第13話 Est-ce que cet amour est un péché?

 覆水盆に返らず。

 割れた壺は元には戻らない。

 起きてしまったことはなかったことにならない。

 だからこそ、そこで立ち止まるのではなく、次に進む方法を考えなくてはならない。戸惑っている時間はない。

 言うのは簡単だ。

 実際に割り切るのは難しい。人は過ぎたことに囚われがちだ。そこで心が折れてしまう事もある。落ちる時は一瞬で、上るのは難しい。

 人間関係は簡単ではない。

 口にしていることが真実とは限らないし、表面上の関係が正しいとも限らない。

 俺たちはそれをよくわかっている。


 会話が苦手なのは相手の想っていることがわからないからだ。相手が何を言いたいのか、言葉にしていないがどういう気持ちで話しているのか。そういったことを読み取る能力が低かった。

 柊と俺は思っていることをできるだけ言葉にして相手に伝えた。

 だから、お互いに理解者であった。

 そのことを今一度考えてみるべきだった。



 翌日、俺は日笠の部屋にいた。

 恋人がいるのに別の女子の家に、それも二人きりという状況は浮気に当たる可能性もある。いくら相手が日笠だとは言え、柊の判定基準に従うならアウトだ。

 柊と日笠は今日も部活を休み、俺は昨日同様に午前のみの練習に参加した。

 午後に柊の様子を見に行こうと思っていたのだが、『まだ、悠に見せられる顔してない。』と断られた。

 そんな矢先に日笠からのメッセージが入ったのだ。


『昨日はごめん。梨沙のことで相談したいことがあるの。ちょっと外に出られるような状況じゃないから私の家に来て欲しい。梨沙には内緒で。』


 文章を読んだ瞬間は断ろうと考えた。だが、昨日の言葉と異なり休んでいた彼女のことも心配だった。それに俺のせいともいえる状況を変えるには自分が動くしかないと思ったからだ。


