穴屋の女房

 週末、伊刈は箭内の妻の瑤子を密かに呼び出した。滑走路を発着する国際線の機影を遠く見張らせる成田日航ホテルのラウンジが二人の待ち合わせ場所だった。瑤子は高校を卒業後単身上京していたが、二十歳の誕生日に高校時代のモトカレだった箭内にプロポーズされて帰郷し、不動産で羽振りがよかった舅の資金で成田空港の近くに喫茶「WINK」を出店した。既婚とはいえ初々しいママはたちまち評判になり、たまたま近くの福祉事務所に赴任していた伊刈も上客になった。瑤子は痩身で気品のある女性だった。いつもスッピンだったのに、今は薄化粧をするようになっていた。

 「久しぶりだね」

 「そうね。このラウンジも懐かしいわ。伊刈さん変わってないわね」

 「お世辞はいいよ。それより旦那が何やってるのか知ってるか」伊刈は声を低くして言った。

 「知らないわ。だって別居中なのよ」

 「そうか。それを聞いてちょっと安心したよ。別居の原因は」

 「夫の浮気よ」

 「瑤子の不倫じゃないのか」

 「相変わらず失礼な人ね」

 「箭内は不法投棄やってんだ。自宅の庭にまで産廃を積み上げてる」

 「それはうすうす聞いてたけど」

 「女と一緒のとこも目撃されてる」

 「それあたしじゃないわよ。きっと箭内の女よ。それが別居の理由だもの」

 「どんな女だ」

 「近くのキャバの子でしょう。若いだけがとりえのデブよ」

 「なんでまたこんなことに」

 「あたしが冷たいからでしょう」

 「別居の理由じゃなくゴミのことだよ」

 「知らないけどいい薬だわ」

 「離婚しとかないと犯罪者の女房になるぞ」

 「そうよね。でもどっちみちこの子の父親は前科者になるのね」瑤子は箭内の子供を身篭っていることをほのめかした。ずっと不妊だったのにどうして別居の時期にと伊刈は不審に思ったが、そのことには触れなかった。

 「誰の子か疑ってるんでしょう」勘の鋭い瑤子のほうから逆に問いかけた。

 「子供の話はやめとこう。とにかく相棒が悪すぎるんだ。ぱくられるのは時間の問題だ」

 「ヤクザでしょう。見たことあるわよ」

 「顔に傷のある男だ」

 「ええそうだったわ」

 「箭内がこうなったのはバブルのせいなのか」

 「お父さんが心筋梗塞で急に死んでしまって、箭内は五億円の負債を背負ったのよ。おまけに十代の頃のバイク事故の後遺症が今頃になって出てしまったの」

 「体が利かないんじゃ造園業はきついな。そこに本所が産廃の話を持ちかけてきたってわけか」

 「売るに売れない山がお金の生る山になるって大喜びだったわ。借金を返すのなんてあっという間だからって聞かされて」

 「素人があんな連中とかかわったら骨までしゃぶられる。全財産を持っていかれるのが落ちだぞ」

 「財産なんてないのよ。借金のほうが多いんだから。自宅だって銀行の抵当なの。ほんとに何もなくなるわね」

 夫の浮気は口実で箭内の破産を予期して家を出たのかもしれないと伊刈は感じた。

 「とにかくあの家にはしばらく戻るな。戻れば事情聴取は免れないぞ」

 「あたしも疑われてるってことね」

 「ああ」

 「わかったわ。戻る気はなかったけど気をつけるわ」

 「それと車なんだけど今何乗ってる?」

 「ホンダのワゴンだけど」

 「ならいい。ユーノス乗ってる女を知ってるか」

 「いいえ」

 「もしも見かけたら気をつけてくれ」

 「わかったわ。じゃあたし行くわ。あんまり人目につかないほうがいいんでしょう」瑤子は軽く伊刈の肩に触れてから立ち上がった。相変わらず目線のきれいな人だと伊刈は別れ際になって懐かしさに目がうるみそうだった。

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