第56話 正しい修道女として
スズは手に持っていた帽子とベールを被る。この教会のシンボルを頭に被ればスズは敬虔な神に仕える修道女へと変わる。
修道女は夜の屋台で食事を取るようなことはしない。スズにとって神に仕える生活とは、無言で神に祈りながら毎日スープを飲んで、スープの中の具に小さな幸せを神に感謝する。そういう存在だった。
小さな心臓がとくとくと音を奏でていることが心地いいように、唇を綻ばせながら長いまつげを伏せる。
言葉も喋れない小さな頃に教会に入ったスズにとって、誰かと遊んだ楽しい記憶というのは無いに等しい。
ずっと神に仕える身として、それが正しいあるべき姿だと思っていた。けれど今日レオナルドに手を引かれ、教会内では"俗世"なんて揶揄される街で遊んだ。
とくとくと小さな心臓が「たのしかった、たのしかった」と言ってくれていることにスズは顔をほころばせる。
肩にかかるまでに伸びていた髪を切られた時は、悲しかったけれど、そういうものだと受け入れてしまった。相手が貴族ならば仕方がないと。けれど自分ほどの小さな子供が初めて庇ってくれた。そのことにも嬉しくてたまらなかった。
帰り際に渡された白い三角の形をしたサメの歯。手の中で握りながらスズはまた「ふふっ」と笑った後にポケットに隠すように入れ込んだ。
神に仕える者として、何も持つことは許されない。少なくとも"末端"である今のうちは――
いくらゲーガン司祭に"鈴"を貰い気に入られているとは言え、一端の修道女でしかない。自由になれる日は1週間の中で1日だけ、それ以外はずっと神に祈る日々。
スズはこの国に来てからこれほど楽しかったことは経験したことがなかった。両親がいたころの幸せであった日々を思い出して心臓の上を抑える。
大切に大切に忘れないように守ってきた幸せで楽しい記憶の中に、まさか初対面の少年が入るとは思っていなかった。
ほころんだ表情のまま、まるで宝物を誰にも見つからないようにしまい込む子供のように、スズは心臓を抑える。
こんなに楽し気な表情のまま中央教会に戻ってしまえば、スズが俗世で楽しんできてしまったことがバレてしまう。ニヤケそうになる口元をきゅっと引き締めて教会へと進む。
スズは中央教会の門兵にペコリと頭を下げる。門の番をしていようともスズより身分が圧倒的に高い人たちだ。
教会の門兵は図書館の門兵たちのように気さくではなく、ただ淡々と仕事をこなす操り人形に近い。神に仕え仕事を全うしているとも言えるが。
「なぜ遅くなった」
「反省しておりました……」
「そうか」
やりとりはたったこれだけ。
門兵もスズを迎えに行った伯爵家の少年が憤慨して先に帰って来ているので、ある程度事情は分かっている。一昨日まであった肩にかかる程の長さであった黒い髪は、今はもうざんばらに切られている。その髪を見て少しだけ眉を顰める。
その視線にレオナルドや図書館の職員たちのような同情的な視線はない。醜いものを見るような、侮蔑を含んだ目線だ。
貴族の女性だとしたら、醜いとしか言いようのない髪型。貴族出身者ばかりのこの中央教会で、スズの今の髪型は悪い意味で目立つ。
そうさせるために、中央教会内でゲーガン司祭以外、誰も味方なんてできないように、伯爵家の少年はスズの髪を切り取ったのだ。
「ゲーガン司祭が帰ってきたら部屋に来いと」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
にっこりと無表情な門兵にスズは微笑む。スズは"隣人に優しくあれ"という教えを忠実に守っていた。そんなスズと対照的に無表情の門兵は小さくうなずくだけだ。
この中央教会でスズに笑いかけてくれるのは、スズをここへ引き抜いたゲーガン司祭だけだ。
豪華なえんじ色の絨毯が敷かれている廊下を進む。スズの育ったスラムに近い教会とはまったくの別世界。いまだになれない豪華絢爛な教会の中、階段を何段もあがり司祭の部屋へと向かう。
ゲーガン司祭の部屋に行けば、夜になったというのにまだ仕事をしていたゲーガンがスズを出迎えてくれた。
豪華なシャンデリアがある部屋。高い紅茶と甘い砂糖菓子の匂いが漂う部屋。
そんな空間をいつも、少しうらやましいと思っていたスズだが、今日ばかりは思わなかった。
-私も今日甘いもの食べたんですよ-
そう心の中で司祭に自慢げに語る。
スズが帰ってくるのを待っていたであろうゲーガンは少し疲れたような表情をしながら、椅子をずらしてスズの方を向く。
その表情に何も読み取れず、スズの背中にはなぜか冷や汗が伝う。
-嫌な予感がする-
本能的にそう思いながら、スズは笑顔を崩すことなくゲーガン司祭をじっと見つめる。
彼は単刀直入にスズに用事を言った。
「三日後、王都外にある森に、冒険者付きの治癒師として行ってもらうことが決まった。
本来なら君に与えられる仕事ではないが、これは決定事項なんだ。
わかっておくれ」
一切悪びれる様子なくゲーガン司祭の眼が細められる。
冒険者の仲間として派遣されるのは通常、平民上りの末端の治癒師の仕事。貴族出身者や出世が見込まれている者たちは自然と免除されている。
冒険者の仲間として任務に付き添うのは、命の危険が伴うからだ。そういう仕事に就かされるのは、中央教会のような貴族出身ばかりが集まる教会に席を置く人間の役割ではなかった。
今までは――
スズの冷えた指先が自然とポケットへと伸びる。先ほどレオナルドに貰ったお守りを、ポケットの上から存在を確かめるように、白い指先でするりと撫でた。
-あぁ神様……-
ポケットの上からお守りの形を確かめながら、スズは心の中でつぶやいた。誰にも聞かれることのないように、心の中でさえも声を小さくして呟いた。
礼儀正しい修道女は、目の前の司祭にふわりとほほ笑む。
「精一杯お勤めいたします」
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