7話 山暮らしの朝は、東の空が白み……



 山暮らしの朝は、東の空が白み、景色に色が灯される夜明けとともにはじまる。


 窓からさしこむ陽の光を浴び、寝台から抜け出す。まずは腕立て伏せを百回。スクワットを五十回。魔法使いをやるのにも、この土地で暮らすのにも、筋力があって損はない。


「よし」


 両側から頬を叩いて、気合を入れ直す。今日も良い朝だ。


 続いて、真っ黒の法衣を身につける。髪も瞳も真っ黒な俺をみて、いっそ肌にも炭を塗ったらどうだと師匠は笑ったものだった。さらに、魔法使いの証として銀の鎖を首にかける。


 居間に出ると、無人だった。師匠の使い魔は自由な連中だから、今日も好きな場所で思い思いに過ごしているのだろう。


 チリコは……まだ寝ているのか。使ってもらっている師匠の寝室の扉は、閉ざされたままだ。


 すぐに火精石と糸くずをつかって火を起こし、小鍋に湯を沸かす。干した香草を入れて煮立たせ、蜂蜜漬けのレモンをたっぷりすくってひと混ぜ。いい香りのする薬湯のできあがりだ。


 大抵、この匂いにつられて師匠は起きてくるものだが――。チリコは沈黙を保っている。中々の強敵だ。昨日も、「お腹減らない」の一点張りで、腕をふるって作った夕食を食べてくれなかったのだった。俺は泣きながら二人分食べた。


 それはそれとして、薬湯を飲んで身体を温める。今日のは特に出来栄えがいい。チリコの分も、カップに注いで置いておこう。


 外に出ると、途切れることなく続く山の稜線と、からりと晴れた冬の空、頭を冴えさせる冷たい外気に迎えられる。水桶を手にとり、まずは森の湧き水がある場所へと向かう。


 師匠が住まいとして選んだこの土地は水が豊かで、少し歩けば小川があるし、母屋と畑にある井戸は潤沢に冷たい水を補給してくれる。ただし、俺たちが直接口にいれる病にかかりにくい澄んだ水は、ここから毎朝もらっていくのだ。


「よっと」


 岩の間から流れ出す水の流れの下に桶を置く。いっぱいに溜まるまで、落ち葉を踏みしめながら待っていると、視界の外れに赤いものが入った。


「おお……これは」


 そこで得た戦利品をいくつか布袋にしまって、重たくなった水桶を肩に担ぐ。これはあまり好きではない重労働だが、生きるためだから仕方がない。


 母屋に戻って水を樽に移し替え、いくつかの朝の作業を済ませる。いまは師匠がいないから、ひとつひとつが責任重大だ。一歩間違えれば来年はチーズが食べられなくなったり、パンと採集物だけで過ごすことになってしまう。


 母屋に戻った俺は、居間を見渡した。

 テーブルの上に、すっかり冷めた薬湯のカップが手付かずで置いてあった。


「…………」


 俺は、奥の扉を見た。閉じたままだ。

 周囲を見回す。だれかがいじった形跡もない。

 そして窓の外の日の高さを確認する。夜明けから、ずいぶんと時間が経っている。


 じわりと、背中にいやな汗がしみだした。


 ――まさか、チリコのやつ、人生を転落したあげく見知らぬ場所にやってきて、世を儚んで自殺なんて――。


「おい、チリコ!? 生きてるか!?」


 師匠の寝室の扉を蹴り破り、中を確認する。


 息の根も凍るような緊張のなか、俺が見た先に――チリコはたしかにいた。

 ベッドのシーツに顔を押し付け、身体を丸めて横たわるチリコが――。


 その胸は、俺の心配をよそにゆっくりと上下している……のだが。


「あ」


 息を呑む。先ほどとは違う寒気が全身を伝った。


 おそらく衣服を着たままでは寝にくかったのだろう。紺色の上衣とスカートが、椅子にかかっている。ずれた毛布から覗くチリコの衣服は、なんというか、うむ――。


 そのとき、ぱちりとチリコが眼を覚ました。


「い、いや、待て。違うんだ、死んでるなじゃんいかって思っ」


 俺はそこまでしか言わせてもらえなかった。痛罵とともに飛んできた固い木の椅子が顔面にぶち当たり、鼻血を手で押さえながら退散する羽目になった。


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