第11話 triangle amoureux

 何事にも必ず予兆はあり、それを見落としているから突拍子もなく思うのだ。

 特に人間関係の変化は急激に訪れるなんてことは少なく、積もり積もったものが崩壊するような形で何かが起きるのだろう。

 一緒に過ごしているから些細な変化には気が付きづらく、少し離れてみている他人のほうがそれには気づきやすいなんてことも少なくはない。


 高校生活最初の夏休みは思い通りに行かないことの連続だった。

 柊とデートしようにもお互いに部活があり、特に彼女の方は一週間のうち六日も練習日となっていた。

 聞けば吹奏楽部というのは中学生の頃からそういった感じではあったそうだが、高校生になってからはその時間がもっと増えたのだそうだ。それでも一日休みがあるだけ他校よりはマシだというので驚きだ。


 彼女の部活が休みなのはお盆の間だけだ。その期間、俺はちょうど両親の実家のある愛知県に帰ることになっていたので会えなかった。

 高校生になってからは何かしらの形でほとんど毎日会えていたものが急に会えない日が続くようになると、彼女はより一層不安定さを増していった。

 毎日、彼女と何かしらの形で連絡をしている俺が一番最初に気が付くべきなのだろうが、俺に忠告をしたのは日笠だった。


「梨沙の不安をぬぐってあげて。」


 八月も下旬に差し掛かるころ、部活の帰り道、俺の耳元でそう囁いた。

 日笠の吐息が耳にかかりくすぐったさを感じる。

 そう一言告げると彼女は俺から少し離れる。

 柊が不安定になっているのは薄々気が付いてはいたが、日笠にそう言われるほどに危ない状態であるとは思っていなかった。


「日笠。何か言われたの?」


 何か言いづらいことがあるかのように俺から目線をそらす。

 女同士の会話の内容に深く踏み込んではいけないという無言の主張だ。


「あまり内容は言えないけど。夏休みに入ってから、あまり会えてないんでしょ?そのせいかもしれないけど。湊が誰かに取られるんじゃないかって不安みたいで。彼氏として梨沙のことちゃんと支えてあげてね。」


 周りに聞こえないように配慮してか、再びいつもより俺に近づいて話す。

 ふわっと優しい良い匂いがして、ドキッとするのを抑え、日笠を見る。

 心配そうな表情とは裏腹にどこか嬉しそうな声色が、何かを感じさせる。


「明日はちゃんとデートできるからその時にでも話しておくよ。」

「たっぷりと愛を囁いてあげてね。」

「なんか言い方に棘があるな。」


 傍から見れば恋人にさえ見える距離感を保ちながら、日笠を俺の横を歩く。

 柊の不安を早く解消して、また三人で笑いあえる日が来ることを、ただ望んでいた。



「違うよ。おかしいのは恵の方。」


 翌日、日曜日。一糸纏わぬ柊は言う。

 三週間ぶりのセックスを終え、シャワーも浴びず、俺に抱き着いたままくつろぐ彼女に俺はありったけの愛を囁いた。

 彼女のことをどれほど大切に思っているか。他の女などどうでもいいという事。果てには望むなら結婚さえ何も躊躇わらないこと。だから安心してほしいと。

 恋人の不安を取り除くために、時にキスをしながら、肉体に触れながら、想いを伝えた。

 昨日、日笠が言っていたのはおそらくこういう事も含んでいたのだろう。俺たちが健全で爛れた恋人関係であることを察し、もしかすると軽くは柊から聞いて知っているからこそ、帰り際にああいった言い方をしたのかもしれない。

