第3話 真夜中の砂利持ち

真夜中の砂利持ち



 夏休みが終わって、二学期の半ば。六年の教室では、国語の授業が行われていた。

「中岸君、次のページを読みなさい」

 担任の声。

 おさむは、急に、からだが、ぶぁーと宙に浮いたような錯覚をおぼえた。信じられないことが起こったと思った。

 ……ほんとに、オレが、あてられたんか。

 一瞬、とまどって身動きができない。

「中岸君」

 呆然としているおさむに、ふたたび担任の声。

 クラスみんなの視線が集まる。

 おさむは、はじかれたように、いきおいよく立ちあがった。はずみで椅子が音をたてて後ろに移動。まっすぐ立っているのに、からだが、傾いて感じる。口がこわばった。

 たかが、本読みを当てられたぐらいで、なんとおおげさな、といいたいところだが、おさむにとっては、これは大事件であった。なにしろ四年生の秋からきょうまで、まる二年の間、本を読まされたり、何かを答えたりしたことが一度も無かったからだ。

 母のことがあって以来、学校ではクラスの枠外に放り出された状態がつづいていた。実際はともかく、彼自身は、たしかにそう感じていた。

 ……オレは、のけもんや。

 強い感受性が、なんでもないことにまでピリピリ反応し、そのたびに、心のとびらを少しずつ閉ざしていた。

 教室では、なるべく目立たないようにした。手をあげて発表など、とんでもないことだった。授業中、当てられそうな気配を感じると上半身を低くして、のがれようとした。はじめは意識してそうしていたが、しまいには、そうすることが習慣になっていた。

 そんなおさむの態度がクラス仲間にも伝わり、当然、先生にも判っていた。あげく、だんだん、寄らず障らず式に、放置される結果になっていたのである。

 五年が過ぎ、六年の半ば、このままの状態で小学校を卒えるかにみえた。

 ところが、どうしたはずみか、突然に本読みの指名が襲いかかったのである。彼にしてみれば、まさにそれは、何かとてつもなく巨大なものに遭遇したような驚きであった。

「読んで」

 またまた、担任の声。

「……」

 読むべきところは、分かっている。だが、気が動転して声にならない。

 ようやく、最初のひとことが、口をついた。

「タゴノ…ウラ……ユウチ…イデテ、ミレバ……」

 たどたどしく、ここまで読んだとき、教室のあちこちから含み笑いが起こった。いちおうは短歌をよんでいるのだが、とにかく、あがってしまって自分の口から出る言葉に責任がもてない。 

 おさむは、無我夢中で文字を追った。目にとびこんだものを、そのまま口にだした。区切りも息づかいもおかまいなしだ。

 このようにして、ようやく、二、三首の歌を読んだとき、

「よし、そこまで」

 と、先生の声が、まるで地獄に仏のように、おさむの耳にとどく。

 崩れ落ちるように、イスにすわる。脇の下が汗でびしょぬれ。長い時間立っていたように感じた。

「富士山に、雪が真っ白く……」

 次の読み手が、歌の解説を読み始めていた。

 ……先生が、このオレを当ててくれた。

 おさむは、放心したように、教科書の一点を見つめた。わけもなく、うれしさがこみあげてきた。

 その日の夕刻。おさむは、八畳の板間に寝ころび、竈から立つけむりを目で追っていた。半透明のからだを、しなやかにくねらせ、音もなく天井の一角に吸い込まれる、むらさきのけむり。いつも見慣れたものだが、きょうのは、どこかがちがって見えた。

 ……本を読んだせいだ、オレは、のけもんじゃ無かったんや。

 そう思った。

 閉ざした、暗い心の片隅に、小さな穴が開いて、そこから、一筋の光がさしこんだような、なんとも、ムズムズするような、じっとして居れない気分だった。

 ふと、クラスの笑い声が、耳の奥に起こった。

 ……あの読み方じゃ、笑われてもしかたない。

 すなおに、そう思った。

 ……中学になったら笑われんようにせなあかん。

 きょうのことで、目の前が、にわかに開けたように感じた。

 もともと、勉強はきらいではない。これまでは、する気力を失っていたのだ。

 ……オレは、のけもんと違う。

 あらためて、そう思った。

 『オレのことら、先生は屁とも思とるもんか。どーせ、警察さわぎ起こす家の子じゃ。しかたないわ。なんとでもせえ』

 この二年の間、ひとりで突っ張ってきた。

 『この〝囲い〟は誰が何いうても、崩すもんか』

 そう、心に決めて、ひとりで心の砦をかためていた。だが、一見どうしようもなく頑丈そうにみえる心の扉も、ほんの、ちょっとした教師の一言で、ものの見事に打ち破られたのである。

 自分という存在。クラスのなかに、オレという生徒がたしかに居るんだということを認めてくれたことは、このときの、おさむにとって、天にも昇る喜びだった。



「おーい、もとゑ姉(ねえ)」

 声と同時に、玄関の板戸が勢いよく開いて、作三おじが顔を出した。その顔のすぐ後ろで、くっつくように松一の、ゆがんだ顔が見える。

「どしたんならい!」

 もとゑが、大きな声をあげた。夕飯最中のことである。一月の半ば、冬の日は既にとっぷり暮れていた。

 作三おじは、戸口の敷居をまたいで土間に立ち、松一をゆっくり板間におろした。作三の背から離れるとき松一の顔が苦痛でゆがんだ。かなり痛そうだ。

「ちょっと、腰やったってのう」

 作三おじは、そういって、ゴールデンバッドの細巻タバコに火をつけた。

「すまなんだのお。山から背負うて来てくれたんかい。おおきにのお」

 もとゑは、茶を入れて作三に渡す。

「おい、服脱がしてくれ」

 松一は、板間でゆっくり上体を起こした。

 要は、おさむをうながして、父の服をぬがしにかかる。

「痛むか、おじい」

と、作三。

「おう、動かなんだら……ましやけどな」

「すぐに、うどん粉ねって湿布したれよ。打身だけやさか、早よ熱とったほうがええぞ」

 そういって、作三は茶をすすった。

「どんなこと、しょったんかいのお」

 もとゑは、要とおさむが、ふたりがかりで脱がした仕事着を、丸めて部屋の隅に置いて、押入からふとんをひっぱり出した。

「ここらも雪ちらつきよるけど、けさ、山はだいぶ降ったんじゃ。松一おじゃ、積んどる丸太と一緒に、ころげおちたんじゃよ」

「雪で、すべったんじゃの」

「そじゃ、そじゃ。そやけど、骨折ったりせなんでよー、まっこと、よかったぞ」

 要とおさむは、父をふとんまで運んだ。作三は、それを見て立ち上がり、

「松一おじ、おりゃまた山へもどるさか、あんじょなったら来いよ。……もとゑ姉、たいしたことないけど、まあ、ゆっくりしたれよ。災難じゃ、しかたないぞ」

 そういって、戸口に立った。

「まったく、すまなんだのお。おおきによ」

 もとゑは、ていねいに頭をさげた。

 作三と松一は、古くからの友達で、例のバクチづれでもあった。松一が、せっかく稼いだ金を、あらかた花札で無くしたときなど、もとゑは、作三を本気でにくんだものだったが、きょうは心から感謝していた。

 三か月ほどの予定で山に入って、五日めの出来事である。

 父がケガをしたことで、おさむは、気がかりなことがあった。入学準備のことだ。

「お前が中学入るとき、父やんの仕事あって、よかったのお」  

 松一が、泊り山に出かけた後で、もとゑはいった。おさむも、ほんまにうまいこと大きな仕事があって、よかったと思った。だが、よろこんだのもつかの間、思わぬ父のケガで、あてにしていた金が入らなくなった。

 ……どこか、賃仕事で、何とかならんもんか。

 必要な入り用を計算してみた。中学は制服だった。学生帽、服、ズボン。それにカバン。安く見積っても、九百円はかかる。いつものバイト先、園田のおばさんとこでは、どだいケタが違う。それに、毎日仕事があるわけでもない。

 おさむは、二学期のはじめに、初めて本読みを当てられてから、やる気を起こしていた。中学入学をいい機会に、しっかり勉強して、先生やクラスのみんなを見返してやろうと心に決めていた。そのためには、どんなことをしてでも、ちゃんと入学したいと思った。

 それから二、三日した或る日、もとゑは、出来上がった草履を売りに出て、その折、請川村で土方の手伝いを欲しがっている、という話を聞いてきた。

「土方の手伝いいうたら、どんなことするんじゃろう」

 おさむは、母の聞いてきた話に興味を持った。

「もっこでな、砂利持ちらしいぞ」

 もとゑは、いまひとつ元気がない。なぜなら、その仕事は、真夜中に行われるということだったからだ。

「肩で持つことやったら、オレ、なんでもないで。家で、鍛えとるさか」

 彼の目は、光っていた。もとゑは、そんな我子の顔を、じっと見つめながら、重い口調で、

「おさむ、夜さの仕事らしいぞ。……よう、やるか?」

「夜さの……」

 おさむは、ちょっと間をおいた。やがて、

「なーに、ちょっとの間や。中学の制服買うだけたまったら、ええんやさかいに」

 その会話を聞いていた松一、

「おれゃ、腰やったらなんだら、おさむに、そんなことまで、させんでもええのにのぉ」

 ようやく、正座できるようになった松一が、竈の口までゴソゴソ這ってきた。

「父やん、土方の砂利持ち、いくらくれるんやろかのぉ」

 おさむは、すっかりその気になっている。

「さーのぉ、……おれゃ、山だけしか知らんけど、だいぶくれるんじゃないか」

「母やん、聞かなんだか?」

「……」

 もとゑは、自分が聞いてきた話だったが、すこしは体格がいいとはいえ、まだ、小学生のおさむには、どだい無理な仕事のように思っていた。

「父やん、ケガせなんだらのぉ……」

 そういって、台所に立ち、夕飯の片づけをはじめた。

「母やん、いま、そんなこというても、どうにもならんわ。オレ、やってみる」

「からだ大きいけど、まだ小学生じゃさか、使うてくれるかのぉ」

「それも、聞いてくる。あかんでもともとじゃ。オレ、あした、学校の帰りに請川行ってみる」

 おさむは、すでに決めていた。この仕事逃したら、まともな恰好して中学へ行けん。なんとしてでも、やってやろうと決心した。また、真夜中の仕事というのも好都合だと思った。感性の強い彼は、他人の目を必要以上に気にした。この傾向は、母が警察へ引っ張られたときから強くなっていた。

