第2話 空腹
吸いがら
昭和二十一年、夏。
「ババーン」
突然、大きな音が起こった。夕暮れとともに、請川村(うけがわむら)河原で、各村連合の花火大会がはじまったのだ。
ジリジリ焼けつくような昼間の熱気が、川面をわたる川風のおかげで、心地いい涼風にかわった。すこし肌寒さを感じる。……すでに初秋のけはい。
おさむは、要と二人で庭先に立って、暮れかかる空に絵もようをえがいては消える、早打ち花火を見ていた。
家は、村の高台で百八十度展望がきく。眼下には、大峰山系を源流とする熊野一の大河、熊野川が大きく湾曲して、北から南の方向に、ゆったり流れている。その流れが、対岸に聳える七越峯のすそを回って見えなくなるところが請川村だ。村の堤防の外側は、たいそう広い河原になっている。花火は、そこから打ち上げられていた。
この夜、近くの村から、おおぜい見物客が集まった。ゴザや座布団を脇に抱え、弁当、酒を持ち寄っての、お祭り騒ぎ。なかでも、一番上等の見物場所は、河原近くの小学校運動場だ。人々は我先にと、持ってきたゴザを敷いて場所をとる。それを囲むように、露店がいくつもならぶ。大人たちは酒に酔い、こどもたちは嬉々として走り回る。娯楽の少ない山間いの人々にとって、一年中で、もっとも心おどるときだ。
次々に炸裂音が、まわりの山にこだまして早打ちがつづく。その音を聞きつけて、祥子が、公の手を引いて家から出てきた。二人の兄の横にならぶ。
「わぁ、きれいや」
祥子がいうと、三才の公は、「ワー、ワー」と指さす。
近所には人の気配がない。みんな請川へ行ったのだ。
要とおさむは、黙って、咲いては消える打ち上げの大輪を見た。二人とも、心のなかでは、請川へ行きたくてたまらなかった。目当ては露店だ。だが、それができないことは百も承知していた。だから、ただ黙って佇(たたず)んでいる。
「要兄い、あしたの朝、おれと一緒に行ってくれんか」
打ち上げが一服したとき、おさむがいった。
「吸いがらか……」
「うん、……ようけ落ちとるやろ。よう拾わんほどあるぞ」
「あゝ……」
要は、気のない返事を返した。彼は小学六年で、いくら両親のためとはいえ、恥ずかしさが先にたった。しかし、夜の明けないうちなら、誰も見ていない。請川までは、歩いてなかなかの距離だし、弟の相手をしてやってもいいと思った。
「要兄いがいっしょやったら、暗いうちに行こらよ、だれにも見られんうちに」
兄が一緒に行くことになって、おさむは、いくらか気が楽になった。
おさむは、花火よりも、いくつもの裸電球が灯る真昼のように明るい運動場を見ていた。あんだけ大勢の人おるんやさか吸いがらもようけあるぞ、と思った。
この吸いがら拾いは、半年前の冬からはじまっていて、主に、おさむの役目だった。父はもとより、母もタバコを吸う。種類などどうでもいいので、とにかく多くの量を拾い集めることが第一なのだ。
おさむが、これをはじめたのには訳があった。もとゑに神経痛がでたためだ。もとゑは長年、畑仕事のかたわら、寸暇(すんか)をおしんで、草履作りに精をだした。彼女の作るものは、たいへん評判がよかった。それで、多く作れば、どんどん売れる。売れるから作る。この繰り返しで相当無理をした。
納屋の土間が仕事場だ。土の上に藁(わら)むしろを敷き、その上での作業。冬は冷気が藁むしろを通して、滲(し)み込んでくる。それでも辛抱して、両足の指先にナワをはさんで、力一杯引っ張りながら編みつづけた。この作業の連続が、下半身全体の神経痛となって、あらわれたのだ。
これまで、母の草履が、家計の半分を支えてきた。三日に一度は、出来上がった草履を売った。それで当座の現金を得た。そのときは、キザミタバコぐらいはどうにか買うことができた。ところが神経痛がでてからは、ほとんど作業ができない。それで、好きなタバコも満足に吸えなくなっていた。
おさむは、母のそんな姿を見るのが辛かった。そんなある日、学校からの帰り道で巻タバコの箱を拾った。見ると、まだ数本残っていた。持ち帰って母に渡すと、母はそれをハサミで短く切ってキセルに詰め、旨そうに吸った。おさむは、それを見て、タバコ拾いを思いついた。
ところが、いざ実行してみると、なかなか大変で、たまに道端に落ちているやつを拾うのとは、わけがちがった。
何か人の集まりがあった後に、紙袋を持ってかけつけ、そこで、他人を気にしながら拾い集めるのだ。拾っているところに誰かが来ると、すばやく中断、なにくわぬ顔で遊んでいるふりをする。たまに、拾って袋に入れるのを見られたりすると、その恥ずかしさは、たとえようがない。それでも、持ち帰って母に渡し、その喜ぶ顔を見ると「あゝよかった」と思うのである。
幾日も山小屋に泊まり込んで、仕事をしてきた父も、家にタバコがたくさんあると喜ぶ。おさむは、そんな両親、とりわけ、病身の母が喜んでくれるのが、なによりもうれしかった。
あらぬ疑い
台風の季節がきて雨が多くなった。
本宮村のまん中を流れる音無川の水かさも、すこしずつ増えてきた。この時期には、川の流れを利用して、山奥から木材を運び出す刈川という作業が多くなる。松一の出番だ。
その日、朝早く、松一は仕事仲間と一緒に、数週間の予定で山に入った。家には、母もとゑと要、おさむ、祥子、それに公がいた。
日中に降った雨は、夕方にはあがっていたが、空には一面黒い雲がはりついている。風もなく、爽やかな秋には、につかわしくない、むし暑い空気がただよっていた。
