赤く染む・2


「ギルトラント様、今日は本当のお母さまの立派な姿を見にいきましょう」


 乳母の言葉に、小さな皇子はよくわからないようなそぶりをした。赤い瞳がコロコロと表情豊かに話し出す。

 乳母は自分が母親ではないこと、本当のお母様である皇女様がどれだけ立派な方であるかを、皇子に話した。しかし二歳の皇子には深い理解はできない。


 でも、それでいいのだと、乳母は思った。

 この子はまだ小さい。生まれてすぐ亡くなった自分の子供の代わりにここまで育ててきた。

 今となっては本当の子供のように思う。おぼろげに本当の母の話を覚えていればそれでいい。

 今は私が母でもいい年齢だ。ずっとこのままでいてほしいが、それは無理。

 せめて今だけは、私が母。




 乳母と皇子は王宮そばの道脇でパレードを待った。

 皇子のかわいい手には小旗が翻っていた。モアはさらにその先で、パレードを迎え入れる重役を担っていた。

 小さな皇子に時間は長すぎた。退屈し、旗をちぎってみたりかじってみたりした。

 パレードのえらい人が本当の母様……。

 そう思うとドキドキしてきたりもした。

 でも、母様はここにいるじゃないか。

 今度は乳母の腕にぶら下がったりして遊んだ。


 やがて遠くからラッパの音が聞こえてきた。

 見ると、角笛を吹きながら行進する兵士、そして後ろに黒い馬にまたがった立派な兵隊たちが続く。

 そしてその中央に火のように燃える鬣の馬に乗った武人がいた。黒い兜の間から紐で編みこんだ真っ赤な髪がのぞいている。きつい眼差しも、赤く火のように鋭く熱い。たなびく白いマントが、他の武人よりも位が高いことを証明していた。

 皇子は、今度は乳母の腕によじ登ってみた。しかしあまりよく見えない。皇子は興奮した。飛び降りて、人の隙間を塗って前に出た。それ以上、前に出られないと知り、今度はピョンピョンはねてみた。

 あれが母様かな? でも見えない。

 威風堂々と行進する騎士団の中で、ウーレン皇女・ジェスカほど、激しいオーラを発している者はいない。皇女の偉業をたたえる旗が、凱旋門から王宮まで、ひっきりなしに振られている。

「ウーレン万歳! ジェスカ皇女、万歳!」

 市民たちは、畏敬の念を持って、皇女をたたえた。まさに皇女は、ウーレンをかつての大国に戻せる人物、我々の希望! 人々の興奮は高まった。


 乳母が油断した一瞬の隙であった。

 人の渦に押されて何も見えなくなった皇子の気持ちは、前へ前へと押し出され、ついに皇子はパレードの皇女の前に飛び出してしまったのだ。

 皇女の馬は急に止められた勢いで後ろ足立ちした。黒馬の武人たちが皇子を囲み、槍で威嚇した。

 一瞬にしてパレードに緊張が走り、角笛隊も演奏を中断した。

 いきなり大人たちに囲まれて、小さな皇子は大きな声で泣き出した。


「うわぁぁん! 母様ぁ、母様ぁあああ!」


 皇子の手には、皇女をたたえるための旗が、もうズタズタになって握られていた。さらに涙やら鼻水やらでぐしょぐしょになり、皇子は邪魔くさくなって、地面に投げ捨てて泣き続けた。

 やかましい子供の泣き声に、皇女が怒り狂わないはずがない。

 皇女は憮然と槍を子供の胸元に押し付けた。槍はかすかに子供の胸元を傷つけ、服に血をにじませた。

 苛立っている普段の彼女なら、子供は突き殺されていたに違いない。しかし、さすがにウーレンの血を濃く出している子供には興味をそそられ、皇女は寸でのところで手を止めたのである。


「申し訳ありません!」


 周りの人の静止を振りきり、乳母が皇女の前に飛び出した。

 地面に頭を摩り付けながら乳母はぶるぶる震えていた。

「この子はおまえの子か?」

 皇女が鼻で笑うように聞いた。これは機嫌が直ったのだろうか? それとも……?

