病と明かさぬ夕べ

土佐岡マキ

病と明かさぬ夕べ

 学校指定の革鞄は歩くたびに持ち手の金具が上下して、カチャカチャと小うるさい音を立てる。はるかの背後からも同じ音が聞こえる。

 後ろを歩いているのは、きっと江波えなみ透夏とうかだろう。

 悠が通う中学校では大半が部活動に入っているため、この時間に帰路に着く生徒は多くない。そもそもこの道を通学に使っている生徒なんて、悠と同じアパートに住む彼女ぐらいのものだ。

 振り返るとやはり。立ち止まって江波が追いついてくるのを待つ。

 彼女と話すようになってから数ヶ月。暇つぶしの相手ができて以降、それまで習慣になっていた寄り道を辞めた。示し合わせたわけではないが帰宅時間が重なることも多い。

 長く一緒に帰っていれば、歩き方の癖も何となく分かってくる。ゆっくりだが規則正しい足取りは、いかにも優等生らしい。

 俯き気味だった顔が、緩慢な動作で悠の方を向いた。

「……西末にしずえくん」

 妙だと思った。

 お互い猫を被るつもりがないため、必要以上に愛想良くする必要もない。だが、普段の江波はもう少し表情がある。

 それに視線が合わない。癖なのかは知らないが、いつも江波は話しているとき他人の目をまっすぐ覗き込むようにして見る。しかし、今は上手く焦点を結ばず、数秒でふらりとそらされた。

「江波さん、なんか変?」

 反応を返すのも遅い。何を問われているか把握すると、わざとらしく首をかしげてみせる。肩に付かない長さの髪が耳からさらりと落ちた。

「普通だよ?」

「そう見えないから言ってるんだけど」

 少女の口元が弧を描く。子どもらしさを残さない美しい微笑。悠には、それが計算されたものだとすぐに分かった。無難にかわし、曖昧にその場を治め、本心を悟られぬようにするための笑い方だ。悠自身もよく浮かべる類の。

「別に何でも、……」

 何でもない、と続こうとしたであろう声が、途中で掠れて途切れる。江波は声を取り戻そうと反射的に咳き込んだ。前かがみに体を丸め、口元を押さえる手から苦しげな呼気が漏れる。

 この時点でもう、負けを認めたようなものだ。

「顔色悪いよ」

「普通、だよ」

「大嘘だ。風邪?」

 江波は眉を下げると、カサついた声で小さく零した。

「……隠せると思ったのに」

 それも、嘘。口には出さず内心で呟く。

 悠に知られたくないのなら、下校時刻をずらしてしまえばいい。二人は決して待ち合わせの約束をしているわけではなく、偶然タイミングが合えば一緒に帰る程度の関係だ。

 しかし江波は、悠が様子をうかがうことのできる位置を歩いていた。

 その行動から考えるに、体調不良を自分から伝える気はなかったが、気付かれることを期待してもいる。あのわざとらしい作り笑いがその証拠だ。

「助けが欲しいなら、そう言えば」

 そう言うと、きょとんとした顔がこちらを向いた。そこまでは求めていなかったらしい。もしくは、無意識の行動か。

 それもそうかと思い直す。江波は少なくとも、進んで弱みを見せたがるタイプではない。

「ほら、荷物」

 渡せと手を差し出せば、戸惑う様子を見せる。

 江波は他人を頼るのが下手だ。母子家庭という環境で、自分のことは自分でやるのが当たり前になっているのだろう。

 それでも、使えるものは使えばいいし、甘えられるなら甘えればいい。悠はそう開き直っているのだが、江波がそうできないのはきっと、我儘でお荷物だと評価されるのを恐れているから。

 悠も似たような境遇なので、その気持ちは少しだけ分かる。


***


 外見ほど余裕がある状態でもなかったらしい。

 家に着くなり玄関先にへたり込む江波を尻目に、悠は靴を脱いで勝手に上がり込んだ。悠の住む上階の部屋と間取りは同じだ。いつも通されるリビングを通り抜け、奥に向かう。完全にプライベートな空間へ足を踏み入れるのには、少しだけ躊躇いを覚えたが、緊急事態だと言い訳しながら江波の部屋に入る。

 隅に寄せてあった布団を敷いて玄関に戻ると、江波は靴を脱いだその場で、壁に体を預けて座り込んでいた。

「布団敷いたけど、歩ける?」

 肩を叩くと、江波はふらつきながらも立ち上がった。悠は置き去りにされた鞄を持ってそのあとに続く。

 江波が着替え終わるまでの間、手持ち無沙汰になったので、取り敢えず台所でコップに水を汲んだ。濡らしたタオルを絞り、ついでに、傍にあったパンの袋も抱える。

 悠にも看病の心得があるわけではない。悠のことを親身になって看病してくれるような人は、物心着いた時にはいなかったのだから。しかし、首を突っ込んだ以上「寝てれば治る」で済ませるのも乱暴だとは思う。

 必要そうなものを頭の中で並べながら江波の部屋に戻ると、彼女はちょうど布団に入ろうとするところだった。コップを手渡せば少しずつ口を付ける。嚥下するとのどが痛むようで、その度に顔をしかめている。食欲はないらしく、パンには手をつけようとしなかった。