要は、竈の口で、火を起こす。きのうまで父が座っていた場所だ。おさむは、納屋から薪を抱えてきて、竈の横に置く。妹の祥子は、奥の四畳半で公とあそんでいる。もとゑは、流し元に立って、茶粥の用意をする。それぞれがささやかな、夕げの支度にかかった。
終戦からまる二年が経って、中岸家の財政もすこしは、もちなおしていた。母の神経痛も発病当初からみれば、かなりよくなっていて以前のように藁草履作りがぼちぼち出来るようになっていた。
それに加えて、父松一の仕事もだんだん増え、バクチを止めたこともあって、その分のお金が家計をうるおすようになっていた。だが、約二年にわたり嫌な顔一つせず、掛売りをしてくれた請川の食料品店をはじめ、他の店にも借金がたくさん、たまったままだった。その支払いを少しずつすることで、あいかわらず、電灯がつくところまでは程遠かった。
おさむは、二荷めの薪を取りに外に出た。秋の日は暮れるのが早く、眼下の大川が、ほとんど見えない。
そのとき、庭先に一人の黒い影が、いきおいよく現れた。急いで石段をかけあがってきたのか、荒い息づかいがきこえた。手に懐中電灯を持っている。おさむは、それを見て、村の人ではないな、と思った。村の人は提灯を使っていたからだ。
黒い人影が足早に近づいてきた。つぎに、その正体が確認できた。
……警察官だ。
「ケイサツ、きたぞ!」
おさむは、家の中に飛び込んだ。母と要が顔を見合わす。一瞬動きが止った。
「御免!」
懐中電灯を灯したまま、黒い人影が土間に立った。いままでまったく縁のなかった警察官のおでましだ。
要はもとより、おさむも、こんなに近くで警官と向い合ったことは初めてだ。祥子も驚いた顔で警官を見つめる。
「中岸もとゑは、おまえか」
警官は、それほど大声ではないが威厳のある口調で、台所に立っていた母にいった。
彼女は大柄で、一見気丈夫そうにみえたが、たいへんな、こわがりだった。それで、いきなり警官が飛び込んできて、自分が名指しされたことで、立っているのがやっとの状態だった。
もとゑは、声を出すことも忘れて、ちいさく頷いた。
「きのう、川のむこうの畑で、サツマイモが盗まれてな。おまえが盗んどるの見たいう者がおるんじゃ。ちょっと調べるから一緒に来い」
「えっ!」
もとゑは、はじめて声を発した。自分の意志でいったのではなく、からだ全体からわきおこる、身震いにちかいものだった。反射的におさむは、母の前に立った。要も、土間に下りて、おさむの横に並ぶ。二人して、母を守る体勢をとった。それを見た警官、急に表情をくずして、
「あのなぁ、つまり、あんたに疑いがかかっとるだけなんじゃよ、なっ、わかるか。…本官は逮捕にきたわけじゃないんじゃ。あんたが畑から芋盗みよるのを見たという届出があったから、その真相を調べるのに、ちょっと署まで来てほしいというておるんじゃ。きみたちも、わかるな」
警官といえども、同じ本宮村の住民で、都会のように高圧的ではない。つとめて職業的にならないように説明する。
「今すぐ、行かな、あかんのかのお」
「うむ、そうしてほしい。一刻もはように事の真相をさぐりたいんでな。あんたも、身に覚えがなかったら、早いとこ疑い晴らしたいじゃろうが」
気のよわいもとゑではあったが、まったく身におぼえがないだけに、急に怒りがこみあげてきた。
二人の息子を脇に押しやり、土間の戸口で仁王立ちの警官めがけて、勢いよく五、六歩進んだ。警官は、突然態度が変わったもとゑに、「なんだ」という体勢で身構えた。
「わたしは、……わたしは貧乏しとるけど、他人さまの物盗んだりした覚えないさかのお!」
そういって精一杯の大声をはりあげた。
「うっ、」
警官の顔が、きびしい表情に変わった。
「こどもに、聞いてくれんかのお。このところ神経痛わるいさか、遠いところへ行けんの知っとるさかいに」
警官は、要とおさむを交互に見た。ふたりは同時に首を縦にふった。
「よし、それじゃったら、なおさら来てもらおう。ここじゃ取り調べできんからのぉ」
「だれが、……どこのだれが、わたしが盗んどるの見た、いうんですかいの!」
もとゑは、警官の言葉を、はねのけるようにいった。
「それも、来ればわかる。とにかく、届出があった以上調べにゃならんのじゃ。支度してくれ」
「なにを、支度するんかいのお」
もとゑは、なかばケンカ口調になった。自分でもふしぎなほど度胸がすわった。こうなったら相手は誰であれ、松一と夫婦喧嘩するのと同じだと思った。
「とにかく、ついて来い!」
警官は、そういって外に出た。
もとゑは、タスキと頭の手拭をはぎとるようにはずし、くるくる丸めると板間の部屋めがけ投げつけた。それを見た要とおさむが、母のそばに駆け寄る。祥子は家の奥で弟の公をしっかり抱きしめて、かたまっている。時ならぬさわぎに放心していたのだ。もうこれまでかと、心に決めたもとゑは、
「すぐ帰るさか、祥子と公をたのむぞ」
母はそういって玄関の敷居をまたいだ。またぐとき、神経痛のせいで左足が敷居に引っかかって、あやうく、ころびそうになる。
「母やん!」
おさむが母の後を追う。要も出てきた。が、何もいわず突っ立っている。
警官の懐中電灯がゆれて、二つの黒い影が、急な石段をおりて行った。
「だいじょうぶや……すぐ帰ってくる」