 乳母はすぐには応えられなかった。

「同じ事を何度も言わせるのか!」

 皇女はいきなり爆発したように叫んだ。

 あまりの恐ろしさに乳母は頭を地面に擦り付けたまま、後ずさりしながら叫んだ。

「も、申し訳ありません! こちらの御子は……こちらの御子は!!」

 皇女の目に嫌悪の光が走った。子供の正体がわかったのだ。

「同じ王族の血を引きながら、なんと情けない子供じゃ! 人前で泣き叫びわらわに恥をかかせおって!!」

 激しく叫んだので、皇女の馬は驚いて再び立ち上がった。

「皇女さま! ギルトラント様はまだ二歳でございます!」

 乳母がはじめて頭を上げ、皇女の顔を見て叫んだとたん、乳母の喉もとを皇女の槍が突いていた。さすがに王族の血を人前で流すわけにもいかず、行き場を失っていた矛先が、いい的を見つけたのである。

 乳母は目に涙をためたまま、絶命した。

 泣きじゃくっている皇子の前に倒れた乳母からは大量の血が噴出した。

 皇女は血を見て、ニヤリと笑った。


「母様、母様どうしたの?」


 死という概念を持たない皇子は泣き止んだ。

 いつもは泣いていたら抱きしめてくれる母が、いつもと違う反応をした。

「眠っちゃったの?」

 噴水のように噴出す血に、ギルトラント皇子の顔も手も服もすべてが血に染まっていった。

 今となっては母ではないものが、生温かいぬるぬるした液体が、皇子を抱きしめている。

 この温もりは慰めなのだろうか、それとも……。

 堪え兼ねる子供の泣き声が止み、抑えきれない苛立ちも収まり、皇女は満足した。

「こやつは育て方を間違ったのじゃ……」

 冷たく皇女が一言つぶやくと、パレードは何事もなかったかのように王宮を目指した。



 やがてパレードが終わり、掃除係がまるでゴミでも拾うかのように、乳母の屍骸を始末した。

 それまで皇子は血の海の中で母が起きるのを待っていた。泣き叫ぶわけでもなく、起きない母に声をかけるでもなく、ただ、じっと、血だらけになって座っていた。

 モアはこの惨劇を知ってゾッとした。

 皇子に乳母が死んでしまったことを、どのように理解させればいいのだろう? そして、槍で乳母を一撃にして去ったのが本当の母だと教えていいものなのだろうか?


 死は悲しいものなのだ。

 血を浴びることは虚しいことなのだ。


 ウーレンの血は、本来勇猛果敢な血であり、残虐さが本質ではないはず。それを皇子に教えてあげたいが、皇女の行いを否定することはできない。

 同じウーレンの特徴を持つ二人。同じウーレンの血を分けた母と子……血が支配する心も、おそらく似ていることだろう。

 皇子もやがて母と同様に血にまみれることを快感とする日がくるのであろうか?

 愛するべき人の血にまみれて、笑って去る日がくるのだろうか?

 今は何もわからず、愛する人の血で染まって、きょとんとしている。




 ギルトラント皇子は、その後わずか五歳にして、留学という名目で、ウーレンから遠くにあるムテ族の学び舎に入れられた。さらに、三年後、リューマ族長諸国・さらに二年後には、はるかに遠い大学都市ミライへと流れていった。

 ミライの周りはすでにウーレン大国の息どころか、ウーレンを知らない者さえいる辺境である。人の大陸とも近い距離にあり、純血な魔族などほとんどいない。

 古の時代、魔族と人間族が海を挟んで戦った……その砦の貴重な遺跡を中心に、歴史を研究するために特別な純血種の都市として、ミライはウーレンと敵対する第一リューマ国の中にポツンと残されていた。

 学問のためとはいえ、いわくつきで行き場のない純血種貴族が追いやられる場所でもある。

 政治的な思惑も絡んで、敵が内輪の敵から身を守ってくれるのである。

 母との確執を避けるモアの計らいであった。


 しかし、モアの想像する以上に、皇子はウーレンの血、ジェスカの血をひいていた。

 成長するにつれ、皇子の容姿は皇女そのものに変わっていった。

 鏡に映る自分を見るたび、皇子はあの日を思い出した。

 自分を包み込んでくれる温かい母の腕、いや、生ぬるい血。ぬるりとした感触。血の香り。

 鏡の中に……母がいる。

 燃える髪の燃える目の、本当の自分の母。母が自分にくれたものは、胸元の傷と心の傷、共に激しい痛みを伴う。

 皇子はどんなに遠くに離れても、実母への思いを忘れられなかった。

 それは、多分憎しみという思いであった。



=序章・終わり=

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