『わかった。昼飯食べてから行くから十三時半くらいになると思う。』


 恋人のことを考えるならばこういった不誠実なことをしない方が良いとわかっていても、何もせずに待っているだけではいられなかった。

 日笠の家は俺の家と駅のちょうど中間にあり、近くまで行ったことはないがなんとなく場所は知っていた。

 駅前のファストフード店で牛丼を食べ、予告したくらいの時間に「日笠」と書かれた表札の前に着いた。

 白い外壁の二階建ての一軒家には当然客用の駐輪場などなく、乗って来た自転車をどこに停めるべきか迷う。


『着いた。自転車どうしたらいい?』

『車の横に停めておいて。私の自転車のあるところ。』


 返事が一瞬で返って来た。

 あまりに早かったのでずっと見ていたのかとも思ったが、そろそろ来る時間だからと気にしてくれていたのだろう。

 言われた場所に駐輪し、インターフォンに手をかけたところで躊躇う。

 何も聞かずにやってきたものの親御さんはいるのだろうか。そもそも柊以外の女子の家に来るのは初めてではないか。などと考えてしまったためだ。


「いらっしゃい。早く上がって。」

「あぁ。おじゃまします。」


 結局、俺がボタンを押す前に玄関のドアを開けて日笠が招いてくれた。

 緊張しながらも促されるがままに靴を脱ぎ、家へと入る。


「心配しないで、家族は夜まで帰ってこないから。」


 事も無げに告げられたその言葉は安堵と心配を同時にもたらした。

 余計な緊張はしなくていいが、俺に下心がなくても外聞の良くない状況であることは確かだ。

 色々と考える俺とは対照的にどこか楽しそうな彼女に導かれ、二階に上がり、最初の部屋に入る。日笠がスカートなことをに配慮して、階段を上る間は上を見ないようにした。

 学習机、見覚えのある教科書の並んだ本棚、畳まれた布団、部屋の片隅に置かれたギターケース。雰囲気や匂いがここは日笠の部屋なのだと教えてくれる。


「乙女の部屋をジロジロ見るのはどうかと思うな。女子の部屋に来るの初めてってわけでもない癖に。」

「ごめん。」

「そんなに見られると恥ずかしい。男の子家に呼ぶの初めてだし。」


 無遠慮だったと反省しながら、どこを見ていいかわからずに日笠を見る。

 家だというのに制服を着ている彼女は昨日のことを気にしていないかのようにいつも通りで、俺が知っている日笠恵だった。


「そこに座って。お茶入れてくるね。」

「そんなに気を遣わなくていいよ。」

「湊こそ、遠慮しなくていいよ。私と湊の仲じゃない。」


 荷物を端に置き、カーペットの敷かれた床に座る。

 飲み物とお菓子を持ってきた日笠がそれらをローテーブルの上に置き、向かいに座る。

 昔もこういうことがあった。柊と部屋で初めて二人きりになった時だ。いつもは何も考えずに話せていたはずが、言葉が出てこなくなる。会話のきっかけがつかめない。


「昨日はごめん。」


 震えた声が聞こえた。

 さきほどまで楽しそうに振る舞っていた彼女も気にしていたのだと今更になって気が付く。


「日笠は悪くないよ。あれは梨沙が変なこと言い出したのがきっかけなんだし。俺だって横で見てたのに何もできなかったし。」

「梨沙も湊も悪くないよ。特に湊があの子止めてくれなかったら私殴られてたと思うよ。まあ、自業自得だけどね。」

「いや、誰が悪いとかそういうわけじゃなくて。とにかく、日笠は気にしなくていいから。」

「優しいね。そういうのなんかずるい。」


 そう言って笑う。

 不意打ちにドキッとする。

 いつもの明るい彼女の表情。

 そのはずがどこか弱く見えた。


「そういえば、相談があるって言ってたよな。」


 話を次へと進める。

 女子の部屋にいることを一度意識してしまえば馬鹿な心臓が鼓動を早め、心なしか体温が上昇する。

 浮気ではないが、限りなく浮気に近い。この状況から脱出するためには話をしなければならなかった。

 追撃をかけるかのように座ったまま俺の方へと近づいてくる日笠。

 目をそらし、平常心を保ちながら彼女の言葉を待つ。


「そうそう。梨沙が昨日言ってたことなんだけど。」

「どのこと?」

「私が悠のこと好きだって話。」

「あぁ、そのことか。変なこと言ってごめん。梨沙って思い込―」


 言葉が途切れる。

 いや、止められた。

 口をふさがれた。

 唇に触れる柔らかい感触、熱、眼前の彼女。

 キスをされている。

 そう気が付くまでに少しかかった。

 あまりにも突然のことに頭は付いて行かない。


「私の気持ち、なんでバレたんだろうね。」


 唇を話し、耳元でそう囁く。

 俺に身体を預けるようにして抱き着いてくる。

 思うように力が入らず、押し倒される形になる。

 柊比べて小柄な彼女に力負けするなんてことはないはずなのに、抵抗ができない。


「なんで?」

「なんでキスしたかって?悠が好きだから。」

「いや、でも、だからって。」


 何か言おうにも思考はまとまらない。

 状況は把握している。だから、わかる。これはやばいと。

 怖くて見れないが、彼女の目はきっとあの頃の柊と同じ目をしているのだと思う。

 壊れてしまいそうな、狂ってしまいそうな、惹き込まれてしまような目。


「頑張って隠してきたつもりなんだけど、梨沙は本当に鋭いよね。それだけ、悠のこと気にしているってことだよね。羨ましいな。その想いが報われているなんて。」


 泣いている。

 実際に涙は流していないのにそう感じた。


「私は梨沙のことも悠のことも好きなんだよ。二人といると楽しいし、いつまでも話していられるような気にもなる。だけど、いつからか一緒にいるのが辛くなってきたんだ。梨沙のことが羨ましくなって、妬ましくなって、嫌いになっていく。そんな私が嫌い。馬鹿みたいだって笑ってよ。叶わない恋で悩む私を。いつか梨沙に打ち明けてしまった方が楽なのかなとは思ってたんだけどなぁ。でも、昨日の梨沙の言葉はグサッときたなぁ。私の想いでは梨沙には敵わない。そんなことわかってるんだけど、あれはないよね。私がどれくらい悩んでるかわかってて言っているのかな。梨沙にとって私は恋敵になれば簡単に切り捨てられる存在だったのかな。そんなこと考えてたらどうでもよくなってきてさ。気持ちが抑えられなくなって今に至るって感じかな。どうわかった?」


 矢継ぎ早に吐き出される想いはどれも痛々しかった。

 俺は彼女の好意に気が付いてあげられなかったどころか、傷つけていたのだと思うと苦しくなった。それくらいに思い言葉だった。

 今の状況が浮気だとか関係なく、彼女に何かしてあげたいという気持ちになる。


「同情するくらいなら梨沙と別れて、私と付き合って。」


 それを見透かしたように言葉を告げる日笠。

 沈黙が場を支配する。この場においてそれは金ではない。

 雰囲気を裂くようにインターフォンが鳴る。

 ビクッっと反応こそすれど、日笠は動かない。


「出ないのか?」

「家の人がいない時はでないように言われてるの。」


 何度か鳴ったあと、音は止み、また別の音が鳴る。

 日笠のスマートフォンから流れる着信音だ。

 机の上に置かれたそれを取り、確認したかと思うと、満面の笑みを作り、画面を俺の方に向ける。


『恵。開けて。そこに悠いるんでしょ。』


 「柊梨沙」と表示された通話画面から聞こえた声に心臓が止まりそうになった。

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