母が見えなくなって、要が、はじめて口をきいた。
「母やん、なにも悪いことしてないもんな。誰が警察にウソいうたんやろ、……どいらい腹立つな、ちくしょう!」
兄弟四人は、母のいない夕飯を食べた。腹が減っているのに、あまり食えない。腹立たしさと、やり場のない悔しさのためだ。運悪く、松一が泊り山に出かけた日に、よりにもよって、こんなことになった。父を呼びに行くにも道が分からない。「すぐ帰る」といった母の言葉を信じるほか方法がなかった。
その夜、おさむは、なかなか眠れなかった。
「要兄ぃ」
暗闇で兄に声をかけた。
「なんな?」
案の定兄も起きている。眠れるはずがなかった。
「ちびの守り、どうする?」
おさむは、ふとんから這い出して、台所に立つ。父手作りの竹製ひしゃくを水がめにつっこんで水を汲み、そのままゴクゴク飲んだ。
「母やん帰るまで、交代で守りするか。おれ、あした学校行くさか、おさむは休め」
「おれ、学校、あんまり好きじゃないさか……ええけど」
おさむは、ねまきの袖で口まわりを拭きながらいった。
夜もふけて、二人ともショックから、だいぶ立ち直っていた。
次の日。
「たのむぞ」
そういって、要は学校へ。おさむは、祥子に昨夜の茶粥をぬくめてやった。祥子は、小学二年生である。
「祥子、学校で何いわれても黙っとれよ。母やんのこと知っとるやつ居るかわからんけど、しんぼうせえよ」
祥子は、椀のなかを箸でかき回しながら、だまってうなずいた。小さいなりに何かを考えているらしい。
祥子を学校におくりだしたあと、おさむは、弟公の守りをしながら家のなかにとじこもっていた。母やんのことが、村中に広がっていると思った。
タバコの吸いがら拾いも恥ずかしい。請川の商店へ金を持たずに品物を借りに行くのも嫌だった。だが、今度は、そんなことじゃないと思った。村中の人が、みんな敵のように思えてきた。
おさむは、感受性が強い。同時に想像力も旺盛だった。それで、村のあちこちで、母のことが噂され、嘲笑われているに違いないと思った。そういう人達が家の近くに居る気がした。
夕闇がせまってきた。
おさむをはじめ、兄弟にとって、長くいやな一日が暮れた。
こどもたちだけの、夕飯がはじまった。心配していた祥子は、学校で別段変わったこともなかったとみえ、元気にふるまっている。要も、あまり話さないが、友達に何かいわれたようすもなさそうだった。おさむは、
……おれが思うほど、村の人らは母やんのこと知らんようだ。
そう思った。すこし気が楽になった。すると急に母のことが気にかかった。きょう一日何の変化もないのだ。
「要兄ぃ、母やん、だいじょうぶやろか?」
「さぁ、……わからん」
「すぐ帰ってくる、いうたのに、きょうはもう日暮れたし……おれ、見てこうかな」
要は、食べるのをやめて、おさむを見た。どうする気だ、という表情。
「今、闇やろ、真っ暗やろ。だれにも見られんさか、母やん元気か見てくる」
「警察行っても、会わしてくれんと思うぞ」
「母やん、たしか、あそこに居るんや。ほら、小学校行く道から横に入ったとこにカンゴクあるやろ。おれ、小さい窓あるの知っとるんじゃ。あの窓からのぞいたら見えると思う」
要は、しばらく考えていたが、
「よし、行こら」
といった。
そうと決まれば、急いで茶粥をのどに流し込んで、四人は家を出た。
要は公を背に先頭。そのうしろに祥子、おさむとつづく。いつも通る石段は避けた。道沿いに人家があるからだ。家の反対側に、普段あまり使わない道があった。中岸家専用の近道なのだ。盆に道刈をしていたので、暗闇でも思ったより歩きやすい。しばらく横道があって、国道に降りる急な石段のところまできた。
「おい、気ぃつけよ」
先頭を行く要が後ろを振り返り、ささやくようにいった。つぎの瞬間、公を背にしたまま足を踏み外し、道脇の草むらにひっくりかえった。公はワーと泣く。
「だいじょうぶか?」
おさむは、闇のなかで目をこらした。要は、おさむの足元から這い上がってきた。幸い、草のクッションでケガはないようだ。ところが公は、痛いよーと泣き止まない。
「おさむ、祥子と二人で行け、おりゃ公連れて家へ戻るさかいにな」
公の様子から、これ以上人目をしのんで行けないと判断した要は、そこから引き返した。
おさむは、祥子の手をとって国道に出た。目当ての仮留置場は小学校のすこし手前だ。右へ行けば学校で、左に入ればすぐである。
二人は、人家のない裏道をいくつも通って通学路に出た。まだ宵の口で、家々からもれる電灯で辺りは薄明るい。
ようやく目的の場所に着いた。大きな畑の横にその建物はあった。通学の途中、興味半分で友達と見たカンゴクだ。こどもたちは仮留置場のことを[カンゴク]といった。一種独特で、異様な雰囲気を感じていた。遊ぶ時などよく、カンゴク入れたるぞ、といったりした。そのカンゴクに今、母やんが居るかもしれん。そう思うと、おさむの目に涙があふれてきた。
「おさ兄ぃ、ここに母やんおるんか?」
「うん、おると思う」
暗いので、祥子には、おさむの泣き顔が見えない。
灰色に汚れた白壁の仮留置場に一か所だけ小さな窓がある。明かりとりのため作られたものだ。窓には鉄の格子がはめこまれていた。
おさむは、窓の下に立った。手を伸ばしてみるがまるで届かない。辺りを見る。うまい具合に畑の隅に肥桶が転がっている。担い棒もある。桶に担い棒を橋渡しにかけ、その上にのぼった。格子をつかんで中を覗く。案外広い。細長い部屋だ。
