第18話 à propos de moi - Partie 3

 自分の行動が誰かを苦しめていると考えたことはなかった。

 それも無自覚のうちに身近な人を傷つけているなんて思いもしていなかった。


「話?梨沙と別れて私と付き合ってくれるとか?」


 日笠の顔に浮かんでいるのが無理矢理作った笑顔なのだと今ならわかる。

 今の彼女は自分の言葉で自分自身を傷つけてもいるのだ。


「そんな話じゃないよ。もっと真面目な話。」

「まあ、それは現実味がないか。じゃあ、梨沙とは別れないけど、私と浮気してくれるとか?それでもいいよ。私は二番目でもきっと幸せだから。」


 吐き出される言葉は本心でもあり、偽りでもあるのだろう。

 自分の立場や価値を下げるような発言は自傷行為の延長線上なのかもしれない。

 目の前にいるショートカットの女の子は、俺のよく知っている日笠ではなかった。

 こんなに辛そうに笑う彼女を知りたくはなかった。

 でも、逃げているわけにはいかなかった。


「日笠が辛い時に気づいてあげられなくてごめん。梨沙のことばかり考えて、日笠が苦しんでいることなんて考えられていなかった。正直、今でもいつからそういう状態になっていたかわからない。友達のことをちゃんと見てるつもりで、何も見てなかったんだなって後悔してる。だから、今日は日笠と向き合いに来たんだ。」


 急にそんなことを言われ、驚いたような表情でこちらを見る。


「今更何を。」

「遅くなり過ぎたとは自分でも思ってる。」

「向き合うってどうするの?私を彼女にしてくれるの?それともちゃんとフルの?誇ることでもないけどさ、今、悠にフラれたら、私何するかわからないよ。ショックでまた死のうとしちゃうかもしれないし、今度は梨沙や悠を殺そうとするかもしれないよ。それでも私と向き合う?」


 自分のことを抑える自信がない。

 日笠はそう告げた。

 そういう警告を告げる余裕がある程度には、自殺を図った時よりも精神的には安定しているのだろう。

 その言葉の中に込められた感情はきっと複雑なものなのだろう。

 ただの本心でもあり、構ってほしいがための言葉でもあり、嫌われてしまおうと思い発された言葉でもあり、遠回しに付き合うしかないと脅す言葉でもある。

 どれも日笠の中にある感情で、本人ですら上手く整理のついていない想い。

 でも、俺は向き合わないといけない。

 彼女が思っているような向き合い方とは違うかもしれないが、今の俺にできることを。


「付き合うとか付き合わないとか置いておこうよ。まずは日笠の話を聞きに来たんだ。」

「置いておく?向き合うとか言っておいてそれは逃げてるだけだよね。自分からは私に何もしていないから大丈夫だって、彼女を裏切ってないんだって態度でさ。私の告白に返事もせずに、当事者なのに第三者みたいな顔をして、他人を心配するような素振りをする。それは『逃げ』じゃないの?」


 言葉が刺さる。

 正しい言葉。俺への怒り。


「日笠の気持ちから目をそらすことはしないし逃げることもしない。それは約束する。向き合いたいからこそ、その前に話をしたいんだ。」

「何を話し合うの?私たち知らない仲じゃないんだから。もっと深いことを知りたいってこと?恋人になる上で大切なことっていうと私の体重とかスリーサイズとかバストサイズとかそういう情報が知りたいの?どれも梨沙には負けてるけどそれでもいいかな。」


 でも、逃げているのは俺ではない。

 今もこうして話をそらすようにして誤魔化している日笠の方だ。

 彼女がこうして挑発的な事を言うのだって、俺と、いや、この問題自体と向き合わないための逃げでしかない。

 彼女が向き合えていない「日笠恵」に俺はしっかりと向き合わなければならない。


「日笠は梨沙のことをどう思ってる?」

「そうやって他の女の子の、それも恋人の名前を出すなんてデリカシーがないよ。乙女心をもう少し分かったほうが良いよ。」

「真面目に答えてほしい。」


 いつもより真面目な声色で頼む。

 一つため息をついてから、彼女は口を開いた。


「大切な友達だったよ。」

「今は違うの?」

「今も大切な友達だよ。でも、それと同じくらいあの子のことが嫌いな自分もいる。」


 唇を強めに噛んで何かを堪える。

 その後に言葉を続ける。


「誰もが思わず見てしまう顔立ちに綺麗な肌、加えてとても日本人では叶わないようなスタイル。私が欲しいものを色々と持っていて、前から憧れだった。だけど、好きな人まで梨沙の物だなんていうのはズルいよ。私の方が後から好きになったから文句を言うのは的外れだってわかってるけど。わかっているからって気持ちは抑えられるものじゃないの。」