 翌日、授業が終わると、カバンを国道傍の製材所であずかってもらい、請川の土建業者目指して急いだ。草履売り以来の請川村だ。

 村のかかりで、土建屋の看板を見つけた。

 事務所の前に立った。事務所の横が資材置き場で、モッコや足場板、大小の皮を剥いた丸太が山と積んである。

 おさむは、呼吸をととのえた。急いで来たので乱れているのではない。緊張しているのだ。

 ……何といって、事務所の戸を開けよう。こんにちは、か、ごめんください、か。 事務所の表戸はすりガラスで、中が見えない。

 ……この向うに、事務しやる人が、ようさん居るんやろか。……おれみたいな小学生、まともに相手してくれるやろか。

 ガラスに、うっすら映った自分の姿を見て、入りあぐねていた。

 突然、ワァーと、こどもの声が起こった。下校途中の小学生一団が目にとまった。ワイワイ騒ぎながら近づいてくる。それで、はじかれたように事務所の戸を開けた。『こんにちは』といいかけてやめた。誰も居ないのだ。八畳ほどの事務所。中央に机がふたつ背合わせに置かれている。机の上には、木製の大きな整理棚のようなものがデンと据えられ、何やら書類がいっぱいつまっている。

 誰かが居るものときめて入ったので、拍子抜けのかたちになった。さっきの小学生が、外を通り過ぎる。そのあと、物音ひとつしない。誰も居なかったことで、いくぶん緊張がほぐれた。事務所内をよく見ると、左の壁ぎわにベニヤ板のドアがある。どうやら奥に通じているらしい。

「こんにちは」

 とにかく、大きな声をかけてみる。……返事がない。

 ベニヤ戸の向うが気になった。そこには誰かがいるにちがいない。そう感じた。それで、思いきって戸を開けてみるつもりで、歩き出した。そのとき、玄関のガラス戸が勢いよく開いて、三人の男の人が入ってきた。おさむは、戸口に立っていたので、あやうく、ぶつかりそうになった。

「なんな、ぼお。……なんぞ用か?」

 太く、大きな声。だれも居ないはずの事務所に、こどもが突っ立っているので驚いた様子だ。声の主は、ガッシリした体格の中年のおじさん。一緒に、青年と老人が立っている。

「あのー」

 おさむは、あいさつを忘れた。大きな声で不意をつかれたので、タイミングが狂った。

「誰その使いか?」

 老人が、おさむをジロジロ見ながら帽子を壁の釘にひっかけて、椅子に腰掛けた。青年はベニヤ戸のなかに消えた。

「ぼくは……中岸おさむ、……本宮の……」

 老人に向かっていった。

「中岸……おお、松一とこのやな」

 老人は父を知っている様子だ。

「あー、ここの大将は、その人や、用やったら、その人に話せえ」

 老人は、実にぶっきらぼうに答えて、中年の男を指さした。

「何の用な」

 向き直ったおさむに、大将がしずかな口調でいった。やさしい物言いだ。

「あのー、砂利持ちさしてくれんかいのぉ」

「ぼぉの母ちゃんか?」

「違う。……ぼくが」

「ぼぉが、砂利持ちするいうんか」

 大将は、足の先から頭まで、まるで品定めするかのように、ジロジロ見た。素足にぞうり履き。半ズボンからでている足は、砂ぼこりで白く汚れている。母やん手作りの長そでシャツからのぞく双の手は、まだ、ふっくらと丸い。

 ちょっとの間おさむを見ていた大将は、やがて、ふぅーと小さく息を吹いて、

「あのなぁ、ぼぉよ。おじさんは、夜さの人夫探しとるんじゃ。夜通し働くんじゃぞ」

「はい、知っとるけど」

「ぼぉ、今、何年生なよ」

「本宮小、六年」

 そういって、あわてて、『もうすぐ中学やけど』と力をこめていった。

「年は、十一か。それにしては大きいのお」

「はい」

「あのなあ、夜さ働いてもええのは十五からや。ぼぉ使いよったら違反になるんじゃ」

「ぼくは、かまんけど」

「ぼぉは、よかっても、おじさんとこは、ええないんじゃよ」

 大将は、紙巻タバコを机の上に立てて、ポンポンと中身を固めて火をつけた。口にくわえ、吸い込んでからふぅーとはきだし、ふたたび、おさむの全身を見た。おさむは、両手をしっかり握りしめカチカチに固まっていた。

「違反にもなるけどな、ぼぉにゃどだい無理やで、……ようせんぞ」

「やらな、……これをやらな、アカンのです。どうしても」

 おさむは、必死だった。乞い願う目つきで大将の顔を凝視していた。ここで、目を離したらあかんと思った。

「そんなに無理して働いて、何するんな」

 大将は、はじめは軽くあしらっていたが、おさむの真剣な顔、キッと見開いた目を見て、態度をかえた。

 横の机では、パチパチとソロバンをはじいて、老事務員が、何やら計算をはじめた。

 大将は、傍にある丸い木の椅子を自分の前に引き寄せ、おさむに腰かけるようアゴを振った。

 おさむは、大将と向い合った。

「中学の制服買うんです」

 ピンと背筋をのばし、ていねいな言葉で力を込めていった。

 大将の右手の指に挟んだタバコから、一筋のけむりが、まっすぐに立ち、天井近くで大きくふくらんだ。

 ……つぎに、大将の口から、どんな言葉がとびだすか。 

 息をつめて、口元を見る。短く刈り込んだちょぼひげ。ぶあつい唇。

 ……やっぱり、あかんのか。

 大将が、黙っている時間が長くなるにつれ、そう思った。

 しばらく沈黙のあと、唇が動いた。

「ぼぉ、それじゃ、一晩だけ、遊ぶつもりで来てみるか」

 おさむの、ただならぬ表情。中学の制服を買うためという理由。このことで、おさむの背後にある何か、おおよそのことを読み取ったのである。

「遊びに来るのは、かまんのお」

 あいかわらず休むことなく、ソロバンをパチパチはじいている老事務員に向かって大将がいった。

 老人は、計算の手を休めて、

「こどもの夜遊びは、あんまり、ええないけど、違反じゃないさかのお」

 この、老事務員の一言に、おさむは、『やったー』と思った。ペコンと頭を下げた。

 大将は、一荷八十銭の持ち賃のこと、はきものや、作業着のことなど、いろいろ説明したあと、一枚の紙切れに、何かを書いておさむに差し出した。

「こんなのを、作ってこいよ。これやったら仕事するのに楽じゃぞ」

 渡された紙には、木箱の絵の略図があった。箱を斜めに切ったような形のものにヒモが三本ついている。

「これは、いいぞ。じゃりをあけるとき、手間かからんさかにな」

 と、大将の説明。

「ああ、それと、古い手拭でほっかむりすることも、忘れんようにな。お前は図体が大きいさか、しっかり顔つつんだら、こどもには見えんやろさかな」

 おさむは、事務所を後にした。よかった、と思った。これで、学生服が買える。一荷八十銭で、一晩に五十荷運んだら、四十円。十日で四百円。二十日で八百円。二月いっぱいやれば服が買える。……計算しながら、帰り道を急いだ。

 請川村は、大塔渓谷を源流とする大塔川と、国道三一一号線沿いに流れる四村川がひとつになって、一級河川熊野川に合流するところにある。おさむの住む本宮村から約四キロ下流のところだった。

 おさむが、砂利持ちすることになった土方工事の現場は、ここの中学校だった。中学校は、大川筋から一キロほど大塔川をさかのぼったところにあった。かつて、母の草履売りの荷物持ちをして訪れた食料雑貨を扱う〝成石店〟の近くだ。

 仕事は、運動場の堤防改修工事で、昼夜二交代で行われていた。まず、真夜中の一時に夜の組が仕事を始める。人夫のほとんどが主婦。仕事は単純で、川じゃりを、決められた場所まで運ぶだけの作業。体力さえあれば、だれにでも出来るものだ。黙々と夜明けまで運ぶ。朝七時すぎにプロの土方連中がやってくる。そこで、夜の組と交代するという仕組。

 このやり方は、工期が限られているときなど、よく、とられる方法で、当時は広く行われていた。

 

 次の日の夕方、おさむは、製材所で錆た一斗缶をもらってきた。砂利運びの道具を作るための大きさ見本だ。荷は一荷が八貫め、約三十キロと決められていた。それが八十銭の運び賃となる。この八貫めが、ちょうど一斗缶一杯の量であった。

「おさむ、そこの板、もってこい」

 松一とおさむは、納屋で特製の運搬具、モッコ作りにかかった。松一のケガも日増しに良くなっていた。

「これと、同じ大きさのもの、木で作るんじゃな」

 松一は、おさむの持ってきた紙切れを見ていった。大きなちり取りに似た形だ。三本のヒモの長さが重要で、砂利をあけるとき、そのうちの一本を引っ張ると、うまく中身が飛び出すようにしなければならない。松一は、細工ごとが好きなだけに、のみこみが早い。暗くなるまでにほぼ完成した。

