第19話 à propos de moi - Partie 4

 病室に戻って来た日笠の母親は俺たちの様子を見て何か感じたようだが、ただ一言「話は終わった?」と尋ねただけだった。

 彼女の母親と共に病室を後にして、ロビーまで戻って来た。

 病院を一歩出ると来た時には暑く照っていた陽が少しばかりマシになっていた。

 思っていたよりも長くいたのかもしれない。

 急なお願いに対応してくれた潤子さんにお礼を言うとともに気になっていたことを尋ねる。


「何があったかとか聞かないんですね。」

「それは今、私が親としてすることではないからね。それとも娘をここまで追い詰めたことに対して何か言われないと悠君の気が済まない?」

「やっぱり気づいていたんですか。」

「これでもこの子の親を十五年はやっているからね。正直、娘が手首を切ったのを発見した時には気が動転して大変だったし、今でもこれからの事とか不安でいっぱいだけど、それは親としての私がやることであって悠君や梨沙ちゃんに何か言う事ではないよ。だから、何も聞かない。後は親の仕事。」


 日笠との問題がなくなったわけではない。

 自殺を図るような精神状態から一日や二日で快復するわけなどない。

 俺たちの関係だって雨が乾くまでには時間がかかってしまう。

 彼女と向き合ったのは今のためではなく、未来のための一歩でしかない。


「すいませんでした。こんなふうにしかできなくて。それと、ありがとうございました。」

「頭をあげて。さっきも言ったけど、悠君が背負いすぎることはないの。思春期の女の子ってのは惚れた腫れたが一大事で、それこそ命だってかけられちゃうの。親がそこをしっかりと見てあげないといけないのに、私も気づくのが遅かっただけ。」


