4-2/2

(林ふみ)

 途轍とてつもなく遠い暗闇を眺めていた。

 外は、春なのにどこか哀愁あいしゅうが漂う。


 その理由として天の暗闇からは梅雨を待てない小雨がポタポタと降ってきていた。その雨は春の新芽を潤していたが、俺の身体を急激に冷やしていた。


 どこからともなく、日本酒と適当な陶器とうきを持ち出して、縁側でひとり空を仰いだ。


 またひとりか――と考えてはみたが、彼女とはあの海岸でいつでも会うことはできるのに、ヤケに寂しく感じられた。それは、短い期間であるが、一人娘を嫁に出す気持ちがなんとなく理解できた。そんで、からっぽな自分を雨香李は埋めてくれていたのだと、気が付いた。


 究極的に俺は彼女をどう思っているのだろう。それは、判っても仕方がないのだが……。

「あぁぁぁ……」思いっきり頭を掻いて、気を紛らわせる。


 こんなにも早く、今日の昼、山田店主が語っていたことが理解できるとは思わなかった。俺も一歩大人に近づいた半面、雨香李が一種の抗鬱剤代わりになっていたなんて知る由もなかった。



 俺は、雨香李をそばで見守ると、心で決めていた。

 雨香李には、彼女の人生があり、俺はそれを見守るだけで良い。それが今となって崩れかけていた。壊したのは、彼女が俺に頼ったから、俺の気持ちは今でも変わることがない。


 変わってはいけない。でも、なぜ変わってはいけない?

 彼女は今年十七歳で、俺はこんな歳で、高卒で、夢の希望もない、しかも人間じゃない。


 ……でも、それは彼女が決めることじゃないのか?


 そうだ

 彼女が遠のいていくのが怖い。それはただ逃げているだけではないのか? そうだよ。結局俺も彼女から逃げているだけなんだ。知ってるよ。知ってる。ただ、現状位置で彼女が傍にいてくれるならそれでいい。それで幸せなんだから、ほっといてくれ!


 ――自分の玄関が開く音が響き渡る。

 縁側から雨に打たれる幼馴染が見えたので、玄関が開く音もおそらく彼女だろう。


 彼女は隣に住む住人で、俺と幼馴染枠で、ポニーテールの鳳凰 《ほうおう》 あきら。夜中九時、彰は酔っぱらって、俺の家に勝手に上ってきた。


 彰の足は酔っ払い代表のような千鳥足ちどりあし、居間へ来るや否や飛び込むように炬燵の中へ頭からダイブ! それは、野球の試合で見るヘットスライディングにも見えた。


「おいおい……」

 呆れて、彰へと近づくと、さっきからの雨で彰はびしょ濡れの状態。炬燵どころか、あちこちが水浸しだ。ふざけるのも体外にしろと言いたい……がそんな気分にもなれなかった。


 顔が真っ赤にした幼馴染からは喫煙者独特の脂の匂いと、渋かきに酒を刷り込む匂いの何倍かの酒の匂いが漂う。


 思わず彰へ近づくと「やぁ、我がご近所さん」悪びれることなく呟くが、そもそも悪びれる程の余力さえ残っていない醜態の悪さ。居酒屋でアルバイトをしたことがあったが、ここまで酷いのは稀だ。


 彼女を見ていると、それ以上は酒を飲む気力がなくなってしまった。

「びしょ濡れの服だけはどうにかならんか?」仕方がなく彼女の自宅まで服を持ってきてやろうと考えたが「全部、雨で濡れちゃった。アハハ……」彰は潰れたカエルの鳴き声で言った。