「仕上げは、あしたじゃ。おまえ、学校から帰ったら出来とるぞ」

 ほとんど顔が分からないほどに暮れた納屋のなかで松一はいった。

「父やん、腰痛うないか?」

「だいじょうぶじゃ。おりゃ、腰いためたさか、おまえに、エライ目さすんじゃ。ちょっとでも出来ることせにゃ、おさむに、すまんわだよ」

 父とむすこは、納屋から外に出た。よく晴れた夕暮れの空を背景に、正面にそびえる七越峯が黒く浮かんでいる。眼下の大川は、真冬の渇水で、流れが幾筋にも分かれて河原を這い回っている。それらが、生き物のように、夕闇に白く光っている。

 おさむは、白い流れを目でたどった。その先に、請川村の明かりが見える。

 ……おれの、学生服が、あの灯のところにある。

 そう思った。

 突然、家のまわりの冬枯れの木の枝がカサカサ音をたてた。大川から身を切るような川風が、吹き上げてきた。




 いよいよ、砂利持ちの夜が来た。

 おさむは、早めにふとんにもぐった。なかなか寝付かれない。緊張しているのだ。枕元の作業着に目をやる。松一の山仕事用を、もとゑが三日がかりで、おさむの身体に合うように仕上げたものだ。針を使いながら、時々涙をぬぐっていた母の姿をおさむは見ていた。

 ……園田のおばさんとこで賃仕事するのと同じことじゃ。

 つとめてそう自分にいい聞かせた。それが、昼間か夜中の違いだけで、たいしたことはないと決めつけた。だが、生まれて初めて、大人のなかに入って、同じように働く。そのことが少し心配でもあった。このときのおさむには、母の涙の意味までは理解できていなかった。

 眠れないことを気にしているうちに、うとうとした。夜中、母の声に起こされた。急いで作業着に着替え、竈の前に座る。仏壇横に掛けている柱時計が、十二時すこし前をさしている。作業開始は、午前一時。じゅうぶん時間がある。

「これ、食べてな」

 もとゑは、麦飯の大きなにぎりを、おさむの前に置いた。それは、終戦からこのかた、一度もお目にかかったことのないものだった。

「えっ、ええんか。おれ、お粥で大丈夫じゃのに」

 おさむは、そういうまにも、にぎり飯をつかんでいた。はじめて味わう感触。ずっしりと重い。

「母やん、これだけあったら、お粥炊いたら、みんなで食えるのに」

「おさむは、特別じゃさかのぉ」

「おれ、ひとりで食べても、ええんか」

「腹へったら、じゃり持ち出来んぞ」

 おさむは、うれしかった。母の気遣いよりも、ただ単に、にぎり飯が食えるということが、なによりも嬉しかった。まだ、そういう年頃なのだ。

 十二時すぎに、家を出る。

「気ぃつけてな」

 もとゑは、石段の降口まで送って出た。

「母やん、家入っとれよ、カゼひくぞ」

 おさむは、父の作ってくれた、特別製の木製モッコを天秤に担ぎ、真夜中の石段をおりた。月が出て辺りは明るい。点在する家々も、眼下の大川も、はっきりわかる。風もなく空気が止っている。石段の中ほどまで駆けおりて振り向くと、母はまだ立っている。もういいからと手で合図。

 もとゑは、後ずさりして、庭の端に植えてある茶ノ木の陰に身をかくした。そこで、わが子の姿が見えなくなるまで、うずくまって見ていた。

 『母やん、おれにピッタリや。うまいこと、直したなあ』そういって、袖をとおし、ズボンを履き、厳寒の真夜中、いそいそと出かけていくおさむの後ろ姿が、あふれる涙でぼやけた。

 我知らず、手を合わせていた。わが子を拝んでいた。

 まだ、十一。何ということだ。こんな親が、ほかに居るだろうか。せめて、自分に神経痛がなかったら、代わりに行ってやれるのに……。

 ずきずき疼くような、大声をあげて泣き叫びたいような、なんとも、やるせない思いが身体の芯から突き上げてきた。

寒さも忘れて身動きひとつせず、いつまでもうずくまっていた。

 どれほど時が経っただろう。やがて我にかえり寝巻の袖で、あふれる涙を拭きながら家に入った。

 見ると、寝ていたはずの松一が、ふとんの上に座っている。もとゑが玄関に立つと、あわてて顔をふせた。泣いていたのだ。

「あんた、起きとったんかぃ」

 もとゑも、顔をあわせないようにして、おさむの食べたあとを片付けた。

「元気に行ったか?」

「張り切って、行ったで」

 もとゑは、つとめて何でもない振りをした。

「そうか」

 松一は、竈の口まで来て、キセルに火をつけた。

「おさむにすまんで、寝とれんわよ」

「あんたは、ゆっくり休んで、早よ腰なおしてもらわな、いつまでも、おさむにこんなこと、さしておけんさかいにのぉ」

「そうじゃな」

「わたしゃ、今から納屋で、ぞうり作るさか、あんたは寝やんしよ」

「朝まで、やるんか」

「おさむに、すまんさかのぉ」

「また、神経痛悪なってきやせんか」

「具合悪りなってきたら、休むよ」

 もとゑは、そういって、いつもの仕事着に着替えた。


 おさむは、石段をおりきって、川沿いの道路に出た。月の光のなかで、請川に向け白い路面が浮かんで見える。こんな真夜中、外に出たことは初めてだった。昼間見る景色とずいぶん違って見えた。大川の水が、月の光を受けて、ところどころ白く光る。瀬になっているためだ。流れの音だけが耳にはいる。

 ……ほんまに、仕事しやるんやろか。

 そう思いながら、しばらく歩く。村の墓地の前に出た。昼間は何でもない処でも、あまりいい気がしない。自然に足が速くなる。

 意外に早く請川に着いた。夜は、時間の感覚がまるでちがう。

 事務所の前まで来たが、真っ暗だ。見ると、表の戸に、〝中岸君、中学校へ来てくれ〟と書いた貼紙。

 ……遅れたか。

 大塔川沿いの道を急いだ。やがて、前方に明かり。現場だ。成石橋を渡る。草履を売りに来た店は、雨戸が閉まってひっそり。真夜中で、当たり前だと思う。橋のたもとから、学校の運動場におりる道がある。そこを、小走りに走って降りた。

 運動場を、ぐるっと囲むように大塔川が流れている。その一番上手で工事が行われているらしく、かなりの人。

 急いで、そこを目指す。早く行かな、と、気がせく。だが、天秤にぶら下げた空の箱が四方におどって、うまく走れない。それでも、何とか調子をとりながら小走りに駈けた。広い運動場を半分ほど走った時、現場近くに居た大将が、おさむを見つけて、こっちに来いと手招き。

「ぼお、よう来たな。事務所寄ったんか? 待っとったけど、なかなか来んさか紙書いて貼っといたんじゃ」

 大将は、そういって、おさむを見た。

「ええ恰好や。それやったら、お前、からだ大きいさか、誰もこどもや思わんぞ。大丈夫や」

 そこでは既に、砂利持ちが始まっていた。どこの誰か見分けがつかないが、みな、一斗缶を背負って歩いていた。見たところ殆どが女の人のようで、おさむのように荷を天秤に担ぐのではなく、背中に背負って運んでいる。

「ぼぉ、わしと一緒に来い。運ぶコツを一回だけ教えたるさかいに、よー見て、どうするか覚えよ」

 おさむは、大将の後ろに付いて歩いた。歩きながら人の目を気にした。自分から望んだ仕事だったが、そこは、何といってもまだ小学生で、周りの大人が気になる。時々顔をあげて様子をうかがいながら歩いた。ところが、夜という事情もあってか、新顔などには、まるで目もくれない。ただ、黙々とじゃりを運ぶ。運ぶことにのみ全力を注いでいた。

 ……誰も、オレのこと、見てない。

 このことが分かると、急に元気が出てきた。

 初めて見る、真夜中の工事現場。人数が大勢のわりに静かで話し声がしない。奇妙な静けさだ。運搬道の両側には、所々に大きな提灯が燃える。その狭い作業道を、往きとかえりの人夫が、うまく、からだを交わしながら行きかっている。そのなかに混じって、しばらく歩く。やがて、広い台地に出た。ちょうど川がカーブしている所で、川面からは相当高く盛り上がってじゃりが溜まっている。大水が発生するたびに流れついたものだ。

「ぼぉ、モッコ置いてみ、入れたろ」

 おさむは、大将の指示どおり、天秤に担いだ特製モッコを、肩からおろした。

「おぅ、うまいこと作ったな。こりゃ頑丈にでけとる」

 大将は、そういって、木の箱をスコップの先でコンコン軽く叩いてから、じゃりを入れ始めた。四、五回すくって入れると一杯になる。

「このくらいで、ええやろ。ぼぉ、そっちの箱にも入れてみろ」

 大将がスコップをわたしてくれる。おさむは、スコップを使うのが初めてだった。大将の動作をそのまま真似た。スコップの先が、うまく砂利の中に入らない。足を使ってみるが、やはりダメ。大将は、黙って見ている。しばらくスコップとのたたかいがつづく。水のいきおいで流され、幾重にも堆積した泥混じりの川砂利は、陽に干されてやけに固い。

「ぼぉ」

 悪戦苦闘のおさむの手に、大将のごっつい手が重なる。

「こうして、揺すってみろ」

 大将は、スコップを左右に振る。すると、どうだろう。まるで歯が立たなかった固いじゃりの山に、スコップの先が吸い込まれるように、めり込むではないか。どうすることも出来なかったことが、簡単な動作を加えることで、こうも変わるものなのか。

「よし、ぼぉはカンええぞ。うまいもんじゃ」

 おさむは、二つの缶に砂利を詰めたあと、担い棒を肩にした。

 担うのは経験があった。家の水汲みや、畑への肥持ちは、母が神経痛になってからは彼の仕事だった。

 ぐっと腰を入れ持ち上げる。

「おぅ、うまいもんじゃ」

 と、大将。

 砂利は、あんがい重い。持った時軽く感じる程度でないと、あとが続かないことは経験で知っていた。家では、そのように加減して持った。だが、ここは大人の世界だ。この量で一荷八十銭と決まっているのだ。自分から頼み込んだ仕事だ。へっぴり腰は見せられない。それに、中学入学がかかっている。