 俺の心にのしかかる責任を軽くするための言葉。

 それが親の優しさか。


「今、悠君がやらないといけないのは謝ることではなく、話し合う事だと思うよ。恵だけじゃなくて、もう一人話さないといけない子がいるんだから。」


 どうして大人は全てをわかっているのだろうか。

 自分もいつか大人になればそうなるのだろうか。

 親になればわかるのだろうか。

 潤子さんにもう一度お礼を言って別れた。


 フワフワとした感情を心に持ちながら、自転車に乗ってきた道を帰る。

 今から俺が向き合わないといけないもう一人のことを考えながら。

 一番の友人であり、理解者であり、救いであり、恋人であり、依存相手であり、何よりも大切な人。

 思えば人生の半分以上の年数を彼女と過ごしてきた。

 思い出を五個語れば、そのうち四個には彼女が登場する。

 切っても切り離せない自分の一部。

 近いからこそ、近すぎたから気づけないこともあった。

 ずっと分かり合えると思っていたから考えもしていなかった。


 最近の俺たちには言葉が足りなかった。

 昔は何でも話し合えたはずなのに。お互いの話したいことをすべて口に出して、いつまでも会話は途切れなかった。そんな時間が懐かしい。

 心で通じ合っていたつもりでいたけれど、それはお互いのことをよく話してよく知っていたから何も言わなくても今の状況が分かっただけだ。

 高校生になってからは話す時間も減り、直接会えるという油断からかメールでのやり取りも減っていた。

 彼女の変化に気づけないような状態に陥っていたのだ。


 暑さにやられる頭で考える。

 途中に自販機で水を買って飲む。

 そして、また自転車を走らせて次の目的地へと向かう。

 汗で拭くが濡れているのがわかっていても進んだ。


 沈み切らない太陽を恨みながら、その光が沈まないうちに彼女の家に着くことが出来た。

 柊家のインターフォンを押すのは慣れたものだった。

 それなのに何故かいつもよりも震える手。

 難しい事はない。

 恋人と話しに来た。

 それだけだ。

 いつも通りのチャイムが鳴り、インターフォンから声が聞こえるよりも先に玄関の扉が開く。


「来てくれると思ってたよ。」


 出てきたのは予想通り柊ではなく、母親の方だった。

 エレオノールさんはそれ以上何も言わず、俺を家に招き、二階を指した。

 部屋の場所は当たり前のように知っている。

 子供の頃から何度も上ったこの階段が今日は何故だか長く感じた。

 柊の元へ行くのはこんなに遠かっただろうか。

 登り切って一番手前の部屋。

 今朝と違い鍵は持っていないため、彼女が拒絶すればそこで終わりだ。

 ノックをしてドアノブを握る。

 抵抗なく開く扉に安堵しながらも、それだけで何かが解決したわけではないと気を引き締める。


「梨沙。起きてる?」


 陽が射しこんでいるとはいえ、電気の付けられていない部屋は見えづらく、ベッド横たわる彼女を一度見逃した。

 声に反応して起き上がる。

 今朝見た時と同じ服にもう一度着替えていたが、床には脱いだ服が散乱していた。


「話したいことがあって来たんだ。」


 一歩近づく。

 こちらを見つめる虚ろに近い眼は俺以外の何かを見ているようだった。

 日笠か、それとも柊自身か。


「――。」


 口が動いたが声は聞こえなかった。

 それを自覚したのか、悲しい表情を見せた後、手招きをする。

 呼ばれるままに傍に行く。

 ベッドに座る彼女と目線を合わせるためにしゃがんだところに、柊が飛びついてきて押し倒される。

 こうなることは何となくわかっていた。

 何かを急くように唇を奪われる。

 息が苦しくなれば離し、一息吸ってもう一度重ねる。

 塞がっているのは口だけなのに、彼女はキスの時、息を止めてしまうから苦しいのだ。


 親愛や恋慕だけが込められた口づけではなく、存在そのものを確かめるような行為。

 彼女自身が確かに存在して、その隣に俺が居る。

 二人の間には「愛」が在る。

 傍に居てほしい時に来てくれて、傍に居たい時にそれが許される。

 そう語るためのキス。

 でも、これは毒だ。

 求める度に響き、触れる度に沁み、重ねる度に蝕み、いずれは全てを侵す甘美で残酷な毒。少しずつ入って来るそれに気づくことは難しく、気づいた頃には戻れない。なくてはならず、あれば安らぐそれを毒と呼ばずして名前を付けるのならば――。

 マウントを取られた状態から優位に立つのは苦労だが、柊との交際の中で慣れたものだった。


「キスは嫌いじゃないけど、今は話がしたくて来たんだ。」


 目を見てそう言った。

 彼女を逆に押し倒して、両腕を抑えながらなので傍から見たらとってもカッコ悪い体勢だろうか、それとも美女に襲い掛かる変質者だろうか。


「――っ、――ぃ。」


 柊の口は少し開くが言葉は出てこない。

 無意識的に発声を抑えているのだろう。


「今日、日笠にもう一度会いに行ってた。」


 何も言わないがその表情に浮かぶのは驚きと困惑。

 自分のことが好きだとわかっている異性と二人きりで会うというのは限りなく浮気に近い行為だ。それも恋人が弱っている時に。


「大丈夫、今日はキスされてないし抱きしめてもない。ただ、日笠と話し合いたくて行ったんだ。」


 身の潔白を繕ったって今更であるが、言わないよりはマシだ。


「俺も日笠も梨沙もお互いに色々と思うところがあるのはわかってる。でも、喧嘩しているうちは何も解決しないから、向き合おうと思って会いに行ったんだ。それでも三十分も話していないけど、もう一度友達になろうって話をした。」


 柊が何か言いたいということは表情から伝わってくる。

 しかし、今の彼女には言葉を発するまでの怯えが大きすぎる。


「あんなことがあった後だって、俺たちは向かい合えば、話し合えば分かり合えるんだ。話さないから、自分の気持ちを言葉にしないからこじれてしまうんだ。」


 言葉にしなくても伝わるとか、心で繋がっているとかそれは「知っている」からできることであって、その情報を更新していなければその繋がりも切れてしまう。

 柊と出会った日から築き上げてきた関係だって例外ではない。

 彼女が落ち着いたのを見て腕を解放した。

 視線は俺に何かを訴えていた。

 でも、何を言いたいのか俺にはわからなかった。

 こんなにも彼女を愛しいと思っているのに。

 柊は枕元の携帯電話に手を伸ばして取り、馬乗りになっている俺を見上げながら操作した。

 ポケットの中で振動するスマホ。

 メッセージアプリを開いて確認する。


『わからない。』

「何が?」

『今の私には悠のことがわからない。』

「俺のこと?」

『今だけじゃない。高校生になってから悠のことが少しずつ分からなくなった。』


 悲しそうな表情で言葉を補う。


「俺だってそうだ。高校生になって時間を取って行ってもどこか梨沙のことがわからなくなった。」

『そんな時、気づいた。恵が悠のこと好きだって。そしたら余計にわからなくなった。不安だった。』


 彼女はその不安を解消するために愛を求めた。

 デートの回数を少し増やしたり、会えば必ずキスをしてみたり、身体を重ねる時には深き長く繋がってみたり。

 言葉ではなく愛を求めた。

 俺もそれに応えた。正しいと思えたから。


「それについては俺にも責任がある。」

『私たちは間違えたんだ。』

「もっと話し合うべきだった。お互いの気持ちをちゃんと言葉にして伝えるべきだった。」

『それがわからないくらいに愛に侵されていた。』


 それだけに囚われてしまっていた。

 相手ではなく自分ばかりを見ていた。

 柊はいつの間にか涙を流し、拭われないそれが下へと落ちる。


「今はわかる?」

『わからない。けど、これだけは言える。』


 伸びてきた腕に引き寄せられる。

 俺の耳元に唇を近づけて、囁く。


「好き。」


 それが本当に柊の声だったのか心の声だったのかはわからないけれど、確かに伝わった。

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