第14話 L'amour va dévorer leur coeur.

 修羅場。

 そう呼ぶにふさわしい光景がそこには広がっていた。


「悠はしばらく黙っていて。」


 顔を合わせるなり、そう言われ、俺の弁明の機会は失われてしまい、ただ彼女の達を見ているしかなかった、

 昨日とは比べ物にならないくらい怒っているであろう状況なので、出会い頭に一発や二発殴られることは覚悟していたが、日笠の部屋にやってきてなお、柊は静かである。

 それでもこの場に漂う空気は一触即発と言った様相で、誰かが言葉を発するのを待っているようだった。

 嵐の静けさとはこういう事なのかもしれない。


 突然の望まぬ来客に対して律儀にお茶を持ってきた日笠が着席するのを確認して、差し出されたお茶を柊が一口飲む。その姿を見て日笠が微笑む。

 それが合図だった。


「私は恵からの説明を待っているんだけど。」

「何の説明?」

「私の彼氏があなたの部屋にいる理由よ。」

「呼んだからに決まってるじゃん。」

「どうやって誘い出したの?」

「話したいから梨沙に内緒で来て欲しいって言ったら来てくれた。」


 淡々と行われる言葉のキャッチボール。投げているのはボールでも、相手にダメージを与えるつもりで投げられる速球。

 あからさまな棘の生えた言葉を、挑発的な言い回しを相手にぶつける。内容は嘘ではないが意図的に説明を省いていた。

 仲の良い友人同士の会話とはとても思えなかった。


「脅したの?」

「そんなことするわけないじゃん。」

「最初からそのつもりで?」

「どうだろうね。」

「どこまで手を出したの?」

「まだキスとハグかな。邪魔者が来なければエッチまでできたのにね。悠も無抵抗だったし。梨沙の体に飽きたんじゃないの?」


 浮気者。

 柊が無言で非難する。

 否定はできない。

 同時に俺の顔に手を添える。首を撫で、顎を持つと顔を近づけてキスをする。

 彼女の意識が俺に向いていないのがわかった。


「これはただの上書き。」


 日笠に見せつけるためだけに行った行為。

 再び重ねられた唇。その間を舌が割って入る。

 発言も抵抗も許可されていない俺は受け入れる。

 唾液の絡む音がする。

 しばらくしてようやく離れ二人の間に糸が引く。


「これは―ただしたかっただけかな。」


 したい時に私はできるのだと、自らの所有を主張する。

 毅然としているがどこか辛そうな日笠の表情。

 それを見て嬉しそうに微笑む柊。


「まあ、いいわ。ふざけるのはここまでにして、もっと建設的な話し合いをしましょう。ここからは悠も話していいよ。」

「ごめん。」

「謝るくらいなら最初から恵の家に行かないで。下心が少しもなかったなんて嘘は聞きたくないから。可愛い女友達と二人きりと言う状況をちっとも楽しんでないなんてことないでしょ。」


 言葉に詰まる。

 全くその通りだったからだ。


「話し合いの前に二人とも一発だけ叩かせて。そうじゃないとむしゃくしゃして話にならない。」

「わかった。」


 アグレッシブな提案を日笠はサラッと受け入れる。

 当然のように俺の返事を待ってはくれなかった。おそらく俺にはその余地すらないのだ。

 日笠と俺を立たせて彼女は大きく位置を吸う。


「じゃあ、恵からね。」

「お手柔らかに。」


 左手を肩に置き、逃げられないように捉える。

 腕を後ろに引き、こぶしを握り、全力を籠めたであろうその拳を日笠の鳩尾に沈めた。

 ゴフッっと鈍く咽た後、お腹を抱えて床に転がり咳込む。

 ビンタを想像していたところに強烈な一撃を喰らい、本当に苦しくて痛そうに見える日笠に駆け寄ろうとしたところを止められる。


「いくらなんでもやりすぎだろ。」

「因果応報と言うやつだよ。それよりも―。」


 ベチッっと鈍い音が部屋に響く。今度こそビンタだった。

 それに気を取られたところに、日笠同様鳩尾への攻撃を受けた。

 身体から空気を吐き出し、呼吸が止まり、頭が真っ白になるくらいに力の込められたものだった。女性の腕力とはいえ、体格に恵まれた彼女が本気を出せば高校生の男子でもこれほどのダメージを負うのだ。


