ドライブ
お盆休みの初日、伊刈は約束したドライブにでかけるため大西のアパートに向かった。彼女も伊刈に合わせて休暇をとっていた。
「これほんとに伊刈さんの車なの。意外とアウトドア派だったんだね」伊刈が乗ってきたカブリオーレタイプのパジェロを見たとたん大西はちょっと意外そうな顔をした。
「車だけだけど」
「せっかくオープンにできるんならしてよ」
「日焼けするけどいいかな」
「日焼け止めベタ塗りすれば大丈夫」
めったに外したことがない手動のソフトトップを格納したため両手が真っ黒に汚れた。大西は事務所にいるときとは正反対のキャミソールにマイクロミニという軽装で普通のパジェロより車高の高いナビ席に乗り込んだ。眼鏡はいつもの伊達ではなくグッチのサングラスに変えていた。白いキャミの下にワインレッドのスポーツブラが透け、ぎらつく日差しの下で素肌が眩しく輝いていた。伊刈もブルージーンズに白いTシャツという軽装だった。
「じゃ今日のコースは私に任せてね」
天候は全雲量ゼロの快晴、夏休み真っ只中の犬咬の海岸線は予想したとおり海水浴客でびっしりと埋まっていた。海水浴場を離れ無料開放されたばかりの有料道路を逆走した。扇面ヶ浦の地形に沿ってうねるように続く犬咬随一の観光道路だった。扇面ヶ浦は太平洋岸に切り立った五十メートルの海食崖が十キロも続く特異な地形から東洋のドーバーとなぞらえられている景勝地だった。大西は危険なために一般者立入禁止となっている区域にかまわずにパジェロを乗り入れた。
「海洋調査でよく来た場所だから大丈夫よ。ここが一番きれいなの。自然の崖と太平洋のコントラストが抜群なのよ」
護岸を管理するために作られた急な坂道を車で降りていくと突然百八十度のパノラマが開けた。伊刈は護岸管理車両のための小さな駐車スペースにパジェロを停めた。オープンカーなので砕ける波のしぶきがもろに二人の髪にかかった。
「どうすごいでしょう」
「ちょっと驚いた」
「散歩してみる」
「それよりポートレートを撮影しよう」伊刈は後部座席の足元に置いたカメラバッグから本格的なニコンの一眼レフを二台取り出した。
「へえ写真も趣味なのね。意外なことばかり」
「車のシートに立ってみて」
「わかった」彼女は言われたとおりフロントガラスを支えにしてフロントシートに立ち上がり簡単なポーズを取った。海風に長い髪がさらさらと流れ、キャミソールの薄い布地に包まれた豊かなバストを優しく洗っていた。伊刈はフィルムカメラとデジカメの両方を使って車上の彼女の写真を撮り続けた。抜けるような青空を背景にした彼女のめりはりのきいたボディは被写体として申し分なかった。
「護岸を少し歩いてみたいな」
「そうだね」伊刈はデジカメだけを手にして荒波に嬲られて傾いた護岸の上を彼女の手を引いて歩き始めた。パンプスが滑って危険そうだったが彼女は平気な顔をしていた。
「この先にどうしても見せたいポイントがあるのよ」
「ほんとに詳しいんだね」
「海洋学者のモトカノですから」
「ここも調査スポットってことか」
「ファーストキッスをしたデートスポットよ」
「なるほど」
小さな岬を回ると車も車が下りてきた坂道も見えなくなった。前方にははるかかなたまで青い海原に切り立つ崖が続いていた。快晴のおかげて海陸のコントラストが見事だった。まさに東洋のドーバーと呼ぶにふさわしい景観だった。目前の崖の上から五十メートル下の太平洋まで見事な滝が流れ落ちていた。実は水源は国道の排水に過ぎないのだが不思議と感動的だった。見ようによっては太平洋から龍が昇って行くようにも見えた。これが敦子の見せたかった絶景ポイントだった。伊刈は彼女にポーズをとらせて何枚がまたポートレートを撮影した。
