6話 逃げなくてはならない。戻らなければならない……



 逃げなくてはならない。戻らなければならない。

 知らない匂いのする土の道を走る。すぐにローファーは泥に汚れ、水たまりを踏むと白い靴下に染みがついた。


 けれども、はやく。はやく帰らないと。

 急いで、取り戻さないと――。


「おおっと。ここから先はおすすめできないですにぃ」


 ***


「――で、チリコ。突然どうしたんだ。外は危ないんだぞ」

「左様です、チリコ殿。このような山奥、結界の外で日が落ちれば、身動きがとれなくなります」


 母屋へ連れ戻したチリコは、暗黒竜ドヴォルザークがアップルパイでお手玉しながらやってきたのを目撃したような顔つきをしていた。


「なんで……犬がしゃべってるのよ……」


 ラズグリーは、ぴくりと耳を動かし、澄んだ翠色の瞳を瞬いた。


「……チリコ殿。もう一度、犬、と呼ばわっていただけますか。もっとこう、蔑む感じで」

「おまえはちょっと黙ってろ」


 大柄な白狼を押しのけてチリコの顔を覗きこむ。


「なあ、教えてくれないか。俺たちは、本当におまえに危害を加えるつもりはないんだよ。なのに、どうしてそんなに怖がってるんだ」

「……だって、わたし……」


 チリコは、銀色の直方体を握りしめ、消え入りそうな声で途切れ途切れに言った。


「こんな変なとこ……はやく、帰らなきゃ」

「それは無理ですにぃ」


 ひょいと、チリコの前に小柄で細身の人型が顔をだした。


 少女のようにくすくす笑うその顔立ちは、あくまで中性的。大きな瞳と、杏色の鮮やかな短髪、尖った耳、ぴったりと身体を覆う短衣に、道化のように短いスカートを腰に巻いている。身長は俺の胸下ほどしかなく、肌は絵の具を塗ったように白く、ひと目で人間でないことがわかる。


 <妖奇師>イルイル――師匠の使い魔のひとり。妖精の眷属である。


「きみが通ってきたそこの鏡の門は、もう閉じてしまったですにぃ。もっかい開いても、つながる先は別の空間。ご主人ならなんとかするかもしれませんがにぃ?」

「…………な、なによ、あんた」


 チリコは、イルイルの物言いよりも、その出で立ちに恐怖したようだった。さきほども、こいつは行く手を塞ぐように現れたイルイルを見て悲鳴をあげて転んだのだった。妖精なんて、子供のころ一度か二度は見たことがあるだろうに。


「あ、あなたも、こんなやつらの仲間なの? もしかして、化けたりなんかするの?」


 疑惑と怖れのこもった眼差しが俺に向く。まさか、俺たちが頼りないとでも思っているのだろうか。俺は、胸を張った。


「もちろん俺だって魔法のひとつやふたつ、使えるぞ。ちょっと待っていろ」


 部屋の隅の籠から、黒ずんだ石ころを取り出す。毎晩の内職の成果品だ。

 握った石をチリコの目の前に差し出して、軽く親指でこすると、ポッと小さな火がついた。


「どうだ。俺が作った火精石だ。便利だろう」


 石ころに魔力をこめて作ったもので、街に降りたときに売ると小遣い稼ぎになるのだ。

 ところが、チリコは大した反応をしてくれなかった。ぼそっと「ライター……」などと謎の単語をつぶやき、そして疲れたように顔を手で覆った。俺はいたく傷ついた。


「…………こんな腐ったナルニアみたいな世界、信じろってほうがおかしいわよ。地の果てみたいな山奥でしゃべる犬と変な妖精とコスプレ男に囲まれるなんて……」


 チリコはよくわからないことを言いながら、よろよろと椅子に腰掛ける。どうやら落ち着いてくれたらしい。俺はひとまず胸をなでおろす。それにしても、俺の火精石、絶対に欲しがると思ったんだけどな。


「イルイル。この鏡はお前の魔法でも動かないのか?」

「お手上げですにぃ」


 イルイルは使い魔でありながら、高位の魔法使いでもある。その本人がこう言うのだから、チリコを帰すには師匠を待つしかないのかもしれない。


「すぐには、帰れないのね」


 暗い口調で、チリコが言った。


「急ぐ理由があるのか?」

「…………」


 チリコは答えなかったが、俺には想像ができた。娼館は、脱走者に厳しい。何日も帰らなければ、鞭打ちや、もっとひどいことだって……。

 ぞくりと背筋が冷えた。チリコが辛そうな顔をするのも当然だ。考えるだけで、胸が締め付けられる。


 よし。俺は、決めた。


 師匠が帰ってくるまでに、チリコにここでとびきり良い生活をさせてやろう。チリコが、元の世界に戻る必要などないと気づかせるのだ。

 そもそも、チリコの発言には引っかかることばかりなのだ。ここにはなにもないとか、奇妙とか変とか田舎とか。この土地の素晴らしさを、わからせてやらねば。


 ひとつうなずくと、俺はチリコに手を差し出した。チリコは怪訝そうに俺を見あげた。


「まずは腹ごしらえだ。いいものを作ってやるから、楽しみに」

「お腹は減ってないから、いい。一人になりたいの、さっきの部屋を使ってもいい?」


 一分後、ばたむ、と扉は閉められ、俺は使い魔たちとともに取り残された。


 道は、非常に険しそうであった。


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