悪い酒

 本課の対策会議から戻った仙道が監視班員を召集した。「朗報って言えるかどうかわからんが、夜間パトロールチームが本格的に組織されるそうだ。本課は十月から大幅増員だそうだぞ」

 「大幅って何人ですか」喜多が聞き返した。

 「十二名、そのうち県警からの出向が四人だ。四班編成で連続夜パトを実施するそうだ。新車も四台買うんだとよ。どこにそんな予算があったのか驚きだな。こっちは鉛筆一本だって事欠いてるってのに」

 「すごいですね。四班あれば二班が毎夜回って二班が休むシフトを組めますね。僕もそれが最低の体制だって思ってたんです」伊刈は冷静に喜んでいる様子だった。

 「確かにそういう計算なんだろうな」

 「なんかうちの存在がかすんじゃいますね。昼パトじゃ活動中の現場に踏み込むチャンスはそうないですからね」遠鐘が言いにくいことをはっきり言った。

 「そんなことはない。昼間のパトをがっちり固めるのも大事だし、できる範囲でうちも夜パトをやるぞ」

 「十月からですね」伊刈が気合を入れるように言った。

 「それにしても夜パトが必要だって提案は何年も前から俺がやってたのに、鎗田のアイディアってことになっているのが気にくわんな。お前だって宮越よりも先に夜パトが必要だって進言してただろう」

 「本課に手柄を奪われるのは県庁でもよくあることです。それに技監が提案されていたのは前の市長の時代でしょう。しょうがないですね」

 「なんだ腐らないのか」

 「とにかくチームゼロのお手並み拝見です。せいぜい足を引っぱらないようにしましょう」

 「おまえにしちゃあ案外謙虚なこと言うじゃないか」

 「それより警察官が四人増員というのは驚きましたね。今二人ですから本課だけで六人てことですよね」

 「チームゼロは県警の体制が整うまでのつなぎって感じもしたな。ゆくゆくは警察の捜査体制の増強があるみたいだったな」

 「なるほどあくまで警察中心で不法投棄をやっつける方針ですね」伊刈が意味深長な発言をした。

 ちょうどその日は東部環境事務所の納涼会が開かれる日だった。例によって上野屋の二階の座敷に事務所の職員総勢十一人が座卓を囲んだ。チームゼロの発足が発表されたばかりだったのでその話題しきりだったが、伊刈は浮かない顔で誰とも口をきかずに焼酎のロックを独りで飲んでいた。そこへ保全班(環境保全協会)の嘱託技師の大西がお酌に回ってきた。紅一点しかも新卒で喜多と同じ二十二歳の大西はすっかり所内のアイドル的な存在だった。

 「伊刈班長さん何飲まれてますか」

 「なんだっていいよ。それから班長さんてのやめろよ」

 「まあ無愛想ですね。じゃ伊刈さんでいいですか」

 「ウーロン割をもらう」

 「珍しいですね。割ったお酒はお好きじゃなかったはずでしょう」

 「なんでそんなこと覚えてんだ。じゃ同じのをもう一杯」

 「最初からそう言えばいいのに」大西は部屋の隅のテーブルに置かれていた芋焼酎のボトルを取りにいった。「注ぎ足しでいいですか」

 「うん」

 「不機嫌そうですね」

 「いつものこと」

 「喜多さんに二次会のカラオケ誘われたんだけど、伊刈さんも来られるんならあたし行きます」

 「なんだいそれどういう意味だよ」

 「なんかもうちょっとお話したいなあと思って」

 「付き合うよ」伊刈は水割りのグラスを見たまま答えた。

 「やった。じゃ後でまた来ます」大西は事務的に用件だけを話し終えると済まし顔で伊刈の席をさっさと離れた。

 大西敦子が学生時代から犬咬で一人暮らしをしているアパートは、海は見えないのに潮騒だけがやけにうるさく聞こえる2Kの質素な部屋だった。女性的な飾りつけはカーテンやベッドカバーなど最小限度でとてもこざっぱりしていた。三十二インチの液晶TVに彼女には似合わない経済ニュースが流れていた。

 「株価を見たいって言うから特別に部屋に入れてあげたのに見ないの」大西はキッチンとも言えないくらい小さな調理スペースでおつまみになるものをあつらえながら、ときどき伊刈の様子を振り返っていた。

