エーデムリング物語
わたなべ りえ
序章
クレセント・ムーン
新月を過ぎて間もない夜。
けたたましい女の悲鳴がイズー城内に響き渡った。
異様に風のない夜だった。
突然の来客は、遠方からの重要な者だという。要人に会うには夜は遅く、城の空気は淀んで重く、不穏だった。
あまりに簡単に謁見を許した王に比べ、王妃は不吉な予感をもった。部屋で待つよう言われたが、静かに流れる時間に耐えきれず、王の元へと向かった。
謁見の間の入り口に王妃は立ちつくした。
そして、悲鳴をあげたのだった。
まったく無防備であった彼女の夫は、床に伏する事もなく、心の臓を一突きにされ壁に打ち付けられ、無残な姿をさらしていた。
王がなぜ、角より発する不思議な力で、敵の殺気を察知できなかったのか、聞き出すすべはない。顔色はすでに銀白色の髪の色よりも白く変わり、命はとうにつき果てていた。
その周りにはいくつかの人影……遠方からの来客と……。
王妃に夫の死を悼むひまはなかった。
「
王妃の甲高い悲鳴とは対照的な、低く短い女の声。
壁に掛かった灯に照らされて、女の髪は燃えるように赤かった。恐怖に
女が命じた兵士の動きは素早かった。だが、命の危機に王妃の動きも素早かった。いつもの彼女にはありえないくらいに。
ここで、敵の餌食になるわけにはいかないのだ。
突き出された槍の穂先は、ぎりぎりのところで王妃のローブが受け取った。真綿の詰まったシルクのローブを身代わりにして、王妃は一目散に逃げ出した。
風が立った。
城内に一陣の風が突き抜けた。
王妃の悲鳴は、城の衛兵を呼び集めるのに役立ったが、その衛兵の方はあまり役には立たなかった。
駆け上がる螺旋階段。敵兵にいとも簡単に殺されていく衛兵たちの悲鳴が響く。惨劇のさまを見ることなど王妃にはできず、ただ息を切らしながら逃げるしかなかった。
城のいたる所に隠し扉があり、外部に逃げる抜け道もあった。永遠に平和が続いていると思われたこの国にも、過去は戦いがあったのだろう、古くからある城は堅牢で防衛に優れ、籠城にも逃走にも適していた。
しかし、衛兵の方は違う。平和の時代が、彼らを装飾品に変えていたのだ。
華やかな武器は
殺戮の技に優れた敵は、新月の闇を、城の作りを、地の利あるはずの衛兵たちよりも巧みに利用した。
たった一撃で勝負がつく様を、王妃は隠し扉に隠れ、ただ口を抑えて見ているしかなかった。悲鳴をあげてしまったら、この衛兵の死は無駄になる。床に広がる血の海に怯えながら、敵が他の血を求めて去るのを、扉の裏から待つしかなかった。
そう、この国は、実に長く平和だったのだ。
風が舞う。
城から逃げる抜け道がある。ここを通れば、王妃は助かるかも知れない。
だが、彼女は迷うことなく寝室に向かった。そこに彼女の宝であり、夫の死後、間違いなく敵が欲するだろう存在があったからである。
寝室に敵の姿はまだなかった。この状況下で、まったくの奇跡としか言いようがなかった。
王妃は、まだ自分の運が尽きていないことに感謝して寝室に入ると、三重に鍵をかけた。平和な今まで使ったことのない大きな錠である。
これでほんのしばらくの間、敵兵に怯える必要はなくなった。
が、ほっとする間もなかった。
寝室のベランダから見える夜空は、糸のように細い月があがったばかりだというのに明るすぎる。
城下はすでに火に包まれていたのである。
この国は、王のもつ不思議な力の結界で守られてきた。
王があのような最期を遂げたことで、結界は見事なまでに破られた。城下が敵の手に落ちるまでの時間はかからなかった。
だが、どうして? こうもいとも簡単に?
王の結界は、国に敵を入れない。命を狙おうとする刃は、魔の力が砕くはず。
それが、一体どうして?