「とりあえず浮気の罰は一旦これで終わり。話し合いをしましょう。」


 俺たちにそう話しかけるものの、二人ともまだ起き上がることのできない痛みに耐えている段階なので答える余裕はなかった。

 普段暴力など振るわない彼女がこの二日間でどれほど怒っているのかはそれだけで察することができた。

 まともに動けるようになったのは少し経ってからだった。

 痛みが引いてきて、テーブルの上に残っていたお茶を飲み、ようやく生きた心地がした。


「それで悠はどっちを選ぶの?」


 ようやく実感した命が再び縮まるような質問。

 明示されない選択肢は明確だった。

 答えるべき答えも明白だった。


「俺は梨沙の彼氏だよ。」

「ありがとう。恵、そういう事だから現実を見て。」

「知ってるよ。でも、今はそうだって話だよね。将来的には私の旦那さんってこともあるんだよ。結婚式には梨沙も呼んであげる。」


 俺の言葉を聞いても日笠の態度は変わらなかった。

 彼女を見つめる柊の目は複雑な気持ちを孕んでいた。

 一昨日に語った『おかしいのは恵の方』という言葉の意味を理解させられる。

 彼女の心は疲れてしまっている。病んでいるとさえ思えるほどに、考え方がおかしかった。

 そこまで彼女を追い詰めてしまったのは俺たちだろう。

 だから、俺たちがその心を解くしかない。


「残念だけど、昨日も言った通り。恵に悠は渡さない。話せばわかる程度だと思っていたけど、今のあなたはおかしい。恋人だからではなく、好きな人を壊れかけた恵に渡すわけにはいかない。今の恵に悠を幸せにすることはできないから。」

「そんなのやってみなければわからないじゃん。」

「わかるよ。今の自分を鏡で見てごらん。自分勝手で可哀そうな自分自身を。」


 柊だってわかっているはずなのに、彼女は強い言葉を吐き続ける。

 日笠の言っていた通り、柊も不安で心を乱されている。そこに親友からの裏切りを喰らった。精神の不安定な彼女がまともでいられるはずがない。


「そりゃ、梨沙にスタイルは負けるかもしれないけどさ。体だけが恋人の全てじゃないでしょ。優しさとか理解力とか尽くす愛とか。そういったものがあって、愛していると言えるんだと思うの。私は悠が好き。愛している。こんな気持ち初めて。今までの恋とは違う。これが本当に好きと言う気持ちなんだってやっと理解できた。私なら悠に全てを捧げられる。悠のためなら何でもできる。悠だけが居ればいい。」


 叫ぶ。

 かつて柊も口にした言葉を。

 違うのは片面的な依存であること。

 俺以上に言葉に反応した柊が日笠に詰め寄る。


「梨沙。落ち着いて。日笠も一旦落ち着いて。」


 仲裁に入る。

 そんなことのできる立場ではないとわかっていながらもそうするしかなかった。

 話し合いをすると言いながら、放っておいたら進まないことがわかった。

 二人の間に入り、距離が近づかないようにする。


「私ともう一回キスしてくれるなら落ち着いてあげる。」

「それは落ち着く気のある人が言う言葉じゃない。」

「梨沙がいない時にはしたんだから、一回したら後は二回も三回も変わらないでしょ。」


 頬へと伸びてくる手を払いのける。

 反対側からの視線が痛い。


 「俺が悪い部分もあるからこういうことを提案するのはおかしいと思うけど、一旦落ち着こう。二人とも感情的になりすぎてて危ないから、今日の所は帰ることにして明日か明後日にもう一度話し合おう。」


 要するに先延ばし。

 二人の心の中は様々な感情が絡まりあって、まともな話し合いなどできるはずもなく、未来よりも今を重視しがちである。再び暴力沙汰にならないとも限らない。

 俺も何を考えようにも困惑が先に来てしまう。

 時間がそれらを和らげてくれることを信じて俺はそう提案した。

 いや、そんなものは言い訳に過ぎない。

 考える時間が欲しいだけ。

 無力で情けない俺がこの場から逃げ出したいための提案。


 不思議なことに柊も日笠も素直に応じてくれた。

 帰り支度をする間は無言で、去り際に「お邪魔しました。」と口にするのが精一杯だった。


 正直、ほっとした。

 柊を家に送り届け、自宅に帰って色々と考えた。

 考えるふりをした。

 何も思い浮かばなかった。

 何を考えたらいいのかわかっていないのだから当然だ。


 翌日も日笠は部活に来なかった。

 柊は無理をして出席し、顔色が優れないのを先輩や顧問に心配され、午前で早退したらしい。


 日笠恵が自殺を図り、病院に運ばれたと聞いたのはその日の夕方だった。

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