 縁側から見える隣人の住宅地には、干しっぱなしの衣類が掛けられていた。角度的に屋根がないため全滅だろう。

 俺は洗面所から、何枚かタオルとシャツとパンツと……彰は女性だったわ。てな具合で、必要そうな布を掻き集めた。


 彰が着替えている間に、俺は彼女が濡らした畳、廊下を乾いたタオルで拭いた。拭き終えると、奥の部屋から元々雨香李が使用していた布団を居間へと運び、彰を寝かせつけた。


「頼むから、布団の上だけは吐かないでくれよ?」

 なんとなくだが、こんな時は遠くの親戚より近くの酔っ払いのほうがよっぽど自分の気を落ち着かせてくれる。彰の醜態のおかげでなんとか胸の痛みが和らいだ、気がした。でも、そこまで酒に飲まれることないだろう。


 そして、その酒気を帯びた彰の顔は、段々と歪んでいく。

「ん……えーん」――彰は急に俺へと抱き着いてきたのだ。


「おいおい……」

 その幼く見える幼馴染の頬には、涙が何粒も零れている。


 そんな彼女から離れるワケにはいかず、ただただ見守るしかない。泣き号所かよ――? 女性の涙はずるいな……と思いながらも、ふんわりとした彼女の温かみが体中に染み当たる。


 彰の涙を見たのは、何回目だろうか?

 元彼氏にフラれた時、祖母が死んだ時、そして、あといつだ? 思えば数えきれない程の感情爆発を俺は隣で見てきた。そして今、酒の力によって彰のリミットは完全に壊れてしまっていた。


 なぜか俺らも酒が飲めるほど歳を取ったんだなと、改めて考える。そんな彰を甘やかすように背中を摩ってやった。背中を強く握る手、膨らみのある胸が胸部へと当たっていたが、そんなことどうでもいいぐらい彼女の行動は過去の日常茶飯事といってよかったはず……。


 ――彰は弱い人間なのだ。

 それなのに、なぜ刑事なんて仕事をしているのだろうか?

 正義だとか、秩序とかの前に、俺が知っている彼女は普通に活発で、いつも自分を隠すために誤魔化ごまかし笑いが得意な女の子で、どうして誰かを守ろうって役目を負っているのか? 

 そして毎度この涙は俺ではなく、もっと他の誰かに向けられているハズ……。


 おそらく、この涙はあの亡くなった上司への涙だと思った。

 そのハズなのに「もう、どこにもいかないで」その言葉は先は俺へと向いている。


 その言葉がどういう意味だか、俺には分かるような、分からないような、不思議な気持ちだ。彼女を泣かせるようなことを過去の自分がしたのかもしれない。


「分かったから。ああ、もう……」理由が判らなくても、とりあえずそう応えるしかない。泣いている彼女に対して反感することはダメなのだ。

 俺は彼女が泣き止むまで傍に居るしかなかった。



 気づいたときには、時計の針は、この日を終えようとしていた。

 なんとか、彼女が泣き止んだあとだ。

「今日は、雨香李ちゃんはいないのね?」と、状況に気づいた彰は俺へと尋ねた。


「雨香李は、家に帰ったよ? やっとで話す気になったのやら、なんやら…」

「あぁ、だから、電車に乗ってたのね」

「――え?」


 雨香李はこの家からあの教会へ帰宅するのに、電車を使うのは珍しい。それに湘南モノレールでも江ノ電を使うとしても、あの教会へと行く場合は遠道の他にないのに……。


「だって彼女、今日、江ノ島方向に乗って……」

 って、雨香李の家は湘南モノレール沿いだ。彰はそのことを知っているのか、知っていないのか平然とそのことを口から吐いた。


「彰、雨香李は茅原教会の隣にある養護施設に住んでいる方向が違う」

「え、そうなの? ってことは… えーとどういう事よ?」悩むように彰は枕に首を埋めた。

「……アンタ、それでも警察なのかい?」

「ごめん、思考力が鈍って、なにがなんやら……」


 ……かなりの量を呑んでいるのは分かるが……節度ある飲み方ができていればあの違和感に気付けたのではないだろうか? 嫌な予感――それは、ただの思い込みだとしても、尋ねる必要があった。


 だが、なぜだ? 彼女は今日教会へ母と話し合うと言っていたはずなのにどうして……と、背中から嫌な汗が流れていく。

 そもそもだ……別れる間際に言った『母親』とは誰のことなのか?