「あっ」突然、彼女が足元をすべらせ傾いた護岸の上にしりもちをついた。
「大丈夫か」伊刈がかけよって起き上がらせると、膝に小さな擦過傷ができていた。
「平気よ。ちょっとヒールが高すぎちゃった」
「車まで帰ろう」
「うん」
伊刈は彼女の体に腕を回しゆっくりと護岸を戻りはじめた。横から支えているだけなのに彼女の胸の隆起のたっぷりとした重みが心地よく伊刈の脇を圧迫した。
「ファーストキッスはどのへんでしたの?」
「さっきのは嘘。ここではなにもないの」
「ふうん」伊刈は戻りかけた護岸の途中で立ちどまると、彼女の体を正面から抱き寄せいきなり唇を重ねた。彼女は無抵抗だった。
「どこかコーヒーの美味しいお店を知らないかな」車に戻ると伊刈が尋ねた。
「あたしコーヒーの味はわからない。でも行司岬にとても眺めのいいお店があるわ」
「ああそこなら夜間パトロールで見たかも。漁港の見下ろせる岬だろう。夜は閉まっていたけど」
「行ってみる?」
「うん」伊刈は扇面ヶ浦の西のはずれにある行司岬に向かった。夜パトのときにはわからなかったが小さな灯台の前に五十台ほどの駐車場があった。そこに車を停めると大西は喫茶店には向かわず展望台の階段を上り始めた。
「昼間来るといいところだね。さっきみたいな鬼気迫る絶景じゃないけど扇面ヶ浦の全景が見える。ここから先が百里ヶ浜だったんだね」
「この岬は古代から身投げの名所として知られていたのよ。当時の岬は何キロも沖にあったと思うけどね。最近まで太平洋めがけてダイビングする心中車が後を絶たなかったの」
「それじゃあ石碑の脇にある頑丈なコンクリートの壁は車止めだね」
「古代にはこの岬の近くに通恋洞と呼ばれる美しい洞穴があったそうなの。そこで陰陽師安部清明に捨てられた延命姫が身投げしたという伝説が残ってるわ。洞穴は侵食のために海中に没して今は小川が注ぐ小さな入り江にすぎないけどね」
「それ以来自殺の名所なのか」
「そうね。あんまりデートコースにはふさわしくないお話だったかしら」
「今は不法投棄の名所だね」
「困ったものね。でもそのおかげであたしたち知り合えたのかも」
「これから五、六年のうちには向こうの崖上に風力発電の風車がいっぱい建つわよ。沖合には海上発電所の計画もあるわ」
「どうして知ってるの」
「グリーンピースが反対してるから。バードストライクとかでね」
「原発も反対、火力も反対、風力も反対。ルソーの自然に帰れ信仰か」
「そのとおりよ」
「自殺の名所、不法投棄の名所よりはウィンドファームの方がましかも」
展望台を離れ二人は漁港を見下ろす崖上の喫茶店に寄りこんだ。コーヒーもイマイチ、小腹が空いたので分け合って食べたサンドイッチも月並みだった。
「漁港を見てたら思いついたけど、イルカウォッチングしてみない。漁船を改造した観光船が出るのよ」
大西が観光センターに電話すると最後の船の最後の席がキャンセルで空いたと言われた。イルカウォッチングは不況の漁業を救済する起死回生のアイディアだった。扇面ヶ浦の東側にある長渡漁港から五隻ほどの観光船が毎日出ていた。
「この下の漁港から出るの」
「別の漁港なんだけどまだ間に合うかも。電話してみようか」
「いいね」
いざ乗船してみると日除けもろくにない小さな漁船改造観光船の乗り心地は最悪だった。おまけにイルカはなかなか現れず、ときどき背びれのないスナメリの群れに遭遇しただけだった。
「今日はだめだわ。水温が高すぎるの。イルカはみんな深海に避難してるのよ。ついてるとザトウクジラにも逢えるんだけどね」
船上に容赦なく照りつける強い日差しは彼女の体力を急速に奪っていった。とうとう彼女は疲れ切って伊刈の腕の中で眠ってしまった。日差しをよけるために彼女の髪を覆っていた伊刈の赤いハンカチーフが風に飛ばされて洋上に消えた。伊刈は港に戻るまで彼女のそばによりそって日陰を作るための壁になっていた。
