愛車譚

@Octane

第1話 聖地ニュルブルクリンク

 今その場所に居るという事自体が、まるで夢のようだった。

 ドイツ・ニュルブルクリンク

 自動車開発の聖地にして、世界一過酷なサーキット、ここで鍛え上げられたクルマ達はオーナーを魅了し、ここでラップレコードを記録したメーカーは名誉を手にし、ここを生きて帰ったレーサーは尊敬の念を受ける。

 そんな栄えあるサーキットに、佐藤 正純は、自分がドライバーとして、愛車とチームと共にニュルブルクリンク100周年記念6時間耐久レースに参戦しているという奇蹟の味を、じっくりと噛みしめていた。


「24時間レースの前イベントとはいっても、まさか愛車でニュルのレースに参戦できる日が来るなんてな!」

 第4スティントを目前に控えチームメイトと談笑する彼は、少し白髪交じりの髪をきっちり左右に分けすらっとしている姿こそ年季が入ったベテランドライバーの風貌を醸し出しているが、実はただのサラリーマンにしてアマチュアでレースに参戦する、ジェントルマンドライバーである。


「ま、100周年記念って事で、年代毎にクラス分けして、それぞれで6時間耐久レースやってくれる上に、本チャンの24時間でウチの新車が参戦するから、おこぼれに預かれたってことだよね。だとしても、光栄なことには変わりないんだが」

 ガリガリの細身で、どこにレースを乗り切れる体力があるのだかおよそ計り知れないが、チームの中では一番ニュルブルクリンクを走り込み、いざとなれば2スティント走り続けられるだけの体力もある橋本 直樹が、佐藤に応える。


「いや、でも、直さんの場合は、開発でニュル走りこんでっから、そこまで実感わかないっしょ?」

「冗談、レーサーじゃなくてテストドライバーだから目指すところは違うし、それに試験走行の場合は専有だろ?こんな150台もゴチャゴチャ走るような状況は、マジでカオスだって」

「なるほどね、そういうもんか。俺の場合首都高とそんなに変わらないと思ったが。」

「お前なぁ…」

「お、そろそろピット戻ってくるか、HANSとメットつけて、準備しておくか」

「りょーかい、こっちは監督とコース状況確認しとくわ」


 チームのクルマにして正純の愛車、ゼッケン88を纏ったZ33型フェアレディZが、最後のロングストレート手前、クレインズ・カルッセルを通過したことを確認すると、いそいそと佐藤は準備を始めた。あそこからなら1分弱、最後の確認と心構えをするには充分な時間。


「佐藤ちゃん、どうもベルクヴェルク手前ぐらいでオイルフラッグ出てるね。なんかオイル漏れ起こしたクルマがあるらしい。まだ誰もクラッシュしてないけど、慎重に行っといたほうがいいね」

「スピード乗るあそこか…アウトラップは気をつけて慎重に行くか」


 橋本の言葉を頭に刻み込むように噛みしめて、ピットレーンを一定速度で走ってくる集団の中にZの姿を確認すると、ピットレーンに踏み出した。今回のピットストップはフルサービス、給油は当然の事としてタイヤも4本交換する。

 寸分たがわずにピットポイントにクルマを停め、ジャッキアップすると、長身でがっちりとした体躯のレーシングドライバー、小平がクルマから降りてきた。さすがにプロドライバーで幾多のレースに参戦しているだけあって、過酷なサーキットを走り終えた後であっても、微塵も疲れを感じさせない。


「小平さん、お疲れさま。クルマの方異常ない?」

「メカ系は大丈夫、タイヤは最後の方だったからズルズルでプッシュアンダーなりがちだったけど、新品タイヤにすれば問題ないはず。ちょっと気になったのは、北の方曇ってて、今にも雨降りそうだった事かな、後はジェントルマンドライバーが今多めだから、無理なバトルはあまりしない方がいいね」

