2
階段を下りきると、ダイニングに入っていった。
「おはようございます。今日は寝坊ですか?」
柔らかく穏やかな声のほうに顔を向けると、お母さんと目が合った。慌てて目をそらした。
お母さんは、隣のリビングにあるソファに座っていた。
「いつも通りに起きてたんだけど、考えごとしてた。後、おはよう」
「勉強大変そうですもんね? 昨日も、夜中に勉強してませんでしたか?」
「してた。もしかして、うるさかった?」
「うーん。うるさいとは感じませんでしたが、部屋から何かを言う声が聞こえました」
「あー、何時頃?」
「水を飲みに起きた時ですから、夜中の二時頃だったような」
声、漏れてたのか。
「そっか。ごめん」
集中していて、気づかなかった。
「あれ、勉強だったんだ」
後ろのほうから、落ち着いた良く響く声が聞こえたため、声のしたほうに身体を向けると、お父さんがこちらに歩いてきていた。
「おはよう。お経でも唱えているのかと思ってた」
お経?
「おはよう。もしかして、お父さんも?」
「うん。僕も聞いたよ」
「ドアをノックしてくれればよかったのに」
「お経の邪魔をしたら悪いかなって思って」
真面目な顔をしているけど、若干笑いをこらえてない?
「暗記してたの?」
無表情だからなんとも言えないけど、声が震えてる気がする。
「そう。声に出したほうが暗記しやすいから」
それにしても、お経はひどくないだろうか? おそらく冗談だろうけど。
「懐かしいなぁ。学生時代によくやったよ。お母さんは?」
「もしかして、お父さんもですか? 私もです。書いて覚える人もいませんでした?」
「テスト開始のぎりぎりまで、紙や宙に書いて覚える方法だよね。
僕は、声に出して覚える方法と書いて覚える方法、両方やっていたよ。
答案用紙が配られる時間になったら、今度は指と机を使って、テスト開始の本当にぎりぎりまで粘って暗記してた」
「まるで、魔法の呪文を唱えるように暗記している人はいましたか?」お母さんが、左手の人差し指を立てた。
「へー、それは、初めて聞いた」
まずい。このままだと、会話があらぬ方向に行ってしまう。
ヒートアップすると延々と話が続くから、合間を縫うように横槍を入れて話に入らないと、置いてきぼりにされてしまう。
「お父さん達は、テストとかないの?」
「「テスト?」」
二人とも、毎度毎度、そんなに驚いた顔しなくても良いのにと思う。横槍を入れるたびにびっくりした顔をされると、こっちも心臓に悪い。
息が合っているように見えて、正直ちょっと羨ましい。
それとなく、ダイニングテーブルのいつもの席に座る。
「テストか。そう言われると、学生の頃に受けていた定期テストみたいなものは、あまりないね。仕事自体がテストと言えるかもしれない」
お父さんも空いているダイニングテーブルの席に座ると、腕を組み始めていた。
「資格取得のために勉強している人が、後輩や同僚の人にいるんだけど、それなら、学生のテストに似ているかもしれない」
行きつけの本屋さんにも、参考書コーナーの一角に資格に関する本が集められていたし、共通点は多いのだろう。
車の免許を取る時も、学校のテストを受けている感覚があった。
実技はともかく、学科試験の問題は、妙な問題が混じっていて百点を取るのが難しかったところは、学校のテストに似ていたと思う。
「お父さんは資格、取らないの?」
「めんどくさいからね」
うわっ、即答。
「半分冗談。取る必要がある場合は取るかな」
「取る必要がある場合?」
「うん。仕事をするのに絶対必要な資格だったり、会社から取ってほしいと言われた場合とかは、しかたなく取る」
「資格をいっぱい持っていると、何かと便利なのはわかっているんだけどね」
お父さんは腕組みを解いた。
「わかっているんけど?」
「なんでもそうなんだけど、せっかく手に入れてもメンテンナンスをしてあげないと、風雨に晒され続けた放置自転車みたいになっちゃうんだよ」
お父さんはそう言った後、右手の親指と人差し指で輪っかを作った後、左手でも同じように輪っかを作った。そして輪っか同士をくっつけて、無限大のマークのようなものを作って見せてくれた。
首を傾げた。自転車のつもりなんだろうか?
「指だけだと、なかなか難しい」不満そうな顔をしていた。
「つまるところ、使わないでいると錆びるんだ。ちょっと待ってね」
お父さんは、腰をごそごそと触って、財布を取り出すと、中からカードのようなものを取り出した。
「例えば、この運転免許証は何年経っても錆びない。まあ、数年おきに更新はしてるんだけどね」
そう言いながら、運転免許証の顔写真のついた面をこちらに見せてくれた。
「運転免許証というのは、設定されている有効期限内の間、車を運転する資格があることを証明するものだよね」
運転免許証の、有効期限と書かれている枠の端っこに、お父さんの人差し指が乗せられると、もう一方の端っこまで指が滑っていった。
「この証明証は、車の運転ができること以外にも、いろいろなことを証明してくれる便利なものだけど、どれくらいの頻度で車の運転をしているかは証明してくれていない」
端で止まった指は、今度はマス目上に仕切られた四角い枠の部分に移動していき、トン、トン、とつついた後、運転免許証から離れた。
「これは、免許取得後の細かい運転技術の推移までは保証してくれてないということにはならないかな? 車を運転しなければ、身につけた運転技術は少しずつ錆びついていく。最後は動かせなくなるかもしれない」
車は、免許を取っただけで、まったく運転しないから、少し耳が痛い。
ブレーキとアクセル、どっちが右だったっけ?