 それで、つとめて、軽々と担っているふりをした。今、横で大将が見ている。大将の前だけでも平気に振る舞わなければ、と思った。

 大人たちの列に加わる。背に一斗缶を背負って歩くおばさんたちの足が、以外に速い。おさむは、ここでも大人の世界を感じた。自分勝手の許されない力強い動きを感じた。園田のおばさんのところで賃仕事をするのとは世界が違っていた。立ち止まることも、肩を変えることもできない。無言の力強い流れのなかで、遅れることなく、従わなければならない。頭から冷水をぶっかけられたように、身の引き締まるのを感じた。これまで、自分を包んでいた甘ったるいものが、スルスル剥がれおちるのを体感した。

「ここ、気ぃつけよ」

 新しい世界に度肝を抜かれながら、砂利を担うおさむに、すぐ前を行く大将から注意。

 いつの間にか、堤防の側に来ていた。堤防の高さは、おさむの二倍はあった。その上まで登るのだ。そこには既に、堤防の内と外側に、大きな石をセメントで固めた壁が出来上がっていた。そのコンクリートの壁の間に、砂利を入れる。これが、おさむたちの仕事だった。

 堤防の上まで、巾八十センチほどの分厚い足場板が、ちょうど折れ線グラフのように組まれていた。人夫は、その狭い板の上を、右に左に向きを変えながら登り降りする。砂利掘場から四十メートルほどの距離を担いできて、ここが最後の難所だ。

 おさむは、かなりまいっていた。担い棒が肩に食い込む。歯をくいしばる。ここでヘマでもしたら、もう来んでもええと、いわれるかもしれない。足場から落ちてケガでもしたら、作業が止まってしまう。

「だいじょうぶか」

 大将が、振り向く。

「こんなの……なれとるさか」

 苦痛のなかから、つとめて平気を装う。だが実際は、肩から背にかけて、針で突き刺すような激痛がはしる。ただ夢中で、前を行く大将の長靴だけを見ながら登った。二度向きを変えて、三度めに堤防の上に出た。思ったより広い台地になっている。狭い足場板を登って来たので、余計そう感じた。

 他のおばさん達は、丸太を組み合わせて作られた荷おろし台の上に一旦荷を置き、そこから、溝の中に砂利を放り込んでいる。おさむは、天秤に担ったまま、三本の担いヒモの内一本を引っ張った。このやり方は、大将におしえてもらったもので、家で練習していた。木製モッコがくるっと回転して、じゃりが勢いよく流れ落ちた。練習の成果だ……そう思った。

 荷をおろすと、急にからだが宙に浮いたように感じた。

 おさむの、一連の動作を確認した大将が、

「ぼぉ、あそこに、男おるやろ。ありゃ俺の息子じゃ。あれに券もらえ。一荷持ったら一枚くれるさか。一枚八十銭の券じゃ。落さんようにせえよ」

 そういって、息子のほうをアゴでしゃくった。

 おさむは、合格したと思った。おれのやり方が大将の目にかなったのだと思った。

 急いで、男の傍へ。

「こんばんは」

「おう、よう来たな。がんばれよ」

 そういって、一枚の券を渡してくれた。事務所で会った青年だ。

「この券、あとで金に換えるさか、落とすなよ」

「おおきに」

 おさむは、ちょうど手のなかにはいる大きさの厚紙を渡された。赤い色の四角な印がおしてある。何と読むか分からないが、模様のように見えた。

「ぼぉ、袋持っとらんのか。……ここに一つあるさか、きょうはこれ使え」

 青年は、そういって、ヒモのついた袋を渡してくれた。

「これ、首からぶら下げとけよ。券入れ袋や」

 おさむに、そういいながら、次々と来る人夫のおばさん達に、せわしく券を渡している。見ると、どの人も一様に首から袋をぶら下げ、もらった券を大事に仕舞っている。おさむは、あゝ、なるほどと思った。

「自分の袋、作ってこいよ」

 青年は、笑顔でいった。



孤独への入口


 その日、中岸家に、待ちに待った電灯がついた。きのうまでランプを吊るしていた居間に電気のコードがぶらさがり、セトモノの傘の下に四十ワットの裸電球が光る。

「あしたから、ランプそうじせんでもええのお」

 祥子が、まぶしそうに電球を見上げる。これまで、ランプそうじは彼女の役目だった。

「姉やん、どっさり勉強できるぞ」

 小学二年の公が、うれしそうにいう。

 十年以上もランプ生活がつづいた。わずかな定額料金が払えなかったのだ。電気を引くための費用は、おさむが、砂利持ちした金で支払った。はじめの予定より余分に砂利持ちしたためだ。予定どおり、中学の制服やその他の学用品を揃えたあと、少し金が余った。それで、電灯工事をした。月々の電気代は額がしれているので、なんとかなると思った。

 電灯が点いたことで、家のなかが見違えるように明るくなった。ランプの明かりとは比較にならない。隅々の、いままで見えなかったものがよく判る。部屋全体が広くなったように感じた。

 ……これで、人並になった。

 おさむは、自分の力で形あるものが出来たことで、満足した。母や祥子、それに公の喜ぶ顔を見るのが嬉しかった。

 明るい電灯の下で、気分が晴々した。今まで体験したことのない、なにか、新しいことが始まる予感がした。

 実際、この春をさかいに、これまでと違った空気が、おさむを包み始めていた。

 六年の学期末、不意に本を読まされた。ただそれだけのことであったが、完全に学業を投げ捨てていたおさむにとって、それは、たとえようのないほどの、大きな驚きであった。自分がクラスの除け者ではないことを確認したのである。このことが、心の支えとなって、やる気に火がついた。それで、普通では考えられない真夜中の土方仕事をやってのけた。請川に通いながら、一日も学校を休まなかった。夜間仕事の代償で、当然のことであるが、授業中居眠りすることが多かった。それでも、通学だけはつづけた。

 単なる金かせぎの目的だけではとうてい、できるはずの無いものだった。そこには、自分の存在が認められたことが、このときのおさむにとって、計り知れない喜びであり、同時に強力な原動力となったのだ。



 新品の学生服と用具一式。クラスのだれにも劣ることのない準備を整えて、中学生活にはいった。

「おさむ、これ、お前書いたんか。字が違うようやけど」

 休憩時間、トイレから教室にもどったおさむに、学級委員のΚがいった。机の上に放りだしておいたノートを見られたのだ。

「どれどれ」

 ほかの連中も、寄ってくる。

「お前、このごろ頑張っとるなぁ。小学校のときと、えらい違いじゃ」

「おさむに、追い越されんように、しょらょ」

 おさむを囲み、口々にしゃべる。

 二年前の、母の警察さわぎ以来、おさむの周りには誰も寄り付かなかった。ところが、今はどうだ。やる気を起こし、わずか一学期が半分すぎただけなのに、この変わりよう。おさむ自身、意識して行動しているわけではないのだが、これまでと、まったく違う彼の態度が敏感にクラスのみんなに伝わっていたのだ。

 おさむは、勉強に精をだした。彼は、感情が非常に豊かなだけあって頭がいい。本気でやればクラスで上位につける実力を持っていた。すすんで発表するのは、もうひとつだが、試験では良い点をとった。それで、一学期の成績は、クラスで真ん中よりやや上という成果をおさめた。

 二学期になってからも、すべてがうまくいった。新しい友が何人かできた。遊ぶためだけの友ではなく、教科について話を交わすことのできる友達ができたのだ。学校においては、真剣に学ぼうという気持ちがいかに高く評価されるかを、身をもって知った。

 彼は、酔った。心地良い雰囲気に酔いしれた。

 これまで、永い孤独のトンネルを、黙々と歩いてきたおさむにとって、にわかに、目の前に現れたその出口は、まばゆいばかりに輝いていた。そこには、友との語らいがあり、先生の笑顔があった。

 ほかの生徒にしてみれば、それは、なんでもないことであったが、おさむにとっては、素晴らしい別天地に足を踏み入れた気分だった。

 ……この調子やったら、高校へも。

 ある日、ふとそんな考えが起こった。昼間働いて夜間通学する定時制高校のことは、要兄いから聞いて知っていた。大阪ガスに就職した兄は、いずれ、定時制に通うつもりだと意気込んでいた。おさむは、そんな兄を、

 ……要兄いは、秀才やから、あたりまえや。

 そう思っていた。同時に、

 ……オレは、勉強みたいなもん、どおでもええんや。からだで金儲したる。

 そう自分にいい聞かせていた。そのときは、近い将来、自分にもチャンスが訪れるなど、夢にも思っていなかったのだ。

 ……その、夢想だにしなかったことが、今現実に起こっている。自分でも信じられないような、素晴らしい状況が。

 おさむは、高校生になった自分の姿を想像した。夜など、時の経つのも忘れて、あれこれ、考えを巡らせた。 

 すでに、暗く悲しい過去は姿を消して、代わりに、燦々と降り注ぐ春の陽光にも似た、軽やかで、希望に満ち溢れた雰囲気が彼を支配していた。

 日が経つにつれ、高校への夢は現実味をおびていった。とうとうしまいに、

「オレ、定時制高校に入るんや」

 と、友達に、決意のほどを打ち明けたりした。同時に、勉強にも精をだした。一つの目標を決めると、とことん、やりとげる性分で、テストの度に点数があがった。そして、そのことが自信につながった。