部屋の扉が見える。出入口だろう。廊下から電灯の明かりがさしこんでいる。物音一つしない。 「おさ兄ぃ」
祥子は兄の足首をしつかりつかんでいる。
「祥子、母やんおらんぞ」
おさむは、できるだけ小さな声でいった。そのとき、暗闇になれてきたおさむの目に何か動くものが映った。目を凝らすと、部屋の片隅で廊下の明かりがとどかない壁際に人影が……。着物の模様が母やんだった。
「祥子、母やんおったぞ」
「見せて」
祥子は、おさむの半ズボンを引っ張った。祥子の背丈では桶の踏台は低い。それで肩車した。
「ええか、祥子。窓の格子をつかめ」
「うん」
「格子をしっかりつかんで、兄やんの肩にのぼれ」
祥子は、懸垂の要領で兄の肩に立った。
「見えるか」
祥子は、しばらく中をのぞいていたが、母の姿を見つけたとみえ、
「うん」
といった。この時母は、こどもたちが覗いていることなど、まったく知らなかった。やがて、
「祥子、母やん見たさか家帰ろうか……」
それには答えず祥子は格子窓に顔をくっつけて動かない。泣いているのだ。そして、蚊のなくような声で、
「母やん……、早ょ帰ってきてょー……ウゥー」
「祥子、もう降りろ、声出したら見つかるぞ」
祥子は、ようやく格子から顔をはなした。
おさむは、もう一度肥桶を踏台にして中を覗いた。母やんに間違いなかった。壁に向かって身動きせず、すわっている。
「母やん、しっかりせえよ。みんな、待っとるさか」
ささやくようにいった。母の背中がすこし動いたように思えた。
……おれの声聞こえたな。
そう思った。
もとゑが、警察に連れていかれてから三日経った早朝、玄関の戸が、ガタガタ音をたてた。要とおさむは、ほとんど同時に、ふとんをはねのけた。
「母やんか?」
要は、素足で土間に飛びおりた。木戸の支え棒をはずし戸を開けた。母が立っていた。
「母やん!」
おさむは、大きな声をあげた。その声で祥子も起きた。
「ワー、かーやんや、かーやん来た、来た!」
祥子は、泣きながら公を揺り起している。
「えらかったのぉ」
要がそういったとき、もとゑは、その場にすわりこんでしまった。疲れきっている。ありったけの力をふりしぼって、家まで歩いてきたのだ。
「かーやん、だいじょうぶかよぉ」
要とおさむは、母を抱きかかえ、あがりかまちの、板の間まで運んだ。泥で汚れた素足のところどころに、血がにじんでいる。帯はしっかりしめているが、裾は泥水でびしょ濡れだ。昨夜雨が降ったので、道がぬかるんでいたのだろう。
「おい、おさむ、着替出せ」
要は、そういって、バケツに水を汲んで手足を洗う用意をした。
「みず、……水くれんか」
もとゑは、板間で横になったまま、力のない声でいった。要は、茶わんに、昨夜の茶粥の残りをよそって渡した。
もとゑは、ゆっくり上体を起こして、うまそうにすすった。
いつも頭の後ろで、きりりっと紐で結んでいた髪は、ほつれて頬にべったりと張り付いている。わずか三日間で、こうも衰弱できるものかと思われた。取り調べはどんな内容か知るよしもないが、そうとうに、きびしかったのだろう。
普段使わない四畳半に、ふとんを敷いた。もとゑは、茶粥をすすったあと黙ってからだを横たえた。しゃべる力もないのだ。やがて、軽い寝息をたてて眠った。
この三日間、ろくに、食べず眠らずだった。腹がたって警官にくってかかるところがある反面、本来は気が小さく神経質だった。それで、とくべつな環境下では睡眠はもとより、食事ものどをとおらなかったのだ。
その日は日曜だった。要は朝から畑にでている。おさむは、竈に口の広いナベを掛け、水を張って昼飯の茶粥を炊く準備をした。麦芋がゆがメニューだ。布製の袋に茶の葉を少し入れ、袋の口を紐でくくって、ナベのなかに放り込む。大量のお茶を沸かすのである。
杉の小枝や、雑木の葉っぱを丸めて焚口に押し込んで火をつける。ボォーと燃えて、うすむらさきのけむりが、台所から家じゅうに広がる。いったん燃えつくと、つきっきりで薪を補給しなければならない。ろくな燃料材を使っていないからだ。樫や椎などの割木だと火持ちがいいのだが、そんな上等なものは、全て近くの旅館へ売りに行った。わずかでも現金収入になるからだ。それで、家では細い枝や、シバといって、葉っぱばかりのものを主な燃料として使っていた。そんな粗末な薪は当然のことながら煙もよく立った。
ひととおり家のなかに充満したけむりは、やがて屋根に作られた煙通しから外に流れでる。おさむは、このけむりの流れるのを見るのが好きだった。外からの明かりや、板壁の隙間からはいってくる風などによって、いろんな模様を空中に描きながら、静かに煙通しに吸い込まれる様子は、いつまで見ていても飽きがこなかった。
粥炊きが一段落したおさむは、台所の板間に仰向けになり、けむりの流れを目で追った。母やんが帰ってきたことで、満ち足りた思いだった。
そのとき、四畳半の戸襖を通して微かに泣き声が聞こえた。戸襖を少し開けてみると、眠っていたはずの母が、ふとんの上に正座して泣いている。
「どしたんや」
もとゑは、黙って涙をぬぐった。
物音がして、要が祥子と公を連れて、畑から帰ってきた。
「どおゃ、母やん。ちょっとは楽になったか?」
母が起きているのを見て、祥子と公は母のそばにかけよった。公は膝に座る。