「彰は、もしものため、家で待っていてくれないか?」

 と俺は彰に伝えると、今すぐ茅原教会へ向かう準備を整えた。


「も、もしかして、家出とか、そういうAGのCMとかでよく見る家に何か事情があって帰れない少女的な悩み多い絶望に暮れてた少女を見て判断できなかった元交通課失格なことを私してたりします?」

「……いや、まだ勝手に判断できない」

「そ、そうだ。勝手な憶測は操作を鈍られるのよね。まずは素性捜査からが基本で……」

「まず、雨香李の家へ行ってくる」


 そう伝えた時には玄関を開けていた。電話番号を調べる時間さえ勿体ない気がした。自転車に飛び乗り、茅原教会へと向かう。

 濡れたサドルが尻を冷たくしていったが、そんなことを考える暇もなく、とにかく今は彰が見た残像が嘘であると信じたかった。


 その行く途中、頭の中には彰が残した言葉が脳裏で何度も反復した。

 教会に着くと一目散にインターホンを押した。数秒後、インターホンには静香さんの声がした。


「はい、茅原です」

 そのあと、雨香李が帰ってきているのかを確認をしたが、彼女は家に帰ってきていなかった。そして、彼女が帰ってこないことを告げると、静香は玄関を開けて、一度俺の目を見た。

 その顔は不安か恐怖からか、少し蒼ざめた顔をしていた。



 竜二は受話器を置くと、大きく溜息をついた。

「ここにも来ていないか……」

 これで、十件目だと思うが雨香李の存在は、未だに見つかることはなかった。


「母の元に帰ると言ってか……」

 唯一の手掛かりをなぞるように竜二は何度かこのセリフを吐いた。

「まさか、天にいる母の元へとか……」と長女である静香。

 この顔は鬱蒼として、目も未だに不安で満ち溢れているようだった。


「だから静香は落ち着けって? この歳の娘なんだから、そこまでバカなことはしないだろう」

 静香は言うと、責任を感じて声を出す事さえできない状態にいた。埒が明かないので、とにかく竜二さんと現状把握をすることを優先させた。


「それはともかく、江ノ電で雨香李さんを見掛けたという噂があります。そこら一体で何か雨香李さんが行きそうな場所とかってありますか?」

「ん……」と健二は唸る。

 それもそのはずで、竜二は既に電話を使って思いの節はあたっているからだ。

 しばらく、唸ってはいたが、時期にこの言葉の行き先は静香へと向けられる。


「静香、お前は江ノ島の方面でどこか行きそうな場所は知っているか?」

 その言葉に、二度ほど彼女は俺のことをチラ見した。

 何やら、俺がいると答え難い事があるのかもしれない。だが、その事はすぐにあやふやになった。


「私たちは、そのですね。十年前にこの土地に引っ越してきた身ですから、特にこの街に頼れるような親戚はいません。それと……」静香が語る前に、竜二は一度言葉をさえぎる。

「おい、それは雨香李が言うまでは……」


 竜二がいきなり大きな声を出したので驚いてしまった。だが、その言葉をまたしても遮るように「もう隠せないでしょう? それにもう雨香李が話したに違いありませんから……」前置きをし、ちょっぴり寂しそう眉を下げた。


「言っても他愛たあいもない事です。私たちは兄妹だと言っても本当の兄妹ではありません。だからって、宗教的な兄妹というワケではないのです」

 尚を静香の話は続く。

「私たち三人は、先代の司教様の養子。三人とも別々に、養子として迎えられたのです。ですから、この街に私たちのような移民が頼れる人は本来は誰もいないのです」

 そう語る静香の顔はどこか悲しげなのに、その口角が少しだけ吊り上がり微笑んでいた。


 だが、言われたことに俺は驚かなかった。始めての教会を訪れた時に既に、アヤカと彼ら兄弟の名前の不憫さを語っていた。それは真実であっても、彼らが家族として生きようとした時間や絆は変わらないと知っていた。