 どちらにせよ、柊からの返答は予想外だった。


「私も色々と疲れてたけどさ、それよりも不安定なのは恵だよ。」


 お互いの素肌が触れ合う距離のままそう続ける。


「日笠のどこがおかしいんだ?梨沙のことを心配していただけだと思うけど?」

「たぶん悠にはわからないと思う。恵とずっと一緒にいるから気が付いてないんだよ。あの子、前と変わってるよ。悠への態度も距離感も。」


 悲しそうな瞳が俺を見つめる。


「何か嫌われるようなことしたかな?」

「逆だよ。」

「逆って?」


 その続きを聞いてはいけない気がした。

 でも、いや、だからこそ、その先を彼女だけに背負わせてはいけない。

 柊梨沙の理解者として、彼女と共にあるべきなのだ。

 彼女が一呼吸置くのがわかる。


「恵は悠のことが好きなんだと思う。」


 声が震えていた。

 言葉にしたこところでどうすれば良いかわからないからだろう。

 柊を優しく抱き寄せる。

 彼女の柔らかい肌が、豊かな胸が触れる。

 生肌の匂いが、染髪料の香りが、俺を包み込む。

 不思議と興奮はしない。凪ぎのような安らかさに包まれていた。

 少し前に射精したばかりだという事もあるが、今は彼女がそこにいることへの安心感が強いからだろう。

 腕の中の彼女が顔をあげる。


「悠は気が付いていた?」

「いや、全く。それは梨沙の思い違いとかではない?」

「私も最初は気にしすぎじゃないかなって思ったし、悠のことをよく話すようになったなとかよく聞いてくるようになったなとか、それくらいの認識だったよ。電話とかメールだとわからなかったけど、直接会って話してわかったの。悠の話していると顔は笑ってるのに、どこか辛そうだなって、悲しそうだなって、私と話してるのに悠のことを考えてるなって。他にも、ここ最近、悠と話すときの距離を意図的に縮めてる気がする。他にも思った所はいくつかあるけどさ。」


 女の勘という奴だろうか、それとも気づいてないのは俺だけなのだろうか。

 背中に回された彼女の腕に力がこもる。


「いつから?」

「わからない。でも、ここ一ヶ月くらいだと思う。夏休みに入る前くらいから恵の雰囲気が変わった気がする。それに気が付いてる人は他にもいるみたいで、悠と恵が付き合ってるんじゃないかって私に聞いてきた人もいた。」


 もちろんその度に私の彼氏だって主張した、と笑って付け加えた。

 この一ヶ月で彼女に変化はあっただろうか。

 思い返してみても心当たりはなかった。


「そんなに変わった?」

「わかる人はわかる程度には。外見だってそうだよ。あの子、あそこまでお洒落とかに細かく気を遣ってなかったし、休日には軽く化粧をしてるなんてこともなかったよ。男の子はそういうところわからないかもしれないけど、あれは恋する乙女って感じの変化。彼女でなくても、ちょっと何か変えたら気が付いてあげなきゃ。」


 何故か責めるような口調。誰の味方だと言いたくなるが、女性の見方なのだろう。

 それが柊の変化であったら俺は気が付いただろう。

 逆にそこまで俺は日笠をじっくりと見て覚えていなかった。


「俺は日笠とどう接するべきだろう?」

「今まで通りでいいんじゃないかな。とりあえず、気づいていないことにしてさ。と言いたいところだけど、それは何の解決にもなってないよね。そう言う嘘は女の子にはすぐにわかっちゃうしさ。」

「『俺のこと好きなの?』なんて自意識過剰みたいで聞けないし、本当に俺のこと好きでも好きじゃなくても変な空気になっちゃうじゃん。」


 柊と唇が重なる。

 おそらく意味のないキス。

 場を和ませるためだけの、何かを切り替えるためのジングルのようなもの。


「私もどうしたらいいのかわからないの。怖いの。これをきっかけに恵との関係が壊れちゃうんじゃないかって不安で仕方なかった。ううん、今も不安なまま。冗談で言ってたことが本当になってしまって、大切な親友を失うんじゃないかって、悠まで失っちゃうんじゃないかって怖いの。」


 背中に回していた手を動かし、彼女の頭をなでる。

 彼女の頭を少しだけ自分の方に寄せる。

 柊は俺の首筋を舐め、唇を当てる。

 チクッっとした痛みが刺す。

 再び首に舌が這う。

 何度かそれを繰り返し、満足したのか彼女は笑う。


「決めた。」

「何を?」

「ちゃんと恵みと向き合ってみる。」

「どうやって?」

「悠は私の彼氏だって宣言する。」


 そう語る柊の目は、中学生の秋の日、俺を襲った時と同じものだった。

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