もとゑは、公を力いっぱい抱きしめた。そうすることで、この三日間に受けた心のキズを少しでも癒そうとした。だが、そう思えば思うほど、やり場のないくやしさが涙とともにこみあげてきた。
「おさむ、イモ洗てくれ」
要は、いましがた畑から掘ってきたさつま芋の入った竹かごを流し台に置いて、母のもとに上がってきた。
「母やん、えらかったなぁ」
要は、公を抱きしめて泣いている母を、労わるようにいった。
「かーやんは、くやしいわよ、要」
もとゑは、警察でのことを、とぎれとぎれに話しだした。
芋どろぼうの真犯人は、きのう他の村でつかまったこと。各地を流れ歩く乞食だったこと、犯人が分かったとき、「もう、用ないから帰れ」といったきり、すまなんだの一言もなかったこと。
「それで、誰が、母やん犯人いうたんか、分からんのか」
もとゑは首を横に振った。何度も尋ねたが〝お前に関係ない〟といって、相手にしてくれなかったのだ。
「とにかく、母やんの疑い晴れて良かったわだよ」
要はそういって、台所に向い、消えかかった竈に、薪を放り込んだ。パチパチと切れのいい音をたてて、ヒノキの小枝が燃えあがった。
もとゑは、ふらつく足取りで四畳半から、竈のそばまで歩いてきて腰をおろした。足を伸ばし、ゆっくりと撫でる。神経痛が痛むのだ。
「要、……おさむ」
二人の息子を呼んだ。
「ふたりとも聞いてくれ。かーやんのことを盗人やいうて警察届けた人は、おそらくこの村のだれかやろ。そやけど、おまえらは、気にしたらあかんぞ。辛い目したんは、かーやんやさか、かーやんが辛抱したら済むことなんじゃから。……ええな、わかったな」
「……」
二人とも、黙っている。おさむは、くちびるをかみしめていた。
もとゑは、わが子の気持ちを察した。おそらく、くやしさで、いっぱいだろうと思った。だが、ここでこの感情を世間に向けたら、この子らの心は、とんでもない方向にゆがんでしまうと思った。それで、傷つきやすい多感な心に、物事の考え方や、それと同時に、何らかの目標を与えてやる必要があった。
彼女は結婚前、名古屋の紡績工場に居た頃、すこし学問をしていた。本が好きでよく読んだ。そのおかげで物事を筋立てて考える方法を身につけていた。
だまっている二人の息子に言葉を継いだ。
「誰が悪いんじゃない。家が、ここいらで一番貧乏なんやさか、しかたないんじゃ。悪いのは、貧乏なんじゃよ。よう考えてみい……家が金持ちで、なに不自由なしで暮らして居るとき、なんぞ盗まれる事件が起こったら、村で一番貧乏して金に困っとる家をうたがうはずじゃ。それが世の中の仕組みなんじゃからの」
だれも悪者はいない。貧乏が悪い。金の無いのが悪い。頑張って貧乏の壁を打ち破れば、すべては解決する。目標は他人じゃない、自分なのだ。精一杯努力して自分を鍛え、貧しさの壁を乗り越えた者が勝ちだ。ほかのことには目もくれるな。目標はただひとつ、貧乏をうちまかすことだけだ。
わずか九才のおさむの心に、このときの母の言葉が生涯消えることなく強烈にやきついたのである。
もとゑは、それから五日間寝たきりの状態が続いた。
ようやく畑に出られるようになったある日、おさむは母にたずねてみた。
「母やん、おれと祥子がカンゴクのぞいたの知っとったか?」
もとゑは、おさむの顔をじっと見ていたが、やがて首を横に振った。
「知らなんだんか……」
そんな筈はないと思った。
「かーやんは、ずっと取調室におったさかのお」
おさむは、祥子のそばに飛んでいき、
「祥子、母やんな、カンゴク入らなんだんやと」
「あれ、母やんとちごたんか」
祥子は、うれしそうな顔をして小首をかしげた。
母のぞうり
一
あと数日で夏休みという日、おさむが学校を終えて家の前まで来ると、家のなかから、母の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。同時に、物のぶつかる音もする。
……けんかしとるな。
父やんと母やん、とうとう始めたと直感。
松一は、めずらしく長い間、仕事にあぶれていた。かいもく山仕事がないらしい。夏場は毎年そうだったが、こんどのように仕事のきれることも、滅多になかった。それで、例によって、終日納屋にこもって一銭にもならない細工ものに暇をつぶしていた。
村のなかには、その気があれば、小規模の土方仕事や薪つくりなどの手間賃かせぎは少なからずあったが、松一は、ガンとして行こうとしなかった。それで、数日前から夫婦の間で、こぜりあいがつづいていたのである。
家のなかでは、案の定夫婦喧嘩の真っ最中。父松一は、奥の四畳半に追い詰められ、壁を背にして目をむいている。母は、気が狂ったように、手あたり次第物を掴んでは、父に投げつける。おさむが家に入った時も、土間の下駄を頭上に振りかざし、まさに投げる寸前だった。
「母やん、やめてくれ!」
おさむは、母の腕を押さえた。
「とーやんのかいしょ無し! 盆のこしらえも出来んわだよ」
もとゑは、おさむの腕にすがりついて泣いた。
「なにも、おれゃ、働かんいうてないぞ、山仕事切れて、だれも誘いにきてくれんさか、しかたないんじゃい。おれが悪いんとちがうぞ、アホめ! 仕事さえあったら、いくらでも、するんじゃい。山仕事ないさか悪いんじゃ。それもわからんのか、くそたれゃ!」
松一は、おさむのおかげで、物が飛んでこなくなったのをいいことに、奥の部屋で怒鳴り返す。