 今もこうやって、真意を交したところで、静香は雨香李のことをこんなにも思い苦しんでいる。逆に彼らが隠してきたこと。それにはもっと意地の悪い悪戯があるのではないかと思うほどだ。……と、何か俺は頭に突っかかるワードが存在した。

 

 ――そうだ。

 彼らには元の親がいたのも確かなのだ。

 子がいる以上、それには産みの親が存在するのは生理学上あたり前のことで、雨香李はそれをとても知りたがっていた。


 彼女は、俺に何度も語ってくれた『私はいったい誰なの?』そのセリフは間違えなく、自身の知らない両親へと告げられた言葉だろう。

 そして、雨香李が何かを隠そうとして絞り出したセリフだとしても、間違えなくそこには彼女の本音……があったのかもしれない。


 そう思ったとき、俺は彼らにあることを訪ねていた。

「もしかして雨香李さんは、母と居た場所に行きたがっていました。それと、それを知っているのが姉の静香だと……」

 この言葉を聞いたふたりは真意を抜かれたように、思考を停止させたのだ。


「もしかして、彼女が元暮らしていた施設かしら」静香がポカンとそう言葉を漏らしたのだ。

 竜二はいつもの顔に戻ると、それが静香とアイコンタクトを求めるように何度も目が泳がした。

 それに、静香は気づいた。

「ごめんなさい。私が、彼女にあの施設の名前を教えてしまったの」

「そんな……」ボディーランゲージも踏まえて竜二は悲しみを表現するが――

 

その時には、俺の身体は既に雨香李の元へと向けられていたのかもしれない。

 彼らの言葉を待たずにして、口が勝手に動いていた。


「もし、よければこの場所を教えてくれませんか?」

 一度、竜二と静香の顔が合わさる。俯く静香と同時に、竜二は俺へとある依頼をした。

 それは雨香李が『天使』というコードネームに疑われていたから、頼めたことでもあるだろう……。


「元々、隠しきれない事柄を隠蔽いんぺい)ていたのは俺たちなんだ。雨香李が納得するか分からないが、ひとつ買い物を頼まれてはくれないか? そうだな、ズルいと思うが……、これは『天使の事案』。どうか、手を貸して貰いたい」



 そのあとのことだ。

 竜二は奥の部屋からバインダーに挟まれた資料を持ってきた。

 この資料の施設に記載された『森の教会』――この施設が雨香李が元々預けられた施設だと説明したのだ。

 

 そして、それらの説明が終えた後、竜二は言葉を付け加えた。

「もし俺たちの存在が分かっても、彼女にはここに雨香李がいたという真実だけを知らせて欲しい。それは彼女、静香の名誉に関わる問題だからな」

「それは、どういう意味ですか?」

「……おそらく、観てしまえば嫌でも分かることになる……が、見つからければ、それが一番ふたりを傷つけない方法――だと思うんだ」

 竜二は意味深な言葉を繋げた。


 俺は、それから教会を出発した。

 だが……茅原教会から出た後に思わず、「んげ」と言ってしまう。

 約束をしてしまったモノのひとつ欠点がある。


 俺は車の運転ができなければ、既に終電の時間は刻一刻も迫っている。ましては、途中で電車がなくなる可能性もあれば、雨も降っている。


 だが、こういう事件が起きたときに助けてくれそうな事務所に覚えがあった。

 言うまでもなく我がバイト先は『山田特殊探偵事務所』だ。しかも、竜二が『天使の事案』だと語るように、店主たちはあの雨香李という少女を天使だと疑っている。


 教会を出てすぐ携帯を取り出して古書堂へ電話を掛けた。

 そして、その電話は、すぐに繋がった。


「はい、もしもし?」と、受話器から若い男性の声。


 電話に出たのは、山田古書堂の探偵、古賀はじめ。

 俺の先輩で丸眼鏡の『空間転移くうかんてんい』だ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る