「好きだけど嫌い?」

「その言葉は使いたくないし、少し違うけど、まあ、そういうこと。友達として近くにいるからこそ、あの子の良いところをいっぱい知っているからこそ、私では届かない存在だってわかっているからこそ、嫌になる。親友だって思っていたのに、思っているのに、良くない感情が膨らむことを止められない。私の中に私が何人もいるみたいで気持ちが悪い。天使と悪魔とかそういう分かりやすい違いならよかったんだけど、そんな明確な差はない。全部、根っこの部分では繋がった私自身。どれも正しくて、どれも間違っているように思えて、どれも私。湊が向き合うとか言っている私はどの私?中学の頃から二人と仲が良かった私?悠のことが大好きで、梨沙のことが大嫌いな私?梨沙や湊のことをめちゃくちゃにしてしまっている私のことが嫌いな私?どれを受け入れてどれを否定すればいいのか、湊が教えてくれるの?私にもわからないのに。」

「俺はただ日笠を受け入れるだけ。どんな日笠も否定しない。」

「そんなのただの理想でしかない。そんな玉虫色の答えなんか意味がない。」


 叫ぶ。

 昨日までの厭世的な何かを諦めきったような態度ではない。

 等身大の日笠が発した叫びのように感じた。


「理想なんかじゃない。現実として受け入れる。」

「できるわけがない。あなたは私じゃない。私もあなたじゃない。良いと思えるところもあれば、嫌だと感じるところもある。それをただありのまま受け入れるなんて不可能よ。できないから見られないように隠したりするし、見ないように目を背けたりする。それが自然で、そうしているから人間関係って上手く行くんじゃないの。湊だって梨沙に何もかもを見せてるわけじゃないでしょ。梨沙の全てを知っているわけじゃないでしょ。いくら好きだからって、お互い似ていて分かり合えるからって、理解者だなんて言い張ったって、自分は自分でしかなくて他人は他人でしかない。誰かの全てなんて受け入れられるわけがない。梨沙との問題にも向き合えていない湊が私と向き合って、その全てを受け入れるなんて言える意味が分からない。そもそも受け入れてどうするの?『受け入れました。はいおしまい。』なんてことはありえないでしょ。その先にどうするの。受け入れてもらえたら元の関係になるなんてありえないんだよ。どんな私も受け入れてくれるなんて言われても無責任な言葉にしか聞こえない。それは向き合った結果じゃなくて、都合よく目を逸らした結末じゃないの?否定をしていないだけで受け入れたわけじゃない。あなたがしようとしていることはそういう事ではないの?それで誰かが幸せになるの?私は幸せになれるの?」


 抑えていたものが溢れ出たかのように矢継ぎ早やに吐き出される言葉。

 呼吸すら惜しむように言葉を紡ぎ、喉が水分を求めることさえ無視したため声は枯れ、言い終えた頃には肩で呼吸をせざるを得ない状態だった。

 激しい感情の起伏。

 彼女が抱えていたものが形を変えて現れる。

 この数日、俺たちに見せていた妙に落ち着いた姿の内側に渦巻いていた複雑な感情に、彼女は押しつぶされてしまった。

 こうやって誰かにぶつけることさえできずに、向き合う事も出来ずにいた十五歳の少女に気づくことが出来なかった。


 思わず抱きしめたくなる。

 その選択肢は誤りだ。

 優しさを間違えてはいけない。

 彼女を慰めに来たわけではない、同情しに来たわけでもない。

 だから、俺は答えなくてはならない。


「幸せになれるかどうかはわからないけど、今より辛くはならない。元の関係には戻れないけど次の関係には進める。俺は、俺たちは日笠ともう一度友達になりたい。そのために会いに来た。」

「それが向き合うってこと?」

「日笠の気持ちをわかった上で、俺たちに対して様々な思いを抱えているのを知った上でで、ちゃんと仲良くなりたいんだ。」


 自分でもそれが正しいかなんてわからない。

 俺にはそんなことしか思いつかなかったし、それしか口にすることもできなかった。

 沈黙。

 廊下を歩く人の足音すらうるさく感じるほどの静寂。

 自分の頭の中ではいろんな言葉が渦巻いているのに、二人の間には言葉がなかった。


「一つ、ううん。二つだけ聞かせて。」


 先に出たのは彼女の言葉。


「私は湊悠のことが異性として好き。あなたは私のことどう思ってるの?」

「俺は日笠恵が好きだよ。友達としてだけど。」

「わかってたけど残酷な回答ね。それと、もう一つ。梨沙とは別れるの?」

「少なくとも俺はそのつもりはない。」


 日笠が大きくわざとらしいため息をつく。

 ベッドの傍に座る俺に向き直り、再び口を開いた。


「友達になってあげる。だけど、好きな人と楽しそうにする姿を見せつけられる私の気持ちも考えてよね。」


 そう口にした日笠は目から涙を流していたが、表情は何時ものように笑っていた。


「俺を好きになってくれてありがとう。」

「追い打ちだよ、それは。好きになりたくなかったな。でも、好きになって良かった。」


 そこで会話は終わった。

 彼女の母親が戻ってくるまでの時間、俺たちはただ黙ってお互いを見つめていた。自分を見つめていた。

 その沈黙は何故か心地よかった。

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