 反面、当初クラスの仲間入りができたときの感激は、少しずつうすれていった。いや、ほとんど消えてしまっていた、というほうが、当たっていただろう。

 ……オレが、やる気だしたら、こんなもんだ。

 言葉には出さなかったが、そんな思いが心の隅に、ポツンとあらわれていた。この年頃にみられる中途半端な優越感というやつだ。



「こんにちは」

「ご免! ……おばさん、おらんのか」

「……」

 返事なし。

 見慣れた大きな掛時計が、ボーン、ボーンと午後二時を打つ。

 おさむは、店の裏にまわってみた。店とは棟を別にして居宅があるのだ。

「おばさぁん!」

 大きな声で呼んでみるが、やはり、返事がない。再び店先まで戻る。

 カサカサ軽やかな音をたてて、セロハンの紙屑が、乾いた道路を転がっていった。厳しい残暑で路面が痛いほど白い。遠くで、ガーゴ、ガーゴと、足踏式脱穀機の音。

 おさむは、店先に佇んで通りを見渡した。まったく人の気配がない。どこの家も、今が農作業の真っ最中で、家族総出で田んぼに出ているのだ。

 ズボンのポケットに手を突っ込んで五十銭銅貨数枚をもてあそんだ。この店でアメ玉を買うために用意してきた金だ。

 いつも来ている菓子屋。勝手知ったる店内。かすかにニッキの匂い。お目当てのアメ玉は奥の棚の上、ガラス容器の中だ。

「後で、また来るか……」

 アメ玉の入った容器を見てつぶやく。相変わらず、静かな店の中、振り子の音だけが、やけに大きく響く。

 そのとき、ふと、その単調なリズムが、出なおしてくるつもりで店を出ようとするおさむの耳に、

「お前ひとりだ。……誰もおらんぞ」

 と、ささやくように感じた。

 店先まで出て、道路を見る。相変わらず、人っ子ひとりいない。また、引き返して、店の奥へ。棚の前に立った。

 ……一回ぐらい、分かるもんか。

 突然、そんな思いが起こった。

 アルミの蓋に手をふれてみる。つまむと、簡単にフタが開いた。素早く、もう片方の手をビンのなかに突っ込んで、アメ玉を一掴み。それをズボンのポケットに。……二回繰り返した。息をころし、聞き耳をたてる。……何も聞こえない。耳にはいるのは、振り子の音のみ。

 ……これが、盗みか、……簡単なもんや。

 そう思った。

 急いで外に出る。表の道には人影なし。何食わぬ顔で歩く。五、六歩店から離れ、そこで駈け出そうとした。そのとき、

「おい、ぼお、ちょっと待て!」

 背後で呼び止める声。一瞬全身がこわばった。振り向くこともできない。

 ……見られた!

 からだのなかを、鋭い針が突き抜けたようなショック。声の主が近づいてくる。足音でわかる。やがて、身動きできず棒立ちになっているおさむの前に、中年の男が立った。恐るおそる顔を見る。どこかで見た顔だったが、どこの誰だか知らない。男は、今まで田んぼで仕事をしていたとみえ、麦わら帽子に手っ甲きゃはんという恰好。

「おじさんは、見たぞ。返してこい!」

「オレ、金もっとるんやけど、いくら呼んでも、おばさん居らなんださか……」

 おさむは、口のなかでブツブツいって、五十銭玉を男に見せた。

「そんなもん、言い訳になるもんか。はよ、盗んだものを返してこい」

 おさむは、無意識にアメ玉で膨れたズボンのポケットに手をやる。包み紙が音をたてた。

「わしゃ、連れてったる」

 男は、動こうとしないおさむの腕をつかんだ。

「おじさん、オレ、悪りかったよ」

「そうか、そう思うたら、二度とせんこっちゃ」

 そういうと、強引におさむを店のなかに引っ張り込んだ。

「ここで見よったる。ちゃんと返せよ」

 おさむは、あやつり人形のようにガラス容器の前に立ち、盗んだアメ玉を、もとに戻した。頭のなかが空っぽになったように感じた。

「ようし、それでよし。……ぼお、このこと知っとるの、わしだけやさか、黙っといたる。そやさか、これからは絶対人のもの取ったりしたらあかんぞ、ええな」

 おさむは、黙って頷いた。

 二人は、店を出て道路に立った。

「おじさん、……オレのこと……」

 おさむは、もう一度念をおした。

「心配すんな、内緒にしといたる。ぼおも、悪かった思とるんやろ」

 おさむは、走った。一刻も早くその場から離れたかった。走りながら、

 ……えらいこと、してしもた。もう、ゼッタイしたらアカン。あんなこと、したらアカン。何回も心で繰り返しながら走った。

 息せき切って家に駈けこむ。うまい具合に誰もいない。今は、家族と顔を合わせたくなかった。無意識に、玄関の戸をしめる。

 ……ちくしょう! あんなことして。

 土間に突っ立って呼吸をしずめる。くやしさと、腹立たしさが、ごちゃごちゃになってこみ上げてきた。ただ、“緒にしといたる〟いった、あのおじさんの一言が、唯一の救いだった。

「もうこそ、あんなこと、……ゼッタイするもんか」

 おさむは、家族のだれにも何もいわなかった。いえば多少は楽になるかもしれなかったが、すべてが無かったことになるのであれば、このまま、やり過ごすのが、家族にとっても一番いいことだと自分にいい聞かせた。その夜は、ろくに眠れなかった。

 翌朝、初めて学校に遅刻した。昨日の事でそうしたのではなく、その日の早朝、特別な用事が飛び込んできたからだ。


「中岸、中岸おさむ」

「……」

「中岸は、来とらんのか」

「よし、……次、久保」

 学校では、おさむのクラス担任が出欠をとっていた。一通り名前を読み上げたあと、出席簿を閉じた担任教師は、神妙な表情で教室内を見渡し、

「えー、授業に入る前に、ちょっと話があります。……きょうは、本人欠席だが、実は、残念なことに……」

 担任の話がつづく。クラスにどよめきが起こった。

「えー、おさむが、……ほんまに、あいつが……」

 そのころおさむは、請川村にいた。いつも賃仕事をくれる大切な園田トクから、のっぴきならない用事を頼まれ、急用でもあったので目的の家を目指し走っていた。このときの彼には、今、教室で何が起こっているかなど知る由もなかった。

 ……早やいとこ、学校に行かな、えらい遅刻じゃ。

 やっとのことで、頼まれた用を済ませ、本宮村まで走って帰った。目前に、きのうの菓子店が見えた。走るのをやめて立ち止まる。学校までは一本道だ。どうしても店の前を通らねばならない。

 ……だれも、知らんのだ。盗んだアメは、ちゃんと返したし、何も変わったこと無いんじゃ。

 そう思った。

 小走りに、店の前を駆け抜ける。ちらっと横目で見ると、二、三人の客が目にとまった。

 ……あのおじさんが、約束してくれた。だれも、知っとるもんはおらん。

「えらい、遅刻じゃ」

 そう呟いて、学校への坂道を駆け上った。

 教室では、二限目の授業が終わりに近づいていた。

 おさむは、教室の後ろの引き戸を静かに開けた。注意してゆっくりやったが、それでも戸車がゴトゴトなる。その音に、クラス全員が一斉に振り向いた。黒板に何やら書いていた担任も振り向く。

 おさむと目が合う。

「あのぉー、」

 おさむは、遅れた理由をいいかけて、つぎの言葉をのんだ。担任が、一瞬彼を見ただけで、直ぐ黒板に向かったからだ。あれっと思った。いつものように、遅刻の理由を聞こうとしない。こんなことは初めてだ。違和感を感じながら、とにかく、自分の席についた。教室のあちこちから、何かささやくような声。誰も、自分を見ようとしない。意識して、そうしているようだ。

 ……いつもと様子が違う。なぜなんだ。

 はっと、からだが、こわばった。

 ……まさか、まさか昨日のことが、……そんな筈ない。あれは内緒という約束だ。

 机の上に、勉強道具を取り出す。社会の授業だ。担任が黒板に年表のようなものを書いている。チョークの音だけがカチカチ鳴る。生徒は、だまってそれをノートに書き写している。

 静かだ。異常に静かだ。

「ノートをとりながら、聞いてくれ」

 静かな空気を破って、担任の声。

「ちょっと、みんなに、いっておくことがある。……えー、大変残念なことであるが、昨日、本校在校生が、ある商店で盗みをしたことがわかった。これは、本校にとって非常に不名誉なことであります」

 担任は、そこで一旦言葉をとめた。クラス全員がノートをとるのをやめて先生の顔を見つめる。

 おさむは、鉛筆を握ったまま、からだが動かなくなった。クラスみんなの視線が自分に集中しているように感じた。

「このクラスには、そういう生徒はおらんと思うけど、一度このようなことがあると、どんな些細なことで、村の人の誤解をうけることがあるやもしれん。諸君は、行動には充分気ぃつけてくれるように」

 ……まちがいない。……オレのことだ。

 からだじゅうに汗が吹く。きのうの男の顔が浮かぶ。内緒にするといった声が耳元で、幾度もよみがえる。

 ……あの人は、オレにウソついた。すぐ学校に知らせたんだ。それに、この様子じゃ先生だけじゃなく、クラス全員が、いや、学校全体に知れ渡っているにちがいない。せっかく、なにもかも、うまいこと行きよったのに、……もう、ダメだ。

 おさむは、ノートをとる姿勢のまま動かない。いや、動こうにも動けなかった。みんなの視線でがんじからめに、縛られている感がした。

春の闇



一 

 おさむは、庭先に佇んで、雨にけむる七越峯を呆然と見ていた。万引が露見してから既に二か月。 ……秋が深くなっていた。

 この間、彼は、たびたび学校を休んだ。行っても、面白くないのだ。登校して、一度も口を開かない日がつづいていた。たまに話をするときは、のっぴきならない連絡事項の場合だけ。徹底した無視は、いつまでも続いた。たいがいは、日が経てば、少しは薄らぐものだが、一向に変化がなかった。

 話題の少ない山あいの村のこと、この種のことは絶好の話のタネだ。また、事実が誇張されて、人々の口にのぼることを常とした。

 おさむの、万引きしたことが引き金になって、殆ど消えかかっていた母もとゑのことまでもが、再びむしかえされる結果になった。それで、おさむ自身の、学校における無視に加えて、母にも、少なからず影響がでていた。これは、中岸家にとって、重大な問題だった。それまでは、作れば必ず売れていた母の藁草履が、まったく売れなくなってしまった。売りに行っても、以前のように、気持ちよく買ってくれない。