 「もう見たよ。今日は上がった」なりゆきで彼女の部屋に上がりこんだ伊刈はカーペットに胡坐をかいて帰りがけのコンビニで買った安物の赤ワインを飲んでいた。

 「儲かったの?」

 「どうかな。途中で上がろうと下がろうと儲けにはならない。株は買うのは簡単だが売るのがむずかしい。女と同じだな」

 「おやじ臭いこと言わないでよ。今の女は売り上手よ。株価が気になったなんて嘘ね。ほんとは部屋に上がりたい口実だったんでしょう」

 「どっちだっていいじゃないか」

 「伊刈さんて見かけよりも悪い人よね」

 「俺は本課に来てる宮越とかうちの班の喜多みたいなエリートじゃないからね」

 「それって学歴のこと言ってるの? 伊刈さんらしくない僻みね」

 「アッコだって変わってるじゃないか。新潟の造り酒屋のお嬢様がなんでこんな冴えない町で一人暮らしなんかしてるんだ」いつの間にそうなったのか伊刈は大西を名前で呼んでいた。

 「海が好きだからこっちの大学に入ってそのままいついちゃったってことかな」

 「どうせ準教授かなんかとネンゴロになってそのままずるずると続いちまったってことだろう」

 「なんでもお見通しみたいに言うのね。でもあたしそんなにもてないわ」

 「眼鏡を外すと美人じゃないか」

 「ありがとう、みんなにそう言われるわ」大西はこの上ない笑顔を返した。

 「なんで役所では眼鏡を外さないんだ」

 「人間関係面倒くさいから一種のフィルターかな」

 「なるほど。しがない小役人にムダなお世辞言われてもしょうがないってことか。教授夫人のなりそこないだものな」

 「振られたんじゃないのよ。海洋調査船で事故があったの」

 「死んだのか」伊刈の顔が少しだけまじになった。

 「いいえ生きてる。でも低酸素状態が長く続いたために脳に障害が残った。それであたしムリだったの。だから逃げた」

 「それならいっそ新潟まで逃げればいいのに」

 「そのつもりだったのよ。でも何かやり残したことあるみたいな気がしてさ。ちょうど環境保全協会の嘱託を募集してるって大学から紹介してもらったの。あたしこれでも理学部だし、ほんとは環境も詳しいのよ。グリーンピースとかも入ってたことがある。いやになって辞めたけど」

 「そうか市の職員じゃないのか。技師だとばっかり思ってた」

 「そんなことも知らなかったのね。やっぱり悪い人だわ」

 「正直に言うけどそういうことあんまり気にしないほうでね」

 「女であることを除いて私の人格には関心がなかったってことね」

 「まあ三十分前まではそうだったかもしれない。今は俄然関心が出てきた」

 「いいのよムリしなくても。あたしのどこ見てたかちゃんと知ってるから。女はみんなわかってるのよ。来週から夏休みとるの?」

 「強制消化だっていうから。別に予定はないんだけどね。家族もないし彼女もないし」

 「じゃあ犬咬を案内してあげる。地理に明るい方がパトロールもやりやすいと思うわ」

 「ギャクナンされるとは思わなかった」

 「パートナーシップよ。職場の同僚でしょう。そう思ってなかったかもしれないけど。さ、できたわ。お口に合うかしらね」大西は急ごしらえのおつまみを何品かガラステーブルに並べた。チャーシューとねぎの和えもの、台湾製の腐乳を使ったえたいの知れないイカかタコの炒め物、厚切りのベーコンの炙りなおし、実家から送られてきた甘辛い漬物、どれも癖のある品だった。

 「この赤、コンビニで買ったにしてはまあまあだったな」伊刈はせっかく作ったおつまみには口をつけずにワインを評した。

 「だいたいおかしいでしょう。ワイン飲みながら株価のニュースを見るのが日課だからって口実で、わざわざワインを買ってから付き合ってもいない女の部屋に押し掛ける人がいる」

 「飲んでみないか。意外と経済ニュースに合うよ」

 「あたし赤はえぐいから飲まない。こっちのほうが好き」大西はデンマーク製の缶ビールを冷蔵庫から取り出すと喉が渇いていたのか一息で半分飲み干してしまった。

 「ビールの方が苦くないか」

 「なれたら苦くない」

 「なるほどまあなんでもそうだな」

 「ニュースもう見ないならシャワー浴びれば」

 「着替えがないから」

 「一組だけ使わずにとってあるモトカレのがあるわよ」

 「なるほど。あ、おつまみ片さないで。風呂上りにビールといただくよ。どうみてもビールに合うものばかりだから」

 「気にしてくれてたのね」

 伊刈は飲みかけのワインボトルを残して立ち上がった。部屋にいるときはあんまり感じなかった女の匂いでバスルームはむせるようだった。大西は小さな鏡台に向かって化粧を落とし始めた。もっともマスカラもアイシャドウも使っていないごく薄化粧だったのでスッピンになってもがっかりするほどの変化はなく、ファンデーションに隠されていた地肌の荒れが浮きだしたことでむしろなまめかしさが強調されたようだった。特別に関心があるわけでもない伊刈をどうして部屋に入れてしまったのか敦子にはよくわからなかった。こんななりゆきは実は初めてだった。女の抵抗を瞬間移動ですりぬけてしまう何か不思議な超能力が伊刈には備わっているようだった。

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