「だから、実務で必要になりそうなら取る感じかな」
「うーん。わかるような、わからないような」
感覚的にはわかった気がするけど、いまいち納得できないというか、うまく言葉に言い表せない。
「お父さん、その説明では足りないと思いますよ」
お母さんが会話に入ってきた。
「そうかな? 僕なりに頑張ってみたんだけど」
「『資格を持っているだけで、あまりできないことを正直に言えば、少なからずがっかりされるだろうし、無理に受け持って、もし自分が失敗したら、信じて頼ってきてくれた人に損をさせることになってしまう。だから、今の仕事で使う資格しか取らない』」
声の感じが似ているから、お父さんの声真似をしているのだろう。
「『資格は信頼の証だから』」お母さんが、右手の人差し指をピンと立てた。
「どうでしょうか?」お母さんが、お父さんのほうを向いた。わくわくしているように見える。
「微妙に違うけど、思った以上の答えだからこれを採用」お父さんは、手を合わせた。
「やりました。でも、どの辺が違うんですか?」
「内緒」というお父さんの返答に、「わかりました」とお母さんが即答。
お互いの考えてることを代弁するというゲーム?、を時々やっているのを見るけど、当たったところを見たことがない。当たったこと、あるんだろうか?
心なしか、お母さんの顔がショボーンとしているように見える。
「今回は自信、あったんですけど。阿吽の呼吸って難しいですね」
「えっ、阿吽の呼吸って、実際は前もって口裏を合わせておくものじゃないの?」
お父さんが驚いていた。
「それだと、根回しが上手い人達になってしまうじゃないですか」
あっ、また話が飛んでいきそう。それは困る。
「それって失敗が怖いってこととは違うの?」
とっさに思いついたことを言ってしまったけど、大丈夫だろうか?
「そうとも言う」お父さん、痛いところを突かれたような顔をしてないだろうか?
「でも、失敗から逃げることと失敗を防ぐことは別のことだと思うよ。
防げる失敗は防ぎたい。自分のためにも相手のためにもならないような失敗は、特にね」
いつになく真剣に言っているように聞こえた。
「お母さんは?」
「私? 私も、学生の頃みたいな定期テストはないですよ」
「お母さんは、資格は取らないの?」
「資格を取るの、面白そうですよね。資格を取るのが趣味という人もいるそうですし、いろんなことに興味を持って経験をすることは、とても良いことだと思います。
でも私の場合、そんなに多くのことをいっぺんにはできないので、どうしてもやりたいことに資格が必要なら、取ろうと思います」
「お母さんのどうしてもやりたいことって?」
「秘密です」お母さんは、自分の口の前に右手の人差し指を当てている。
「うーん、よくわからない」
いつの間にか資格の話になっていて、よくわからないまま、話が終わろうとしている。わかったようなわからないような。煙に巻かれてたような気分。
「それで良いと思う。わからないことをわかったふりするよりずっといい。わからないというのも、一つの答えだと思うよ」お父さんはにこにこしていた。
「今言ったのは、私やお父さんの考えであって、必ずしも正解というわけではないと思います」お母さんもにこにこしている。なんで、笑っているんだろう?
「人の意見や言葉を全部鵜呑みにする必要はない。必要だと思ったものを、自分なりに解釈して取り入れていけばいいと思うよ。
そうすれば、わからないと思っていたことも、わかるようになるかもしれない」
優しくも、厳しくも聞こえる。二人と話すと、いつもこんな感じで終わっていく。
「むしろ、僕達を参考にしないほうが良いこともあるかもしれないよ」
「笑い事じゃないですよ、お父さん。私も人のこと言えませんけど」
二人だけ、陽だまりの中にいるように思える。
「っと、お父さん、そろそろ出かけませんか?」
「そうだね、行こうか」
二人とも、席を立ち上がった。
「そっか。二人とも出かけるんだっけ?」
二人の格好が、いつもとあまり変わらないから、忘れてた。
二人の格好を、それとなく確認する。
ファッションに興味ないと、こういう時にこんがらがる。
「今日なんですけど、本当に一緒に行かないんですか?」
お父さんは、ジーンズに、青色の無地のシャツ。黒色の腰くらいまでのカーディガン。お父さんはいつも通りか。
行きたいといえば、行きたい。
「やめとく。そういう気分じゃないし。それにお母さん達のデートを邪魔しても悪いしね」
「デートじゃないです。一緒に遊びに行くだけです」
本人は隠しているつもりなんだろうけど、嬉しそうな雰囲気を隠しきれていないと思う。
「はいはい。惚気話はけっこうです」
こちらも同じようなカーディガンを羽織ってる。薄い赤色。
えっと、こういうの、ジャンパースカートだっけ? 淡い青の、ジャンパースカートの下に、オレンジ色のTシャツか。
「格好、いつもとあまり変わらないから、出かけるって言ってたのすっかり忘れてた。おしゃれとかしていかないの?」
「この格好、おしゃれじゃないですか?」聞いてくるわりに、不安そうには聞こえない。
「そういうわけじゃないと思うけど、普段も、そういう格好してない?」
「たしかにそうですね。でも、あまり派手なものは好きではないですし、自然なのが一番ではありませんか?」
それも一理あるけど。
もしかして、長年、夫婦をやっているとこうなっていく?
