第57話 僕だけが幸せだった場所
早朝、誰も起きていない時間に目を覚ますと、僕は日課になっている走り込みを行う。
早朝となれば貴族街も警備が手薄で、簡単に忍び込めた。誰も歩いていない大通りの端を走ってゆく。誰かに目撃されたとしても、僕は朝早くに働く馬当番の少年程度にしか思われないだろう。頬を
貴族街の中のかなりいい立地、大貴族の大きな屋敷が立ち並ぶエリアに僕の実家はある――
大きな屋敷の前に立ち、僕は唖然としていた。
門番が、いない。
大貴族は王都の中でさえも自分自身を守れるだけの武力を有さなくてはいけない。それは王への不信ではなく、王に何かがあったときに、我こそは王の役に立つという雄姿を示すためのものだ。
領地から連れてきた兵士たちが毎日門番をしているはずだというのに、誰もいない。
屋敷に人の気配がないわけじゃない。
首を傾げながらも、これ幸いと僕は門を素早く上り屋敷内にしのび込んだ。
中庭を進む、見上げた屋敷のガラス窓は少し汚れていた。地面にも落ち葉が散っている。
僕は今まで、自分の家の中で落ち葉なんて見たことがなかった。不思議な話だと思うだろうが、落ち葉なんてものがある庭なんて、大貴族としてはあり得ないのだ。
ひとひら落ちた葉は地面に着いた瞬間に使用人が掃除してゆく。そんな家だった。
それが、今は地面に数は少ないが落ち葉がある。
掃除も手が行き届いていないのだ。
人がいないわけじゃない。気配はしているが、家の中にいる人数が僕が家にいた頃よりも少なくなっているのだろう。
自分の顔が苦々しい表情へと変わってゆくのを感じる。すべて自分がしたことが起因している。異世界人の召喚を壊した事がすべての原因なのだろう。後悔はしていないが罪悪感はある。
姉のこともそうであったし、育った家が落ちぶれてゆく様子を見るのはさすがに少しつらいものがあった。
中庭を抜けて僕はまっすぐと目的地へと進む。
僕の
あるべきはずの場所に、ソレはなかった。
積み上げられた木の板、建物があったはずの部分だけ芝生が生えていない地面が、僕を出迎えただけだった。
「……聖女様」
ぽつりと、もういない人の名前を呼ぶ。
陽だまりのような場所はもうない。寒い日の暖炉のように温かく、優しいあの人がいた僕にとっての大切な場所はもう何処にもなかった。
「なんとなく、分かってはいたんだけどね」
父か兄か、どちらが命じたのかは分からないが、彼らが無駄な小屋を残すとは思っていなかった。
しゃがみ込んで聖女様の小屋の木材を触る。少し日に焼けて変色してしまっている濃い茶色の木。
あぁ、この色は床の木材だっただろうか……
ここはきっと、
僕が幸せを感じている時、あの人は何を思っていたのだろう。なぜ何も話してくれなかったのだろう。なぜ、助けてと言ってくれなかったのだろう。小さかったからだろうか……言ってさえくれれば僕は何だって――
「だれです!?」
高い声が聞こえてびくりと肩を震わせる。気を抜きすぎていた。もっと警戒すべきだった。家の人間に見られた。胸にしまった小型ナイフに手をかけて、ゆっくりと振り返った。
そこには屋敷の使用人の服を着た見たこともない女性がいた。
――新入りか……
女の顔を見てすぐに彼女が新人であると気づいた僕は、顔に笑顔を張り付かせた。真似したのはいつも笑顔でいたスズのような優しい笑顔だ。
「おはようございます! 今日からこの屋敷でお勤めすることになった者です。ちょっと早く着きすぎちゃいまして」
「……そんな話聞いてませんが」
「ええ? そんなはずないですよ、おっかしいなぁ……執事長さんから聞いてませんか? 今日から新人が入るって」
執事長はこの時間起きてはいない。父に似て時間を厳守する彼の睡眠を新しい使用人の確認程度で邪魔するわけにはいかない。
いいや、本来ならすべきだ。この家に長年勤めている人間ならば執事長の性格をよく分かっているだろうが、目の前の女はまだ若く長くとも半年しかこの屋敷にいない人間。
「……困りましたねぇ」
「いいえ、僕が早く着きすぎたんです、時間つぶしにここに来ちゃって……」
「物置あとなんて見ても時間潰れるぅ? いいわ、執事長が起きるまで、待たせてあげるからついてきて」
女性は簡単に僕を屋敷内に入れてくれるようだ。その後ろ姿を見ながら僕はギリリと歯を食いしばった。
いま、この女は、聖女様の小屋のことを、物置と、呼んだか……?
漏れそうになる殺気をぐっとこらえる。新人の使用人が悪いわけじゃない、聖女様のいた場所を
ついてこない僕を不思議に思い新人は振り返った。僕はすぐに笑顔をつくると新人のあとを追いかけた。
自分の家に入るのに使用人に案内されるとはなんとも情けない、そう思いながら。
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