春のいとまで Sakura
壺多四季
1章 春の果て
1
遠くから、小鳥の鳴くような音が聞こえる。
意識が素早く引きずり出されるような感覚を受けたため、うとうととしたまま目を少しだけ開けると、最低でも毎朝一回は見ているであろう、おなじみの天井が入ってきた。朝がやってきたことを直感的に自覚した。
時間を確認しないと。
一心不乱に、枕元にあるはずの、手のひらに収まらない大きさの円形の物体を手探りで探す。
いくつかのものを掠めながら、目的のものと思われるものを手に取ると、顔の前に持ってくる。
定まりきらない頭で、見慣れた時計の文字盤にある二本の針の位置を見た。いつも起きるくらいの時間だった。
まだ眠い。でも、起きるべきだろうか?
はっきりとしない頭の中で、さっきまでいたところに戻りたいという思いと、せっかく目が覚めたのだから起きたほうが良いという思いが、交互に繰り返される。
起きるべきか、寝直すべきか。
寝よう。
枕元に時計を適当に置くと、誘惑に導かれるように目を閉じながら、横向きに丸まるような体勢になり、ベッドと掛け布団に挟まれた暖かそうな空間に潜っていった。
暖かい。ここに入ってどれくらい経つだろう? 十分は経っただろうか?
「眠れない……」
起きようかどうか、迷ったのが良くなかったのかもしれない。
いつまで経っても起きた直後の、できたての綿あめのようなまどろみが帰ってこない。春眠暁を覚えずという言葉があるけれど、自分には当てはまらないということなのかもしれない。
毎日決まった時間に起きられる。この体質には常日頃から感謝している。起床時間の5分後にセットした目覚ましに、起こされないで済む。
この体質のおかげで、焦って忘れ物をすることや遅刻をして他人に迷惑をかけることはほとんどない。
一日の始まりである大切な朝を、時間に追われずに、ゆっくりと気持ちよく過ごすことができる。余裕を持って、足取り軽く外に出ることができる。
時々、寝坊して慌ただしい朝を迎えることがあるけれど、そういう日は大抵、重いものを背負ったような気分で外に出ることになる。朝からそんな気分にはなりたくない。
昨夜の夜ふかしにもかかわらず、いつも通りの時間に目覚められる。捻くれ者と思っていたけれど、意外にまっすぐな人間なのかもしれない。
ただ、機械ではないのだから、こういう融通の利かないところはなんとかならないだろうか?
次の日に何も予定がないのなら、ゆっくり寝ていたい。夜更かしした次の日はそう思う。今はゴールデンウィークだから余計にそう思う。
本当は、夜ふかしをしないで済むのが一番良いんだけど、いろいろな理由で夜ふかしをする必要が出てきてしまう。
一応、夜ふかしをする日は余裕のある時にするように心がけているのだから、身体の方もそれに応えてほしいところ。寝過ごすのを見越して夜ふかしをしたのに、少しだけ目論見が外れた。
「……うーん」
ちょっと不満が多かったかもしれない。身体だって頑張っているのだから、貶すばかりでは良くないと言われたことを思い出した。身体さん、ごめんなさい。
「ふぅ」ため息が出た。
何、やってるんだろう。こんなことで長々と時間を食っても意味がない。予定より早く起きてしまったからといって、今日一日が潰れたわけじゃない。むしろ、予定より多くの時間が使えると、良い方向に考えるべきなのに。
とりあえず、少し深呼吸でもして落ち着こう。
横たわっている身体を、仰向けに変えた。
吸って、すー。吐いて、はー。吸って、すー、吐いて、はー。
少し落ち着いた。
さてと、これからどうしようか?
目は覚めているけど、身体が少しだるい。
片手の人差し指を、もう片方の手のひらで包み込むと、軽く揉んだ。
そういえば、小さい頃は夏休みに変なストレッチ番組をよく見ていた。
『みんなでストレッチだ!』だったかな?
たしか、そんなような掛け声を毎回言っていた。
主役の人の特徴的な振る舞いが印象的な番組で、
なんで変な格好をしているんだろう?
あんな格好で外に出て恥ずかしくないのかな?
と、子供ながらに不思議に思っていた記憶がある。
懐かしい。あの頃は楽しかった。
「みんなで、ストレッチだ!」小声で口ずさんだ。
ストレッチの内容はまったく覚えていないから、適当にやろう。あと、寝ながらできるものにしよう。
右手の親指から順番に一本ずつ、数字を数えながら折り曲げていく。いーち、にーい、さんー、しー、ごー。
左手も親指から順に、いーち、にーい、さーん、しー、ごー。
手の力を緩めて、パーの形に戻した。心なしか、指が動かしやすくなった気がする。
よくわからないけど、心地よい。
次は寝たまま屈伸運動。
足を曲げたあと、ゆっくり伸ばしてみる。なんとも言えない開放感があった。
曲げて、伸ばしてで一回として、とりあえず、五回やってみよう。
数を数えながら、足をゆっくりと曲げた後、緩やかに伸ばす。
いーち、にーい、さんー、しー、ごー。
最後にお腹の上に手を置いて深呼吸。
吸って、すー。吐いて、はー。吸って、すー、吐いて、はー。
身体がベッドに沈み込んでいくように感じられる。
心地よい疲れとやり切ったような達成感。頭が澄み渡ってきているように思われるし、身体のだるさも軽くなった気がする。
即興だったけれど、なかなか良かった。朝にストレッチを欠かさないと言う人の気持ちが、ほんの少しわかったかもしれない。
気持ちもリフレッシュできたし、とりあえず、ベッドから出ますか。
全身に力を入れて起き上がる。見える場所が天井から、この部屋の一角に変わる。視界の隅に、本棚が映っていた。
首を動かして、本棚を見つめる。参考書、漫画、小説。後、絵本も少しある。絵本なんて買ったことあったかな?