『ぬすっと親子の草履なんぞ、履けるもんか』

 ということらしい。一、二度そんな目にあうと、もとゑは出かけなくなった。

 これまで、草履を売ることで、日常の入り用をまかなってきた。

父松一が、年に数回、山奥泊り込みの仕事で稼いだ金は、手に入った途端借金払いに消えた。


「おさむ、今日も学校行かんのか」

 いつまでも、庭先で立ちつくしているおさむに、もとゑは家から出てきた。いつもならこんな雨の日は、納屋にこもって、得意の草履作りに精をだす彼女だったが、今はその必要もない。

「行っても、おもしろないさか」

 もとゑは、それには何もいわず、黙っておさむの横顔を見る。

「おれ、園田のおばさんとこ、行ってくる」

 おさむは、まっすぐ前を向いたままいった。村の人たちの冷淡な目のなかで、園田トクだけは、以前と同じように接してくれていた。それは、中岸家にとって唯一の救いだった。

「こんな雨降りに、手伝いの仕事ら、あるもんか」

「家で、なーんもせんと、じっとしとっても、しょないわだよ」

 おさむは、このところ、金のことばかり考えていた。

 ……ちょっとでもようけ、賃仕事して金つくらな。

 自分が原因で、何もかも狂ってしまった。その事実は、いくら悔やんでも、どうしようもないことだった。それで、なるだけその現実を忘れようとしていた。忘れるためには、それに代わる何かが必要だった。ただ、じっとしていることが耐えられなかった。何かすがりつくものが欲しかった。今の彼には、園田トクおばさんの処で手伝いして小銭をもらうことが唯一の支えになっていた。そうすることで、少しでも嫌な現実から離れられる、そう思っていた。

 おさむは、穴だらけのボロ傘をさして、石段をおりた。紅葉した木の葉が、雨に濡れて石段にへばりついている。踏むと滑るので用心しておりた。

「ぼおか、……学校休んだんか」

 園田トクは、早くも火鉢を前にして針仕事をしていた。晩秋の雨は冷えるのだ。

「どうも、行く気になれんでのお」

「まだ、みんな、ものいうてくれんのか」

「そんなこと、オレ、慣れとるけど、……母やんの草履売れんようになってのぉ。金が心配で……」

「そういうたら、もとゑ姉も、そんなこというとった。村の衆も、みょうなことするのお」

「おばさん、土方かなんぞ、ないやろか」

「ぼお、土方する気か?」

「土持ち専門やけど……」

「あゝ、そうか。去年、夜さ請川行きよったんじゃのぉ」

 彼女は、縫物を脇に押しやり、おさむの居る縁側に出てきた。

「すまんけどな、あの柿落してくれや」

 そういって、庭先の大きな柿の木を指さす。

 おさむは、長い竹竿で作った柿取棒で、熟した柿の実をもぎとった。トクは、その中から十個ほど選りだして袋に入れ、

「これ、家行て食えよ」

 そういって、袋を差し出す。

「仕事なぁ……土方の。何ぞ聞いたらいうたるさかいにのぉ」

 帰りかけたおさむに、トクはいった。

 それから、二日経った夕方、おさむが、学校から帰ると、園田トクが来ていた。

「きょうは、学校行ってきたんか」

 トクは、おさむの顔を見るなり、いった。

「たまにゃ、行かな」

 おさむは、奥の部屋に入って、肩掛けカバンを隅に放り投げた。今の彼には、勉強道具など、どうでもよかった。だが、学生服だけは大事に衣文かけに吊るした。

「ぼお、こないだの話やけどな、ほれ、土方の」

 トクは、竈の口に腰かけて、手を火にかざしながらいった。

「おばさん、なんぞ、あったんか?」

「きょう、魚売りから聞いたんじゃが、里の道えらいこと工事するらしいぞ」

「いつから?」

「年明けかららしいけどのお」

「請川みたいに、夜さの砂利持ちあったらええんやけど」

「ぼお、いっぺん、区長さんに聞いてみたらどうなよ」

 トクは、いいこと思いついたといわんばかりに、大きな声でいった。

「わしらみたいに、村八分にされとるもんに、区長さん相手してくれるかのぉ」

 それまで、黙って二人の会話を聞いていたもとゑは、気だるそうにいった。彼女は、季節が冬に移るころになると、持病の神経痛がでて痛がった。それで、気持ちが落ち込んでいるのだ。

「もとゑ姉、なにいうんじゃ。お前ら思うほど世間の人は悪りぃことないんじゃ。同情して呉れとる人、わしゃ、ようけ知っとるぞ。そやけど、みんな黙っとるさか、わからんだけなんじゃ。あんまり自分から拗ねたりしたらアカンぞ」

「トク姉に、そういうてもろたら、うれしいけどのぉ」

 もとゑは、そういって痛む両手をさする。

「ぼお、区長さんとこ、わしゃ一緒に行ったろか」

「おばさんが……」

「どんなことするんか、聞くだけじゃ。ぼおに出来るような仕事あったらええし、なかっても元々じゃ。どうな、今から行ってみよらよ」

「すまんのぉ、トク姉」

 もとゑは、トクに心から頭をさげた。

「そしたら、オレ、着替えるさか」

 おさむは、急いで学生服を着た。区長には会ったことがない。どんな人か知らない。

 ……おそらく、オレのこと知っとるはず。

 だから、余計にちゃんとして行かなあかんと思った。

 二人は家を出た。

 村は、幾つもの山を背にしている。それで、四季をとおして午後三時を過ぎると陽がかげる。晴れた日は、正面の七越峯が夕日で紅く染まる。その反射でかなり明るい。だが、きょうのように曇った日は、まさに暮れる寸前のような感じだ。本当の日没ではないので、暮れそうで暮れない。そんな時間がしばらくつづく。

 おさむは、トクのあとから区長宅の門をくぐった。

 その夜、おさむは、なかなか眠ることができなかった。掛時計が十二時を告げた。神経がたかぶっていた。さっき初めて会った区長の顔が幾たびか浮かんでは消えた。

 逆三角形の顔に小柄な身体。痩せているので彫りが深く見える。日焼した顔に大きな眼。きりっと真一文字に結んだ口元。一見、学者か僧侶を思わせる風貌だ。

「君が、中岸君か」

 そういって、静かに見つめる双の眼には、何もかも包みこむようなやさしさが感じられた。

「きみ、若いときの過ちは、これからなんぼでも取り返しがつく。世間の人は、そのときのことだけしか話さんよってな、それに負けたらあかんぞ。きみが、六年のとき、真夜中、請川へ砂利持ち行ったのを、わしゃ知っとるぞ。今度の工事は村の監督じゃ。やる気あるんやったら、しっかりやれ。わしゃ保証したる」

 園田トクの説明を聞いた区長は、おさむをじっと見つめていった。予期しなかった区長の言葉。おさむは、正座したからだを更に硬直させて、即座に声がでなかった。ひさしく、いや、生まれてこのかた、これだけ親身に話しをしてくれた人がいただろうか。

 ……区長は、このオレを理解してくれている。学校でも、のけもんにされているオレみたいなもんを。

 おさむは、唇を固く結んで、只々頭を下げ、頷いた。どうしても、ことばが出なかった。おおきにと礼をいえば、涙があふれるのがわかっていた。

 区長の説明では、村が主体の工事とは、在所の真ん中をよこぎっている国道の嵩上げ工事だった。本宮大社の前から、旧社地大斎原付近までの、おおよそ五百メートルの区間は、路面が極端に低く、そのため、大水がでると何時も冠水し、通行不能になっていた。これの解消が目的だった。


 工事は翌年春から始まった。

 おさむは、納屋の隅から請川で使った特製モッコを取り出し、傷んだところを修理した。

 一年前、請川で砂利持ちをしたときは、他人の目を気にした。夜中に行って、夜が明ける前に帰ってきた。もちろん、距離が遠かったこともあったが、他人に自分の姿を見られるのが嫌だった。それで、手拭いでほうかむりしたものだった。

 ……今度は違う。

 そう思った。

 もう、ほうかむりの必要もない。他人に見られても平気だと思った。わずか一年の間に、彼の精神が大きく成長していた。成長というよりは、一種のマヒ状態であったかもしれない。とにかく、今のおさむには、心に支えがあった。それが自信につながった。

 ……区長が、このオレを認めてくれている。

 このことが、彼を強くした。学校での無視もさることながら、他人の目も何でもないと思った。他人にどのように見られようと、オレには、オレを本当にわかってくれている人が居る。このことが、何にも勝る大きな支えであった。