たしかに松一のいう通り、彼は山仕事があれば、幾日でも上機嫌で精をだした。なまけて仕事をしないのではなかったが、山以外は、ほとんど融通がきかない性格だった。
もとゑも、そんな松一の性格は長年連れ添って分かっていた。だが、現実問題として手元に現金がなくなると、つい「この、かいしょ無し」の台詞が口をついてしまうのだ。
いつもは、口喧嘩程度でおさまるのだが、きょうはすこし様子が違うとおさむは感じた。だいぶ長時間戦ったような気配がある。父やんも相当頭にきている。
「おまえみたいな、ものわかり悪いやつは、どこへでもうせろ!」
おさむが、止めにはいったぐらいでは、いっこうに、収まりそうもない。もとゑも負けていない。
「ええんか! 出て行ってもええんか! もうこんさかいにのお! だれが、こんな家帰るもんか。誰そ、働き者の男みつけて一緒になるさかいにのお」
「なにおっ! そんな男おったら、お目にかかりたいわい。自分の顔よう見てみい、いなかババアが」
「そんなら、出ていくさかのお!」
もとゑは、いうがはやいか、玄関を飛び出した。おさむは、ただごとではないと思った。だが、父も母も、完全に頭に血がのぼっている。手のほどこしようがない。
もとゑは、後も見ず石段を駆けおりていった。
「父やん!」
おさむは父を見た。
「ほっとけ、ほっとけ」
松一は、竈の口で胡坐をかいて、キセルに粉のようになったタバコの葉を詰めて吸い始めた。
おさむには、母の行き先が分かっていた。父も知っていた。それで、その点については心配はしなかった。が、母が家に居ないとやはり不自由であった。
しばらくして、中学の要、それに祥子と公が学校から帰ってきた。おさむが訳を話すと要は、「またか」といって顔をしかめた。松一は、知らん顔でキセルをふかしている。
「母やん、また、村岡のおばさんとこ行ったんか」
話を聞いていた祥子がいった。
「あした、学校の帰り、遊びに行こか」
公が祥子にいう。
もとゑは、このようなかたちで、家をあけるのが、今度で三度め。それで、公も母の家出先を知っていて、母がそこに籠ると遊びに行っていた。
もとゑの家出先は、つまりは彼女の実家なのである。何のことはない。大ゲンカのあとは、実家に逃げ込むのだ。
実家は、長い石段の一番下、国道沿いにあった。彼女の両親はすでに亡くなっていて、兄夫婦が村岡の家を継いでいた。
これまで二回、もとゑは夫婦喧嘩のあげく家出した。だが、いくら実家でも、兄夫婦のところに、転がり込むわけにはいかない。そこで、はじめての家出のとき、本家の屋敷内に建っている、物置小屋を貸してもらい、そこに、生活道具一式をそろえた。のみならず、藁草履作りもできるように準備していたのである。
自炊ができ、仕事ができる。長期戦にじゅうぶんに耐えられる設計だった。
これまでの二度の家出は、それぞれ、一か月と二か月あまり。かなり長かった。その間、父松一は、母のことは何もいわない。知らん顔で家事万端やっている。器用で、こまめな性格だから苦にならない。ときには、鼻歌がまじることもある。あるいは、つとめて、そのように振る舞っていたのかもしれない。
一方、もとゑは、いたって元気で機嫌が良かった。こどもたちは、よく母の小屋に遊びに行った。母は、せまい小屋のなかでワラに埋もれてせっせと草履を作っていた。
こどもの顔を見ると、食事のこと、衣服のことなど、こまごまと聞いたり教えたりするが、父のことは、ひと言も口にしなかった。
大声で呼べば、通じるほどの距離であるが、松一も、もとゑも、互いになに食わぬ顔で意地のはりあいをしていたのである。
二
もとゑが家出して二か月が経った。
もう、そろそろ母が戻ってくる頃だと、こどもたちは思った。松一も、内心そう思っていた。
金がなく、それで盆のしたくができない、ということでケンカになって家出。季節は秋になっていた。
松一には、長期の泊り山の仕事は出なかった。それで、この頃では覚悟をきめたとみえ、以前は見向きもしなかった、日帰りの山仕事に時々でかけた。
もとゑは、出来上がった藁草履を、一週間に一度ほどの間隔をおいて、神経痛の足腰を引きずって売りに回った。彼女の作るぞうりは、型崩れしないため、なかなかの評判で、村の青年団が、時代ものの芝居をするときなど、「もとゑさんのワラジは、履きやすいからのお」といって、まとめて買ってくれたりした。小銭ではあるが、確実な現金収入だ。こうして、こどもたちの入り用は、母のぞうりで、まかなわれた。
「父やん、家でおるんか?」
土曜の昼下がり、学校の帰りに立ち寄ったおさむに母はいった。家出してはじめて父のことを口にした。
「うん」
「仕事、しよるか」
「いま、家から通て行きよる」
「通いか」
おさむは、いよいよ、母の家出も終わりに近づいたと感じた。そこで、
「母やん、家行こらよ」
と、いってみた。
母は、それには答えず、
「おさむ、お粥食うか?」
母は、話題を変えた。まだ、あかんなと思う。
もとゑは、こどもらのために、いつも余分に茶粥を炊いて用意していた。おさむは、小屋の奥で、七輪の上にのせられたナベから茶粥を椀に入れて食べた。麦と米が半々に入っていて、父が炊くのよりうまい。
そのとき、
「もとゑ姉、がんばるのー」
園田トクが、入ってきた。
「こんにちは、おばさん」
おさむは、椀をもったままで、いった。
「おぅ、ぼおか、……学校の帰りか」