「OK、オイルフラッグも出てるみたいだし、特に慎重に様子見した方が良さそうだね。じゃあ、行ってきます」

「おう、気を付けて」


 慣れ親しんだZのコクピットに収まり、給油が完了するのを待つ。思い返せばこのクルマを買って13年、車齢で数えて22年。2000年代前半に誕生したZ33は、かつて第2世代スカイラインGT-RやNA型ロードスターがそうであったように既にネオクラシックの領域に入ろうとしている。

 レース参戦用にロールケージとバケットシートを取り付けてはいるものの、基本的なコクピットの姿に変わりはない。こんな聖地に、しかもレースという場に参戦する事になろうとは、Zだって思っていなかったはずだろう。

 チームから給油完了、エンジンスタートOKの合図が走る。


「行こうか、麗美」


 気合を入れるように呟きながら、キーを捻る。イグニッション、エンジンスタート。VQ35DEが野太い音と共に再び目覚める。レースとはいえ、ピットロードは速度制限あり。幸い他のクルマが来ないタイミングでピットアウトできたから、合流に問題なし。

 後は、レースコースに入る時の前後関係。前にクルマがいるのといないのとでは、気持ちの持ちようが大きく異なる。速いクルマなら置いて行かれるだけだが、遅いクルマなら追い抜くタイミングをうかがわなければならない。最悪は、遅いクルマを処理できず、速いクルマに追いつかれる事。

 幸いにして、ピットアウトしたところではそんなタイミングもなし。F1にも使われるグランプリコースは難なく抜ける。少し後方に速めのクルマが走っているようだが、まだ十分に距離があるだろう。

 しかし、ノルドシュライフェに入ると、状況は一変した。目の前には数十メートル間隔で、下のクラスと、それを抜かそうとする上のクラスが入り乱れて走行。これは、グランプリコースで距離を感じていた速いクルマも、すぐに追いついてくることだろう。


「これは、ホントに回り見て慎重に行かないとマズいな…おまけに、雨もポツポツきやがった」

 高速セクションも終わり、後続車への道譲りと格下クラスの処理をこなしながらカレンハルトを超えた頃には、小雨が降ってきた。ここから先はコーナーが入り組み、抜くのも抜かせるのも難しくなる。そんな時に限って、後ろからハイスピードの3台が迫ってくる。格上も格上、911GT3と360モデナ、そしてスカイラインGT-Rの姿がある。


「後ろからトップ集団迫ってくるから気を付けて、奴ら同一周回だから」

「マジかよ…」

 監督からの無線を聞いて、佐藤は戦慄するのを覚えた。さすがにトップ集団のバトルを邪魔するわけにはいかないし、かといってコーナーの部分でヘタに抜いてもらうと巻き添えを食らいかねない。

 エクスミューレを超えた後、ベルクヴェルグ手前の短いストレート。

 ここで譲るしかない。

 マーシャルがオイルフラッグを振っているのを視認する。ここだったら相手もスピードを抑えるだろうし、比較的安全に道を譲れるだろう。

 コーナーを抜け、ウィンカーを左に出し、左にクルマを寄せてやり過ごす…。

 猛烈な勢いで加速してゆく3台。

 そして次の瞬間、トップのGT3に並ぼうとしたモデナのリアが、オイルと雨で滑りやすくなった路面に足をすくわれて盛大に流れ、そして反動で反対の方向に、GT3のリアに直撃する。

 スピンモードに入る2台、後ろから追いかけていたGT-Rはコースオフに辛うじてあった隙間を通り抜け、やり過ごす。しかし…

 目の前の出来事がスローモーションのように、しかし、だからこそわかる。

 あの2台の方が、2

 目前に迫ってくる2台の中に、被害が少なくなる道は…2台のノーズの間、コクピット直撃コースを避けたわずかな隙間にハンドルを向ける。

 刹那、世界が反転するような感覚と共に、視界が暗転した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛車譚 @Octane

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