりついて頑固な汚れになると落ちにくいらしいし、長く使っていればこんなものなのかもしれないけど、気になる。
「はぁ」ため息が出ていた。
新しい冷蔵庫を買いについていった時に、新しいものに変えてもらうべきだったかな?
気に入っているわけではないけど、なぜか捨てられない。この電灯を捨てることを想像すると、なんともいえない寂しさのような気持ちがこみ上げてくる。
猫のマスコットもそうなんだよね。
紐の先端にくくりつけられている汚れのついた猫の人形を凝視した。これも結構、古いものだと思う。捨てられない。
そういえば、誰が人形を紐に取り付けたんだろう?
そもそも、この部屋を使い始めたのはいつからだろう?
小学生の頃は両親と寝ていたような気がするんだけど、あまり思い出せない。
気がついたら、ここが自分の部屋になっていて、一人で寝るようになっていた。
仮に中学生くらいからだとすると、九年近い。
リビングかダイニングにいることが多いから、九年も使っていた実感は、どうしても湧かない。
九年。それだけ経てば、愛着の一つも湧くということだろうか?
愛着とはなんだろう?
ただ一緒に過ごすだけ? 繰り返すだけ?
好きではないものでも、繰り返せば好きになる?
繰り返すだけで価値観は変わる?
好きも嫌いもそんなもの?
視線がぶれて、白い天井にある生活感を感じさせるシミが目に入った。点々とできていて、天井を汚している。
「いつの間にか汚れてる……」
汚れは最近ついたものには、見えない。取るのは難しいかもしれない。
取れるなら消し去りたい。ポツポツと絵の具を垂らしたようについている小さな汚れは、ある意味大きな汚れよりも気になってしまう。
天井の汚れは、なんでつくんだろう?
汚れがつきそうなことは極力避けているのに、汚れがいつのまにかついている。それに、天井はけっこう高いのに、どうして汚れがつくんだろう?
汚れはいつの間にかついていて、最初は気づかないことが多い。生活の一部のように、当たり前のように溶け込んでいる。
ある時、いろんな偶然が重なって、気づく。
最初は気になって、対策を考える。
目に見える害が少ない場合、ほとんど気にならなくなっていく。
そこにあるのが、本当の意味で当たり前になっていく。
この汚れのこともそのうち、当たり前に変わっていくんだろうか?
最初はこんな風に時間を使って考えているけど、他のものが増えていくにつれて、流されるように、そこにあるのが当たり前になるんだろうか?
輪郭が曖昧になっていく。混ざり合っていく。わからなくなっていく。
誘われるまま、目が閉じられていく。
くろくなっていく。
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