そういって、藁束の上に、ヨイショと座る。
「いつも、おさむが仕事もろて、おおきによ」
もとゑは、材料の藁の束を手でしごいて、ポンポンとごみをはらいながら、礼をいった。
おさむは、母がこの小屋で生活をはじめた頃から、園田トクの家でマキ割りなど、いろいろな雑事のアルバイトをしていた。
園田トクは、中岸家とは縁つづきというわけではなかったが、もとゑとは、ウマが合うのか姉妹のように、仲良くしていた。もとゑが警察沙汰になったときも、見舞いに来てくれたのは村じゅうで彼女だけだった。夫を戦争で亡くし、娘と二人で暮らしていた。娘は、自宅の一部を小さな作業場に改造して、なにやら細工物をしていた。女二人所帯で男の手がない。畑があり、山も持っている。だが、女では、どうすることもできない力仕事がたくさんある。そこで、小学五年生にしては、大きくて頑丈な体格のおさむに、アルバイトの依頼がきたのである。一回のバイト代が、三円から五円ほどになった。
おさむは、このころから、オレが働けるだけ働いて、母やんを助けようと考えていた。
兄の要は、力仕事に向いていなかった。身体が弱かったのだ。その反面、学校の成績は良かった。「要兄いは、学問したらいいんや。オレは、からだで稼ぐ」そう、心に決めていた。
このときのおさむは、毎日学校へ行くことは行ったが、ろくに勉強していなかった。学校がイヤでたまらなかったのだ。
去年の秋、母の警察さわぎがあったあとで学校に行ってみると、これまでとはまるで様子がちがっていた。仲良しだった友だちの、よそよそしい態度。クラスのなかまも、なんとなく自分をさける。のみならず、先生までも、目のつかいかたが変わってしまったように感じた。
それ以来、おさむのほうも、みんなに対しての接し方をかえてしまった。
……もう、勉強なんかクソくらえ。
と思った。
せまい村のこと、たとえそれが無罪であったとしても、ひとたび警察沙汰がおこると、村中が色めきたつ。当然のこととして、それが、こどもたちにもつたわるのだ。もとゑの場合、すぐに真犯人が捕まったわけだが、そんなことは、一度広がった話題には、まるで関係なかった。「中岸もとゑはケイサツひっぱられたんや」このことだけが、人々の口にのぼった。住民のなかには、ちゃんと事実を理解してくれる人もいたが、数がしれていた。それで、おおかたの風向きが、もとゑが犯人で、そのこどもは〝盗人の子や〟と、なったのである。世間とは、とかく、そういうものだ。
それでもおさむは、学校だけは極力休まなかった。母が本当に盗みをしたのなら、学校は休みつづけただろう。登校する勇気もなかっただろう。だが、事実は警察がまちがっていたのだ。母はまったく関係なかったのだ。
「おれら、なんにも悪いことしてないんやさか、胸張って学校行こらよ。学校休んだら負けやさかな」
ある日、要が、おさむと祥子に、いった。
おさむは、学校でのくやしさを、園田トク家でのアルバイトに精を出すことで癒した。彼は、トク家でのバイト仕事に熱中した。力いっぱい頑張った。そうすることで、イヤなことが消える気がした。自分たちのことを、本当に理解してくれている園田のおばさん。そこで、汗を流すことで、心が安らいだのだ。
おさむは、小屋の奥で茶粥をすすりながら、母と楽しげに話すトクおばさんの横顔を見ながら、誰が何といおうとオレは頑張るぞと、気持ちを引き締めるとともに、満ち足りた気分になっていた。
「おさむ、すまんけど、今から請川奥へこれ売りに行ってくれんかのぉ」
トクとの会話が途切れたとき、もとゑはいった。藁草履が思ったより多くできたのだ。母のたのみで請川奥の村へ行くのは、初めてではなかった。その在所で数件の雑貨屋があり、販売を頼みにいくのだ。それで、要領は判っていた。母の中身の濃い茶粥でお腹一杯になったおさむは、二つ返事で、
「行くよ、お母あ」
と、いった。
「えらいのー、ぼぉ」
園田トクは、そういって、さらに、
「ぼぉ、あした日曜やろ、また、焚もん割りたのめんかのお」
「あゝ」
おさむは、トクのたのみがうれしかった。
「たのむわ。……昼飯、家でたべたらいいさかいにの」
トクおばさんは、そういって笑った。
「おおきによ」
トクとの会話をかわしながら、おさむは、母の束ねた草履を持って出かける用意をした。
「まったく、いつも、すまんのぉ。トクさんとこでばっかり世話になって……」
「なに、なに、ぼおのお蔭で、大助かりじゃ。女じゃ薪割は大事じゃよって」
おさむは、二人の会話を背に、草履の束を肩に掛け、小屋を後にした。
よく晴れた秋空。この時期特有の強い日ざしが、首筋に痛く感じる。左右の肩に
大人用十数足、子供用十足余りを、それぞれ振り分けに持ち、請川めざして小走りにかけだした。
メインの卸先は堅田商店だ。請川村の中心から四村の方に少し入った所にある雑貨店で、母が神経痛になる前、よく一緒にいったことのある店だった。いつも、丸い大きなアメ玉をもらったのを覚えている。おさむの足で片道四十分はかかる距離だ。
熊野川沿いの国道を歩いた。路面はカラカラに乾燥して、ときおり川面から吹き上げる風で砂ぼこりが舞う。その度に、服の袖で顔を覆いながら歩く。小屋を出るとき軽かった荷が、歩くにつれて肩に食い込んで痛い。力一杯藁をしめ込みながら作った草履は、その分材料が多く使われているので、普通のものとは重さが違った。母の作る草履の評判がいいのは、その作り方にあった。