「うーん、なんていうか、デート用の服みたいなの、ないの?」
「例えば、どういう服ですか?」
「良い例えがないけど、いつもとは違う、ちょっと高そうな服装」
「そう言われても、お父さんといるようになってからは、そういうことはあまり気にしなくなりましたからね。好きな服を着れば良いと思いませんか?」
それもそうだ。少し、熱くなってたかもしれない。
「ごめん。お母さん達が良いなら良いのか」
人の服装に口を出すのもおかしな話なのかもしれない。
「はい、私とお父さんは、これくらい気楽なほうが良いんです」
頭ではわかっているけど、いまいち満足できていないのが、自分でわかる。でも、なんでそう思うのか、上手く言葉にできない。
それと、かなり前にも、こんなことがあったような気がするけど、思い出せない。
引っかかる。
何かが、噛み合わない。胸がドキドキする。
「話は変わるけど、どこに行くの?」
「電車に乗って動植物園に行こう、という計画になっています」
突然、変な感じがした。
すごく気持ちが悪い。何これ? 歯磨きをした時になることがある、オエッとなった時の感じに似てる。あれより、何倍も酷い。身体も変に冷たくておかしい。
お母さん達に悟られたくない。
手を口に当てて考えているように見えるように、手で口を押さえる。
「……動植物園か」
「それで、ですね。今日の夜なんですけど、外食でも良いですか?」
頷いた。
少し、治まってきた。
「夜までには帰る予定です」
「わかった。夕方くらいには家にいればいい?」
「どこかに出かけるんですか?」
「そういう予定はないけど、一応ね」
治まった、かな? 口元から手を離した。
「サンドウィッチを作っておきましたから、よかったら、お昼ご飯に食べてください」
「うん、ありがとう」
「レーズンパン食べていい?」
「どうぞ。たくさん食べてください」
感づかれないように、精一杯の笑顔を作って、首を縦に振る。
「行きましょうか、お父さん?」
「うん、それじゃあ、いってきます」お父さんが歩き始めた。
「いってきます」お母さんもお父さんに続いていく。
「いってらっしゃい」リビングを出て行くお母さん達の背中に、軽く手を振った。
二人が目の前からいなくなり、足音が遠ざかっていった。少しして、玄関の方から、二人の声が聞こえてきた。
「ねえ、さっきの話なんだけど、どうして内緒なのか知りたくない?」
「聞いたら教えてくれるんですか?」
ドアの開く音の後、程なくして二人の声が聞こえなくなった。
「ふー」ため息を出した。
すごく疲れた。良かった。ばれなくて。もしかしたら、今日は厄日かもしれない。占いとか、信じてないけど。
でもさっきのは、なんだったんだろう?
考えようとした時、お腹の辺りに違和感を覚えた。
お腹が減った。とりあえず、朝ご飯を食べよう。
席を立つと、パンを食べるためにキッチンに歩いていった。
キッチンのパンコーナーには、食パンの入った袋とレーズンパンが入った袋があった。
袋に入っているレーズンパンを出して、オーブントースターに入れて、ダイヤルを適当に回す。
いつも使うコップとお皿を、置いてあったトレイに乗せた。
最近は天気も良いみたいだし、後で気分転換に歩いてみようかな?
一瞬、お母さん達に付いていくべきだったかと思った。だけど、今は、一人のほうが良い。
あの二人と一緒にいるのが辛い。そう思う時が多くなってきている。なんとなくそう思う。
嫌いになったわけじゃないけれど、楽しそうな二人と一緒にいる時、急に苦しくなる。なんでだろう?
突然、冷水を浴びせられたような気持ちと表現すれば良いんだろうか?
そう思うようになったのはいつからだろう?
去年の春にはそうなっていたと思う。
二人の目をまっすぐに見られない。
チン、とトースターからタイマーの音が聞こえた。
トースターから熱々のレーズンパンを取り出すと、中々に香ばしい匂いがしていた。
冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いだ後、元あったところにしまう。
ついでに、冷蔵庫にサンドウィッチが入っていることも確認。
トレイと一緒に、ダイニングテーブルへ。
さっき座っていた場所に戻ると、コップに入った真っ白な牛乳を一口飲み、パンを一口食べる。
おいしいような、おいしくないような、よくわからない。
我が世の春のような二人が羨ましい。
二人がいなくなって、この部屋も静かになった。
静かになった。時計が時間を刻む音がやけに大きく響きわたっていた。
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