「おさ兄い、また、夜さ仕事するんか」

 六年の祥子が、母を手伝って夕飯の支度をしながらいった。

「おまえ、もうすぐ中学やろ。金ようけ要るさかなあ」

「父やん、山仕事行きやるのに」

「父やんは、休む時のほうが多いさか、あかんのや」

「夜さ、仕事して、学校も行くんやろ。眠たないか」

 父松一は、例によって、竈の口で胡坐をかき、黙って、キセルをスパスパやっている。

 やがて、家族五人が貧しい食卓を囲んだ。もとゑは、神経痛が痛むのか、両の足をのばしたまま座る。

「おさむ、おりゃ、山仕事しかでけんさか、すまんのぉ」

 松一は、元気のない声でいった。去年の暮から、山仕事の無い状態が続いていた。

「父やんは、土方ようせんのやさか、しゃないわだよ」

 おさむは、父をいたわるようにいった。

「おさむに、面倒みてもろて、かーやん、まったくすまんわよ。こらえてくれよ」

 持病の神経痛が思わしくないもとゑは、感情の起伏がはげしく、すぐ涙ぐむ。

「そのかわり、母やんには、夜中に起きてもらわなあかんし、朝は、現場まで来てもらわなあかんさか、足痛いやろけど、たのむぜ」

 おさむは、つとめて明るく振る舞った。

「朝、現場行くんか?」

「うん」

「家で朝飯食うて、学校行くんと違うんか」

「そんなこと、しよったら、時間もったいないわだ。家に来る間に一荷でもようけ、砂利持ったら、その分一円ようけもらえるさか」

「おまえ……」

「オレ、七時半まで仕事するよって、その時間に、朝飯持って来てほしいんや。音無川の河原で飯食うて、着替えして、その足で学校行くさか」

「すごいことするな、おさ兄い」

 祥子は、びっくりした顔で兄を見る。

「そりゃそうじゃ。金もうけに行くんじゃさか、それくらいやらにゃ」

 おさむは、そういってみんなの顔を見た。

「おさむが、そんなに頑張ってくれるんじゃったら、おれも薪作りに行こかいにゃ」

 松一は、めずらしいことをいった。彼は、材木を扱うプロであって、そのことにかけては他人に負けない自信を持っていた。それで、材木以外はおれの仕事じゃない、と、決めていた。これまでも、家で使う薪を調達するぐらいはしていたが、小銭かせぎのための仕事としては絶対しなかった。焚き木作りみたいなもんは、おれのする仕事じゃないと決めていた。

 先日も、燃料を専門に扱う店から、薪作りの話がきたのだったが、生返事をしただけで、一向に動こうとしなかった。その彼が、金もうけ目的で薪作りをするといいだしたのだ。

 つまりは、わが子の、それも、まだ中学生にすぎないおさむの、異常とも思える根性に、親として、自分の意地を通すわけにはいかなかったのである。

 おさむは、このところ、彼専用になっている四畳半で、早めにふとんにもぐった。一年前、請川へ行ったときのことが思い出された。

……あのときは、不安で、なかなか眠れなんだ。ただひたすら、中学入学だけを目標にしていた。うまくやれるだろうか、との不安もあった。真夜中、墓の前を、父の地下足袋を履いて駈け抜けたものだった。

 ……オレは、孤独だ。

 今の彼の只一つの救いは、区長の言葉。『なにも気にせんと、しっかりやってくれ』といってくれたその言葉が、寂しく暗い心に一条の光を投じていた。

 勉強道具と学生服を風呂敷に包み、今夜に備えて枕元に置いた。いくら無視されても、からだの続く限り登校だけはする決心をしていた。



二 

 早春の真夜中。工事の起点である私語橋のたもと。幾つもの裸電球が明々と点るなかに、数十人の人影が一塊になって闇のなかに浮かんでいる。

「みんな、今から、胴入れ作業するさか、よー聞いてくれ」

 区長は、現場の盛り土の上に立って、集まった人夫衆にいった。その周りを作業員が囲む。ほとんどが中年のおばさんだ。男は、おさむをいれて三人だけだった。

 おさむは、その一番うしろに立った。一年前より背が伸びて、おばさんたちの頭の上に目があった。いで立ちは、松一の帽子を被っているので、どうみても中学生には見えない。立派な大人の体格だ。

「あっちを見てくれ」

 区長が指さす方向に、およそ二十メートルほどの間隔をおいて、裸電球の帯がつづく。その終点が一段と明るい。

「そこの、桑畑の畦を通って、じゃりを運んでもらう。一番奥で、ようさん電気点いとるところが堀場じゃ。土砂が固まっとるさか、はじめに起こしといたほうがええぞ。それから、運ぶ時にあわてて川に落ちんようにせえよ。かっこ悪りいさかのお」

 区長の説明に、笑い声が起こる。彼の背後には、大きな桜の木があり、横に伸びた一番下の太い枝にも電球がぶら下がっている。その枝には、まだ開きそうもない無数のつぼみが、春の闇に裸電球の光を浴びて浮かんでいる。

「それから、もう一つ」

 区長は、厚紙の券を右手に掲げ、

「みんな、券入れ袋持ってきたな。首からぶら下げとけよ。一荷運んだら、おれがここで、一枚ずつこの券渡すさか。袋に入れとくんじゃ。落とさんようにな。一枚一円の券じゃ」

 このやり方は、請川のときと同じだった。ただ、一荷の運び賃が上がって一円になっていた。

「よし、それじゃ、これから作業にかかってもらう」

 区長の号令で、人夫の塊がばらけ、作業開始。

 おさむは、学生服と勉強道具を包んだ風呂敷を、桜の枝に吊るした。

 担い棒を肩に、桑畑の畦道を走った。堀場は、川の流れがわん曲した内側で、かなり広い河原になっていた。泥混じりの砂利だ。大水がでるたびに険しい山の斜面を削り取って運ばれてきたもので、無数の樹木の枝も一緒に固まっている。

 人夫たちはそれぞれ好みの場所に陣取り、掘り起しを始めた。おさむも、運ぶのに一番効率の良さそうな場所を選びスコップを入れる。掘るコツは請川で体験済だ。

 二つの箱に砂利を入れる。担い棒を肩に、腰を入れグッと持ち上げる。ズッシリと重い。請川での感触が全身に蘇る。持ち上げて、一瞬立ち止まり、荷のバランスをとってから、小走りに駆ける。歩いてはダメだ。前後の荷の揺れに歩調を合わせる。無駄な労力を極力はぶくやり方だ。これも、請川で身につけたもの。

 決められた場所に、砂利を降ろし、区長から券をもらう。それを、首にぶら下げた袋に入れる。

 ……一円!

 心で、叫ぶ。

 一荷運ぶたびに一円。確実に金が自分のものになる。荷を担いで桑畑を走るとき、この券が目に浮かぶ。一枚でもようけ券が欲しい。その思いが大きな原動力となる。

 はじめは、一枚二枚と袋の中にたまってくる券を数えながら運んでいたが、十枚以上になると、面倒くさくなって、ただ、袋のふくらみだけを確かめながら運んだ。人夫のなかには、掘り場で休むものも居た。女の人には、真夜中の労働はこたえるのだろう。

 おさむは、夜が白々と明けるまで一度も休まず運んだ。若い身体は、まるで疲れというものをしらなかった。自分でも、どうしてこんなに頑張れるのか不思議な気がした。

「えらい、頑張るのぉ。だいじょうぶか」

 区長はそういって、おさむに券を渡してから、桜の枝に取り付けた電球のスイッチをきった。

 ……夜明けだ。

 胸の袋をつかんでみた。もう、ほとんど満杯だった。

 ……母やん来るまで、もうひとがんばりや。

 すっかり明けた桑畑を急いだ。一晩できれいに踏み固められた畦道。草がなぎ倒され、夜通しの戦いの跡をしめしている。掘り場では、休む人はいない。夜の作業は午前八時で終わる。最後の追い込みとばかり、みんな必死だ。

 明るくなった小川。掘り場の前は小さな淵になっていて、小魚が見える。今は、川幅の四分の一ほどの水かさだか、雨が降ると一杯になる。その水量を利用して、山の奥から材木を流す。去年の秋、父らが刈り川したのが、この川だった。刈り川とは、水嵩の増した河川に材木を浮かべ下流へ運ぶ作業だ。

 おさむは、一枚でも多く券をもらおうと、川べりの畦道を走った。何回か運んだ時、母の姿が目にとまった。

 もとゑは、遠慮がちに、現場からすこし離れたところで、風呂敷におさむの朝飯を包んで立っていた。

 区長から、この夜の、最後の券をもらった。

「中岸君の分、勘定やな」

 区長は、現場に設置されている小さなテントに入った。簡単な机と椅子がある。夜が明けるまで気付かなかったが、ここが賃金の支払い場所なのだ。

「えーと、君の券、自分で数えてみてくれ」

 おさむは、袋の口を開けた。一杯詰まってなかなか出てこない。

「中岸君、あしたから、もっと大きな袋じゃなけら、あかんにゃ。君はなんせ、ちょっとも休まんと運ぶんじゃさか。みんなのうちで、一番多いぞ」

 一枚二枚と慎重に数えた。胸おどる一瞬だ。

「全部で、八十七枚」

 券を十枚ずつに分けて、机の上に並べた。

「おー、ようけあるのお。どれどれ」

 区長も、数を確かめる。

「よし、まちがいない。八十七ある」

 そういって、腰にぶら下げた皮のカバンから十円札八枚と、一円札七枚を取り出し、

「確かめてくれよ」

 と、いった。

 おさむにとって、生まれて初めての大金だった。紙幣なのに重みを感じた。

「あります。おおきに」

 自分の力で稼いだ金なのに、何もしないでもらったように思った。

 桜の枝に吊るした学生服の包を持って、母の待つところに走る。

「えらかったなぁ、からだ、大丈夫か?」

 もとゑは、おさむの顔を見るなり、心配そうにいった。

「朝飯、どこで食う」

 おさむは、辺りを見渡した。現場事務所から少し下手の音無川川原に、いいところがあった。

「あそこの、川原へ行こら」

 母と子は、せまい道を川原へ降りた。そこは、大きな竹藪がしげっているので、工事現場からは見えない。

「ここ、ええなぁ、母やん。毎朝、ここで待っといてくれるか」

 おさむは、どぎまぎしている母に、そういって、一晩のうちに泥と汗で汚れた作業着を脱ぎ、流れで顔を洗って学生服に着替えた。

「おさむ、お粥さんで、すまんけど……辛抱してくれよ」

 父松一が、山で稼いだ分は、年末の借金払いと、ささやかな正月準備に消えてしまい、家には、ほとんど現金がなかったのである。

 もとゑは、風呂敷をといた。小さな鍋が出てきた。茶粥を鍋に入れて持ってきたのだった。茶わんに五杯ほどの分量が入っていた。おかずは、干しサンマの焼いたのが半分。

「このまま食べたらいいと思てのぉ」

 もとゑは、そういって鍋をさしだす。

「母やん、足痛いのに、持ちにくかったやろ」

「おまえの苦労に比べたら、這いもて来ても、えらいとは思わんよ……それよか、お粥さんで、すまんのぉ」

 おさむは、一口茶粥をすすってから、金を渡してないことに気付き、食いかけた鍋を置いて、作業ズボンのポケットからお札を取り出した。

「母やん、きょうの分や。八十七円あるぞ」

「おおきに、おおきに、……おおきによ」

 母は、遠慮がちに金を受け取った。双の眼に涙があふれ出る。彼女は、それを拭おうともせず、放心したように、渡された手のなかの札を見つめている。うれしさよりも、いいようのない、切ない気持ちが、からだじゅうをかけめぐっていた。