おさむは、荷を肩からおろし、手にぶら下げたり、振り分けを一つにまとめて左右の肩に、代わる代わる担いだりしながら歩いた。
やっとのおもいで、堅田商店の店頭に立つ。見覚えのある店主のおじさんが出てきた。
「おう、ぼぉか、えらいにゃ。かーやんの使いか」
そういって、おさむの肩の草履を見た。
「これ、置いてくれんやろか」
おさむは、そういって、草履の束を両手にぶら下げた。
「おぅ、こどものやつ、あるな。これだけ買うたろ。おとなのは、今、ようけあるんじゃ」
主人は、おさむの手から子供用を全部取って、店の壁に掛けた後、前掛の大きなポケットから、数枚の銅貨を取り出した。
「こっちのは、あかんやろか?」
おさむは、声が小さくなった。ここで全部買うてもろたら、別の店に行かんでもいい、と勝手に決め込んでいたので、あてが外れて、疲れがどっと出た。
「買うてやりたいがのぉ、ぼうよ。まだ、ようけあるしのぉ。えらいけど、川湯のほうに行ってみたらどうや。もとゑ姉の作ったもんは、評判やさか売れるぞ」
おさむは、礼をいって店を出た。足が重い。荷は半分近くになったが、川湯の温泉場まで行くとなるとたいへんだ。このまま、引き返そうかとも考えたが、しかし、売れ残りを持って帰るのもしんどい。そのとき、もう一軒、母と来て顔見知りの雑貨店があるのを思いだした。
四村方向へ少し歩くと、成石橋。そのたもとの店だ。
急いで、そこまで歩き出す。店の前まで来て、店先に立つ。見ると、なんと、草履が軒先にいっぱい。
……あーぁ、あかん!
そう思ったが、ものは試しと、店のなかに入る。気付いた店の主人、
「中岸のぼぉか」
店のおばさんは、おさむの顔を見た。
「あのー、……」
「草履売りに来たんか。……すまんのぉ。そこに、ようけ、つらくっとるやろい。いま、いっぱいなんじゃょ」
やっぱり、断られた。
「ぼお、ここまできたんじゃ。湯場へいってみ、客が買うてくれるかもしれんぞ。元気出せ。男じゃろうが」
しょぼんとしているおさむを励ます。
「知らん客が、買うてくれるじゃろうか?」
「行ってみな、わからんぞ。……ちょっと待っとれ」
おばさんは、店の奥から細長いビニールの袋に入ったジュースを持ってきた。
「これ、飲んで、元気だせ」
おさむは、感受性が鋭い。それで、急に目頭があつくなった。
一時間ほど、温泉場を歩き回った。湯治客や地元の人に、かたっぱしから声をかけてみたが、だれも相手にしてくれない。よく考えてみると湯治客が草履など買うはずがない。
……おばさんも、いいかげんなこというな。
おさむは、あきらめて、引き返すことにした。周りの山が高いので、みじかい秋の陽はかげりはじめていた。
足早に、小川沿いの道を歩く。すりへって薄っぺらな草履を履いているので、路面にちらばった石ころが、足の裏に痛い。一足も売れなかったことで余計痛さを感じる。
しばらく歩いたとき、
「わーい、ゾウリ売りよー」
谷のなかから声。
見ると、請川小の生徒らしいのが数人川遊びをしている様子。手に竹製の 〝もどり 〝を持っているので、ウナギをとるため、仕掛けをしているようだ。おさむは、川の方をチラッと見たなり駈けだした。背後から、
「ゾウリ買うてくれんかいのー、安うしとくでー、ただでもえーぞ」
口ぐちに、はやしたてる声がとんでくる。
おさむには、見たこともない連中だったが、束にした草履を肩にぶら下げた恰好から、草履を売りまわっていることの見当がついたのだろう。
おさむは、その場から一刻もはやく遠ざかろうと、一目散に走った。
一旦は「何おっ」と思ったが、相手が多い。それに、あちこち歩き回ってクタクタだった。
歯をくいしばって走った。背中で、売れ残りの草履が重くおどる。
しばらく夢中で走った。……もう、何も聞こえない。ふっと足の力が抜けた。その拍子に、つまずいて前のめりにぶっ倒れた。はずみで、背の草履の束がはるか前方に飛んだ。右足の親指がすごく痛い。起き上って、足を見ると、爪の間から血がふいている。飛び散ったぞうりを拾い集めて首に掛け、痛む足をかばいながら歩く。手の平やヒジも、血こそ出ていないが、ヒリヒリする。
「ちくしょう!」くやしさで、涙があふれた。
ようやく、堅田商店の前まで来て、その前を通り過ぎようとしたとき、
「ぼぉ、どしたんな。……こかったんか?」
片足を引きずって歩くおさむを見つけ、堅田のおじさんが出てきた。
「売れなんだんか」
「温泉場まで行ったんやけど、あかなんだ」
「そーか、……ちょっとも、売れなんだんか」
店の主人は、おさむの、血まみれの足を見ていた。が、やがて、
「よし、ようけがんばったさか、それ、買うたろ。そのかわり、安いぞ」
「ほんとに!」
「おじさんは、うそいうの大きらいやさか、本当や」
他所の小学生にてがわれ、そのあげく、ぶったおれて足から血を出し、疲れてフラフラのおさむにとって、目の前にいる堅田のおじさんの親切は、いいようのない感激だった。もらった代金の銅貨が涙でぼやけた。
結局、その年の暮まで、もとゑの小屋住まいが続いた。松一が、長期の泊り山で、山奥の飯場(出張仕事の拠点)に出かけた日の夕方、彼女は家に戻った。家出して四か月、今回は、最も長い家出、つまり、小屋暮らしだった。
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