「あのホテルは」イルカウォッチングを終えて上陸した伊刈は長渡漁港を見下ろす丘に建つ瀟洒な白いホテルを指差した。
「わからないけどペンションかプチホテルみたいね」
「休憩しないか。疲れたろう」
「経済ニュースの時間には早いよね」
「冗談はよせよ」
「部屋が空いているといいわね」
勘をたよりに山道を登っていくときれいに芝生が刈り込まれた洋風の庭がしゃれたプチホテルが現れた。フロントでかけあうと休憩はできないが宿泊するならちょうどキャンセルが一部屋入ったと言われた。伊刈はロビーで待っていた大西に部屋が取れたと告げた。
「休憩はだめだけど宿泊はOKなのね。ほんとかしら」
「ウソじゃないよ」
「伊刈さんは信用できない」
コンドミニアム風の広々とした部屋には長期滞在用のダイニングやキッチンもついていた。二人別々に小さな温泉で日焼けした肌を癒した。風呂上りに浴衣に着替えてまだ日没前のベランダに立った彼女の後姿のなまめかしさに伊刈は自制心を保つのがやっとだった。真夏の遅い夕暮れの海を眺められるダイニングで二人は一品ずつ間隔をあけて運ばれるスペイン風にアレンジした猟師料理に舌鼓を打った。
「伊刈さんワイン飲んで大丈夫なの」
「朝までもう運転しないから」伊刈は屈託のない笑顔でグレープフルーツくらいの大きさの上等なワイングラスをゆらゆらと揺らした。
「そういうことね。でもあたしいざとなったらここからなら歩いても帰れるからね」
「お好きに」
「あたしも飲むわ」大西はテーブルに寂しげに置かれた本格的なボルドーグラスを伊刈に向けて押し出した。
「白も頼もうか。スペインの赤は濃いよ。この料理だったらブルゴーニュの白とかがよさそうだ」
「ワイン通なのね。でも同じのでいいわよ。これからあたしも赤にするわ」
「あ、置き酌でね。このグラス割れやすいから」大西がワイングラスを差し出そうとするのをとがめると、伊刈は夕暮れの光の中で血のように濃く見えるワインを作法を無視してグラスにたっぷりと注いだ。その時、脱ぎ捨てたパーカーのポケットで携帯が振動した。伊刈は迷惑そうな顔でパーカーを引き寄せた。
「班長すいません、お休み中に。実は箭内の女房が緊急入院しました」長嶋がいつになく冷静さを失った声で報告した。
「まさか本所にやられたのか」伊刈は瞬時に真顔になった。
「DVですよ」
「旦那に殴られたのか」
「そうらしいす。不法投棄をやめるようにダンプの運転席にとりすがったところを蹴り飛ばされて出血したんだそうっす。さすがに驚いた箭内が救急車を呼んだんですが、顔にも痣があったんで病院がDVを疑って所轄に通報しました。箭内に事情聴取してだいたい状況がわかりました。容態は安定してますが子供はダメだったようです」
「告訴は出たのか」
「いいえ」
「じゃ事件にはならないね」
「そうすね。度重なればともかく旦那に一回蹴られたくらいじゃねえ」
「すぐに行くよ。病院はどこだ」
「朝陽中央病院」
「わかった」
伊刈は大西に向き直った。「ごめん仕事なんだ」
「緊急事態なのね」
「朝陽中央病院まで車の運転を頼んでもいいかな。僕はワインを飲んじゃったから」
「いいわよ。あたしはぎりぎりセーフだったみたい」大西は飲みかけたグラスを置いた。
「じゃ残りの食事は後で温め直して出してもらおう」
「またここに帰ってくるつもりなの?」
「せっかくの料理だしホテルに悪いよ」
「いいわよ。そういうことなら付き合うわ」大西は意味深長に微笑んだ。
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