風が強く吹いた。
城下に、火の粉が舞う。火が民家を舐めて広がるのを、ただ見ているだけしかない。
もはやこの部屋の抜け道を通って逃げるのも無駄。どこにも逃げる場所はない。
王妃の絶望を察知したかのように、ベッドの赤子が泣き出した。まさに彼女の宝・そして、王亡きあとは、この国の宝でもある。
崩れかけた彼女の気持ちを母性が支え起こした。ベッドの我が子を抱き起こすと、赤子はすぐに泣き止んだ。生まれて間もないというのに、天性の才能なのだろうか? 敵に声を聞かせないかのように、今の状況を把握しているかのように、赤子はおとなしく母に抱かれた。
子供に頬を寄せながら、王妃は思いをめぐらせた。
ほんのわずかな時間にもかかわらず、夫との平和で幸せな毎日が走馬灯のように駆け巡った。そして最後に、見るも無残な夫の死を目の当たりにしたことに戦慄した。
この子だけでも逃がす方法を考えねば……。
その時、扉を強く叩く音がした。追っ手がここをかぎつけたのだ。
王妃は赤子を布でくるむと自分の服の帯をはずし、ぐるぐる巻きにした。赤子はもう泣くこともなく静かだった。締め付けすぎて、息ができないのではと心配にはなったが、もう時間はなかった。
扉はドーン、ドーンと体当たりする音がし、ミシミシ揺れ出した。
彼女は赤子を抱いてベランダに飛び出した。
「ガルガ!」
心を込めて声を張り上げて王妃は鳥の名を呼んだ。
パーンと扉の鍵が一つ飛んだ。しかし、彼女は気にしなかった。扉は敵兵の姿がちらちら見えるほど、破壊された。
扉が壊れるか、三つの鍵が全部飛ぶか、今となってはそのどちらかを見定める気は毛頭ない。扉には目もくれず、彼女はひたすら心を込めて鳥を呼びつづけていた。
細い月が、一瞬、何かにかき消された。
バササッと羽音が響いた。
ゆっくりと、しかしまっすぐに大きな鳥がやってきた。
ムンク鳥と呼ばれる鳥は、羽を広げるとベランダを覆い尽くすほどの巨鳥である。知能が高く心話で会話も可能なこの種族は、古代王家に能力を与えられ、以来王家に使えている。
「ガルガ!」
王妃は最後の望みを、この忠実な僕に託すことにしたのだ。
しかし、いかにムンクが大きな鳥とはいえ、人を遠くまで運ぶ力はない。王妃は華奢ではあるが、せいぜい城の外に連れ出せる程度だろう。火の海の向こうまでは、到底かなわない。
鍵が飛んだ。と同時に扉がバラバラに砕け、兵士が飛び込んできた。
一人、また一人と敵兵が寝室に踏み込んだ。
槍を持った兵士が土足でベッドを踏みにじり、槍で枕を二度三度突いた。若い二人が甘く愛を語り合ったベッドは、無残に汚され、白い羽毛がヒラヒラと舞い散った。
剣を持った兵士がベランダに向かった。
糸のように細く輝く月の光の中、狙うべく王妃の姿があった。
王族特有の銀の髪は床に届くほど長く、ローブはなく、帯もはずし、薄羽のような服は、月の光にかすかにすけた。
あまりの美しさに、兵の手は止まった。
王妃は月に向かい、手を広げていたところだった。
兵士の目には、月に逃げ道を見出そうとしているようにも、月に命乞いをしているようにも、敵を呪って祈りをささげているようにも見えた。
しかし、同時に繭玉のような物が、宙に舞い上がった。
あれは何だ? と兵士が思う暇もなく、繭玉は、一瞬月の光に反射して輝いたかと思うと、漆黒の闇に吸い込まれていった。
次の瞬間、別の兵士の槍が王妃の背中を突いた。
槍は王妃の胸から突きぬけ、白い乳房を血で染めた。彼女はその場に崩れるようにして倒れた。豊かな銀の髪が、鮮血を吸って赤く染まっていく。
槍の兵士が、呆然としている剣の兵士に、最後の仕事を促すように合図を送った。
任務を思い出し、しかし気乗りしないながらも、銀の髪に指を絡ませ、王妃の頭を引き上げて、剣を喉元に当てたとき、剣の兵士は、意外にも穏やかな王妃の顔に驚いた。
それは、細い月明かりが見せた幻の表情だったかも知れない。
兵士は剣に力を込めた。
この夜、世界でもっとも古いとされる魔族の、古代からの不思議な力を持つという王族の、もっとも純粋な血筋が途絶えた。
王妃が空に向かって投げた最後の希望、鳥が空中で受け取った赤子を除いての話であるが……。
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