「体温計とか薬ってどこ?」

「リビング……くすりばこ」

 体温計はあったが、風邪薬は見つからない。戻ってその旨を伝えると、江波は苦しげな呼吸のまま小さく頷いた。

「親が帰ってきたら、病院に行きなよ。それまでおとなしく寝てな」

 しかし、江波は首を振る。

「……お母さん、今日は『出張』だから」

 その言葉で合点がいった。だから、不本意であっても悠に弱った姿を見せたのだ。

 江波の母親は仕事を名目に家を空けることが多い。不自然なほど頻繁な『出張』や『残業』が実際何を指しているのかは知らないし、江波も鵜呑みにしてはいないだろう。だが、どちらにせよ母親が帰ってこなければ江波は一人。この状態で最低一晩を過ごす事になる。

 悠は保険だ。万が一、何かあったときのための。

「保健室に行けばよかったのに。そうすれば学校から保護者に連絡が行く」

 悠が言うと、ぼんやりと天井を見上げる瞳が安堵の色を浮かべた。

「……よかった、帰ってきて正解だ」

「何それ」

 あくまで母親の都合で物を言う江波に苛立った。思わず吐き捨てるような口調になる。

「こういうときぐらい呼びつけたらいいんだ」

「……西末くんは、できるの? 熱出たときにお父さん呼べる?」

 熱に潤む目が、見透かしたように細められる。

 父子家庭である悠にとって、反論しづらい返しだった。ましてや悠の場合、父親との関係はあまりよくない。

 黙り込んだ悠を見て、江波は用が済んだとばかりに背を向けた。スマートフォンのアラームをセットしながら、声だけをこちらに投げる。

感染うつらないうちに帰って。他人ひとのことなんて心配してる場合? そっちだって、風邪ひいたときに看病してくれる人はいないんだから」

「……それだけ減らず口を叩けるなら平気だね。じゃあ」

 悠が立ち上がりかけると、西末くん、と掠れた声が悠を呼び止める。

「ありがとう」

「別に、大したことはしてない。もう寝たら」

 江波は素直に頷いて目を閉じた。

 去り際にもう一度水を汲んで、枕元に置きに行った。まだ寝入ってはいないらしく、江波は僅かにまぶたを震わせる。

「ここに水置いとくから、ちゃんと水分摂りなよ」

「うん……」

 今度こそと部屋を出ようとする悠の背に、夢うつつで囁く声が届く。それには答えなかった。



 玄関まで来て、靴も履かずに座り込む。

 手元には江波のスマートフォンがある。パスワードも知っている。先ほど江波の操作を盗み見た。あとは、行動に移すかどうか。


――おかあさんには、いわないで。


 熱にうかされた江波の願いに、どうしようもなく苛立った。そんな事を言う理由も事情も知っている。そして、本音も。

「……僕が言うこと聞く義理はないよ」

 四桁の番号を打ち込んでロックを解除し、電話帳を呼び出して一番上の番号を叩く。無機質な呼び出し音が耳元で鳴り始めた。


***


 結局、学校を休む羽目になった。

 朝からずっと眠りは浅く、咳き込むたびに目を覚ましていたが、昼過ぎからようやく落ち着いてきた。しかし、夕方に響いたチャイムの音に睡眠を妨げられる。

 親は仕事に行ったから家にいるのは自分だけだ。セールス相手なら居留守を決め込むのだが、きっと違う。

 重たい身体を引きずり、上着だけを羽織って玄関へ向かう。寝起きで部屋着のままだが知ったことか。投げやりな気分でチェーンを外し、ドアを開ける。

「……治ったんだ?」

「おかげさまで」

 開けたドアの向こうには、江波透夏が立っていた。



 学校からの連絡プリントと一緒に、冷却シートやゼリーなどが枕元に並べられる。しかし、手を伸ばしかけた悠を、江波の手が咎めた。さっきまで外に居たからか、それとも悠に熱があるせいか、江波の手がやけに冷たく感じる。

「……お母さんに電話したでしょ」

 普段より低めた声が二人の間に落ちた。

「一体、何の」

「発信履歴が残ってた」

 証拠がある以上、言い逃れはできないだろう。苦しい言い訳を重ねることはできても。

「寝ぼけて自分でかけたんじゃない? 大体、僕がかけたとして、何て言うわけ。体調不良の娘さんに付き添ってる男って、その前置きだけで言い合いになるのが目に見えてる。それともまさか江波さんの声真似をしたとでも?」

「先生の振りでもしてかけたんでしょ」

「そんなの声で」

「バレないよ。面談で一度しか会わない人の声なんて、きっと覚えてない」

 悠の無言は肯定と取られた。

「言わないでって言ったのに。お母さん、結局早めに帰って来たみたい。あまり覚えてないけど、何回かタオル替えてくれた」

「よかったじゃん」

「よくない! 大体、勝手に携帯……」

 文句を言いつつ、冷却シートを額に貼る手つきは優しい。何だかんだと言いつつ、感染うつした責任を感じて、律儀に看病に来たのだろう。



『私いま出先で……そんなに酷いんですか』

 電話に出た江波の母は、困惑した声でそう言った。否、困惑よりももっと酷い。迷惑そうな声だった。だから、言ってやったのだ。「大丈夫ですよ」と。

 安堵を隠さず電話を切った女は、翌日まで帰っては来なかった。

 それまで傍に付き添っていたのは――こんなこと、江波は知らないままでいい。



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