本棚の本の背表紙の名前を、横向きに滑るように追っていく。歯抜けになっている参考書のスペース以外は、他は順番通りに並べられている。人差し指で今みたいに背表紙を滑らせていったら、楽しいかもしれない。
ベッドの上で体育座りをした。首を回すと、ゴキッと、音が鳴った。
歯抜けの箇所に入る本が置かれているはずの、いつも使っている机に視線を移す。
机の上には、ペンケースと参考書の数々が綺麗に積み上げられている。
積み木遊び。
綺麗に並んでいるのは良い。
物事に対して、どういう風に接するべきかが見えてくるから、迷う時間が短縮される。物事がはっきりしていれば、最善と思われる方法で対処ができる。トラブルなくスムーズに進めていける。
他の人はそうは思わないんだろうか?
物事が整理されていないままで平気なんだろうか?
そんな状態で、最善の選択ができるんだろうか?
なんで、あんなに簡単そうに決められるんだろう?
ちゃんと考えているんだろうか?
それとも、頭の回転が速い人ばかりなのだろうか?
間違っているんだろうか? 細かすぎるだろうか?
たしかに、細かいことを気にしすぎなのかもしれないと感じる時もある。でも、きちんと理に適っていなかったり、それで言い争いになるのが嫌なだけ。できる限り、正確に捉えて、適切に対応する。
そうすれば、無駄な争いは起こらないはず。おかしいだろうか?
膝の上に顔を埋める。目を閉じる。こうすると落ち着く。
前に、自分と他人は違うものだと考えたほうが良いと言われた時、頭では理解できた。
ものの感じ方は人によって違うのだから、仕方がないと割り切ったほうが賢明なんだろう。
でも、そんなに簡単に割り切れない。意見が合わないのは別に良い。詳しく知ろうともせず、一方的に怒鳴りつける人が許せない。
そういう人を見ると、一つのことしか考えられないようになって、目の前から消し去りたくなるような気持ちが燃え上がってくる。
なんとなく、集中している時や、頭に血が上った時のような、無我夢中の状態に似ていると思う。
燃えている間や終わった瞬間に、すごくすっきりするところはそっくりだ。
決定的に違うのは、ことが終わって振り返り始めると、どんよりと粘ついたものが引っかかったような感覚に襲われるところ。
気持ちのよいものじゃない。
地面にいる蝉を、気づかずに踏み潰してしまった時のような、思わず顔をしかめてしまうような感じに似ていると思う。
何度、燃え上がらないように注意しても、実際に怒鳴らないように抑えるのが精一杯で、感情が起こらないようにはできたことがない。
そんな自分が思い出される度に、怒鳴っている人と大差ないのだと言うことを、嫌でも自覚させられる。
もう二度と、したくない。
なんで、他人に対して憤りを感じるんだろう?
なんで、素通りできないんだろう?
何を、正したいのだろう?
こういうことを思い出したくない。思い出される度に気持ちが沈んでしまうし、身体や心が痛い。
どうすれば、思い出さないようにできるだろう?
何も予定がない時、一人で電車に乗っている時。ちょっとした合間に、隙間を縫うように、頭の隅に現れる。意思に関係なく湧き上がってくるのだから、対処の方法がわからない。
どうすれば、考えないようにできるだろう?
自分で自分が制御できない。
もっと楽しいことを思っていたい。
さっきのストレッチもどきや、自分が最高に満足できることができた時。
同じ無我夢中でも、こっちは、もっとさらっとしていて、川を流れている透明な水のように引っかかりがない。
こういう思い出ばかりならきっと、気分が上がってやる気がでるし、身体や心も軽やかになる。すごく楽しい毎日を送れるのだろう。楽しい思い出だけに囲まれていたい。
目を開ける。これで何度目だろう? 同じことの繰り返し。答えが出ないまま、終わる。意味がない。
朝ご飯、食べにいこう。
ベッドから降りると、部屋の出入り口に向かって、歩いていく。
考え始めると他が疎かになるからやめたい。やめたいのにやめられないというのは、もしかしたら癖?
こういうのも、自傷癖、に入るんだろうか?
もしそうなら、病院で診てもらって、必要なら治してもらわないと。病院、苦手なんだけどな。
ドアの前に着くと、ドアレバーを動かして、後ろに引く。開かれた隙間を通って、部屋を出る。
でも、なんて言えば良いんだろう?
前を見たまま、閉めたドアを横目で見ながら、一階に続く階段の手すりに手を乗せる。
あっ、カーテン開けるの忘れた。まあ、後で開ければ良いか。
指を手すりに滑らせながら、止めた足をもう一度動かすと、段差を下りていった。
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