「どこも、からだ、痛いとこ、無いか?」

 もとゑは、ようやく、夢中で鍋の茶粥をかきこんでいるおさむにいった。

「ちょっと、肩痛いぐらいや。たいしたことない」

 そういって、鍋を空にした。

「おれ、学校行くさかに」

 もとゑは、だまって頷いた。そして、おさむが歩きかけたとき、思いついたように、

「おさむ、これで、学校の帰りに米買うてきてくれんか」

 そういって、八十円さしだした。

「かまんのか」

「おまえの朝飯、茶粥じゃったら腹持たんわだよ。七円だけもろとくさかにな」

 おさむは、何もいわず母の顔を見つめた。

「おまえの、食べる分だけ炊く米じゃ。からだ、しもたったら、なんにもならんさかのぉ」

 今の、彼女にできる精一杯の、わが子に対する心くばりだった。


 全身の力を振り絞って、河原にスコップを打ち込む。ガシュッと深くめり込む。急いで二つの箱に砂利を詰める。そこから桑畑の畦道にとびあがるように駆け上がる。首にぶら下げた券入れ袋が胸で躍る。そのはずみで、あふれんばかりに詰まった券が袋から飛び出す。必死で袋を押さえようとしたとき、バランスを崩して、足を踏み外した。 ……しまった、落ちる!

 そう思ったとき、誰かが自分を呼ぶ。

「おさむ、時間やけどのぉ」

 母の声だ。

 ……夢、か。

 目を覚ます。母の顔が近くにあった。ぼやけた意識が、少しずつはっきりしてくる。だが、半分は未だ夢のつづき。

「なんぞ、夢見よったやろ」

「うん、砂利持って、走りよった」

 川に落ちかかった夢だとは、いわなかった。気の小さい母が余計な心配をするからだ。

「そろそろ、起きるか」

 おさむは、そういいながら、ふとんのなかで、大きく四肢を伸ばした。もとゑは、台所へ。

 ……しぉーし、やるぞ。

 そう思って、起き上ろうとするが、すぐには身体がいうことをきかない。全身がまるで、枯れ木になったように固い。へたに動くと、からだじゅうの関節が、折れるか、外れるような気がした。

 請川での砂利持ちも、そうとうこたえた。しかし、今のに比べるとと、のんびりしていた。あのときは、大将の指示もあって、休みながら持った。また、一日おきに出かけた。運ぶ回数も今の半分ぐらいだった。小学生には少しきついが、アルバイトという範囲を超えるものではなかった。目的は、中学入学。その準備さえできれば、それで良かったからだ。

 ……今度は、バイトじゃない。家族のための金儲けだ。

 おさむは、絶えず“金儲け”いう言葉を心のなかでいいつづけていた。自分の浮ついた気持が引き起こした万引。それによって孤独の谷間に転落した。同時に、学問も断念。のみならず、家族まで村八分の立場に追い込む結果となった。

 ……おれが、家の面倒をみるんだ。

 この思いが、全ての原動力となっていた。

「どしたんな、起きれんのか」

 おさむが、ふとんから離れないので、台所でおさむの朝飯の握りを作っていたもとゑが、様子を見に来た。

「だいじょうぶや、すぐ起きるさか」

「ぶっ続けで五日めやさかのぉ……ちょっと、中休みしたらどうな」

 もとゑは、心配顔でいった。

「今、休んだったら、からだの調子が元にもどってしまうさか、あかんわだよ。 ……やりまくったらな」

「そやけど、おまえ……」

「大丈夫やて」

 ふとんに仰向けのまま、起きようとするが、腰が動かない。それで、横向きになって這うようにして、どうにか、ふとんの上に座った。全部の関節が、油のきれた蝶番のようにギシギシ音をたてるように感じた。

 ……これを乗り切ったら、あとは楽になる。

 そう思った。

 次の日から、券入れ袋を、大きなものに取り換えた。ブラブラして邪魔になるので、袋の両端にヒモをつけ、それを胴体に結んだ。ちょうど、金太郎の腹巻のような恰好だ。これは、具合がよかった。

 おさむは、走り続けた。毎晩、八十荷以上運んだ。作業開始から終了まで、一度も休憩をとらず、機械人形のように、掘場と現場を往復する。これには、ほかの人夫たちも目を見張った。

 いくら若いとはいえ、限度を超えていると思った。区長も舌を巻いた。

「若いもんは、向こう見ずじゃさか、いまに、くたばるぞ」

 人夫連中は、そういって、おさむを見ていた。区長も、そうなっては元も子もないと心配した。ところが、一週間経ち、十日経っても、おさむのペースはくずれない。反対に、益々勢いづいてさえいた。

 事実、彼が一晩で獲得する券の数が、当初の八十枚台から九十を超え始めたのである。そんなある日、とうとう肩が裂けて血をふいた。肩当の布が薄かったこともあるが、度を越した酷使に若い皮膚が耐えられなかったのだ。勘定のとき、区長にいわれて、はじめて、自分の肩の出血を知った。それまで、何の感覚もなかった。

 母が川原に来て、作業服を学生服に着替えるとき、乾きかけた血のりがこびりついていて、脱ぐのに一苦労した。

「かわいそうにのぉ」

 もとゑは、出血を見るなり、その場に座り込んでしまった。川原に両手をつき、声をあげて泣いた。

 毎晩、真夜中に、まだ中学生のわが子を起こすことは、母親として身の細る思いだった。機嫌よく出かけるおさむの、うしろ姿に、いつも手を合わせていた。

 ……おさむ、無事でな。

 もとゑは、ただ祈るほか、なすすべがなかった。毎日が、いや、毎晩が祈りだった。彼女の神経は、日に日に、細くなっていった。

「母やん、オレ、ちょっとも痛いことないぞ」

 おさむは、上半身はだかのまま、握りめしに食いついた。母を元気づけるためにいったのではない。本当に痛みを感じなかったのだ。

 このときすでに、彼の肩は、筋肉がそうとう分厚く盛り上がり、多少の出血ではビクともしない状態になっていたのである。

 やがて、工事現場事務所横の桜が、ほころびはじめた。工事にかかって、一か月近い日が経っていた。なかで、三日大降りの雨にみまわれ休んだほかは、おさむは、自分の都合で一晩も休まなかった。すでに誰も、おさむを見て、陰口をたたく者はいなかった。彼の、人並み外れたど根性が評価されはじめていたのだ。

 ……だいぶ、からだ、固まってきたぞ。

 おさむは、波に乗ってきた自分のからだを確認した。

 はじめのうちは、あれほど神経をすり減らしていたもとゑも、この頃になると、当初ほど心配しなくなった。

 そんなある日の午後、学校から帰ったおさむが、いつものように夜の仕事に備えて昼寝をしようと、自分専用の四畳半の部屋に入った。寸暇をおしんで睡眠をとるため、ふとんは敷きっぱなしにしていた。一歩部屋に踏み込んだおさむは、ギクッとした。見ると、自分のふとんの上で母が背を丸めて泣いているではないか。父は、薪つくりに行って留守。祥子と公は、下の畑で遊んでいた。

「母やん、どしたんな! どこそ、具合でも悪いんか?」

 おさむは、カバンを投げ捨てて、母の背に手をあてる。

「おさむか、……お帰り」

 もとゑは、それだけいって、顔をあげようとしない。

「どしたんなよ。腹かなんぞ、痛いんか」

 もとゑは、あいかわらず、顔をふとんに伏せたまま、しぼりだすような声で、

「おさむ、母やんは腹立つ、くやしいんじゃ。……なさけないんじゃよ」

 母が病気でないことが分かり、ひとまず安心したが、よっぽど大きなショックを受けたようだ。

「何があったんじゃ、いうてみいよ」

 母は、顔を伏せたまま、ふとんに両手をついて上体を起こした。突っ張った両手で、ふとんの端をわしづかみにしている。

 手の甲には血管が浮き上がって微かに震えているではないか。このときの彼女は、ことばにならない悔しさで、からだじゅうの血が激流と化していた。

「さっきな、農協まで魚の配給を貰いに行ったときな、ある人からな、〝わしら、中岸さんみたいに、わが子を牛や馬みたいに、よう使わんわ。いくらなんでも、そんな惨いことようせんわよ〟って、面と向かっていわれたんじゃ。それも、笑いもてじゃど。かーやんはな、たいがいのことは、村の衆にあれこれいわれても、平気じゃったけど、おまえのこと、あんないわれかたしたら、辛うて、辛うて、辛抱でけんのじゃ!」

 おさむの、真夜中の土方仕事に、一番気を遣っていたもとゑにとって、心ない村人の一言が、彼女の心をズタズタに引き裂いたのだ。

「母やん、何ともないって、オレも学校で独りなんや。そやけど、辛ないで。区長さんみたいに、ちゃんと、オレらのこと判ってくれとる人おるもん。オレ、がんばって、今に、みんなを見返したるさか、気にすんなよ」

 もとゑは、おさむの言葉に、ようやく、ふとんに伏せた顔をあげ、キッと壁を見つめた。

「それより、今晩も仕事じゃ。ちょっとでも寝たいさか、そこ、よいてくれよ」

 もとゑは、わが子の膝に泣き伏した。 

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